死にたがりの魔導師 (二)
あ、結合するの忘れてました。
だが、結界に風穴を作り、そこに主を通すという、この何の実害もない行為に対しては、主命に従うしか我に選択肢はなかった。
半ばトージャに引き摺られるようにして、結界の中を潜り抜けた主は、結界の魔力場から抜け出すなり、トージャの腕を振りほどいてその場に踞ってしまった。
霧の晴れた視界には中の門といわれる、贅を凝らした彫刻に彩られた、魔力ではなく宝玉や石材で造られた本当の門が現れる。この先にアネイの中枢機関、皇家や高位貴族が住まう神王宮があるのだ。
だが、主にそんなものを眺める余裕はない。
「おい……」
さすがに尋常ではない様子の主へ、トージャが手を差し伸ばす。ふざけるな。この期に及んでまだ主を苦しめるというのか。
『触れるな!』
近づいた掌に魔力の残響を感じた我は、怒りのあまり思わず刀の封印から姿を具現させてしまう。
声を上げただけのつもりだったが、主の意識が弱まっているからだろう。勿論、正式な許しがないので、所詮は幻に限り無く近い姿だったが、忌々しい魔導師を主に近寄らせない役目としては充分だった。
翼を広げ、主の前に躍り出た我に、トージャは驚きに目を見張った。
「精霊『白夜』……本当にこの男に憑いているのか」
主にはまだ一度も呼んで頂いたことがない名を軽々しく言い当てられ、我は不快感に牙を剥き出した。
『黙れ。我が名を呼べるのは主だけだ』
我が本性は人間が天狼と称する、銀の竜尾と白鷲の翼をもつ巨大な白狼だ。太古、人と神の争いに巻き込まれた後、刀に封じられ、主従の宿命を背負わされてから、長くアネイの秘宝として眠りを強いられてきた。
そして百五十年前、この宮廷の奥で主に出会ったその瞬間から、我はこれの為だけに世界に在ることを決めたのだ。
憑いている、というのならば、この人の子に魅入られ、取り憑かれているのは我の方である。
トージャは我を仰ぎ見、その後、地面にしゃがみこむ主へと視線を移す。
「……こいつでは、駄目だ」
トージャの言葉に明確に示された深い絶望に、我は漸く、主が魔力に溢れたこの場所に自ら赴いた理由を察した。
我が主と認めた瞬間から、この魔術嫌いの魔導師に課せられてしまった宿命を思い出す。
「でしょう?」
主の、汗で重くなった髪の隙間から、感情を殺した灰色の瞳が、自嘲的な笑顔と共に真っ直ぐトージャの暗い眼差しと交わった。
主が顔を上げると同時に、目の前の門が、重く軋みながらゆっくりと開かれる。
「シロ、戻れ」
主は短く我に告げて、我の幻影が吸い込まれていく刀を支えに立ち上がった。
開かれた門の向こうには、更に宮廷内部へと繋がる白い石段が続いている。手前の広場には、路地裏で主を取り囲んだ倍の数の魔導師と、その更に倍の近衛兵がずらりと待ち構えていた。
中央に立つ魔導師が列から歩みでると、トージャは深く頭を下げて礼を示した。
細くつり上がった魔力を示す緑色の目の、痩せた初老の魔導師である。
これだけの魔力を持ち、既に老いが始まっている姿を鑑みると、主には遠く及ばないが、それなりに長く生きる魔導師なのかもしれない。
魔導師はトージャから主へと見比べるように視線を移し、怪訝そうに主を凝視した。
結界の中で気力を使い果たし、いつにも増してみすぼらしい主の姿を、無遠慮に舐め回し値踏みをするような、酷く不愉快な視線だった。
主はその視線に気付いていないような素振りで、隣に立つトージャにこいつは誰だと目で促した。
「シン・ロウ大導師、こちらはルムド・サザシラ導師です」
トージャが口調を整えてそう紹介する。シン・ロウの名を強調したその声に、ルムドという魔導師は、はっと居住まいを正す。
「御目にかかれて光栄に御座います」
ルムドは漸く主から視線を外し、深く頭を下げた。惜しい、あと一瞬遅ければ、我の我慢も限界だったというのに。
主は無言で、ルムドを見下ろしている。
その視線が路地裏で現れた移動陣に向けた物と同じであることは、我以外には気付けないだろう。
「突然のお招きに応じて頂き、誠に……」
「疲れました」
慇懃に連ねられる魔導師の定型された文句を、我が主が律儀に全て聞くわけがない。
「は……?」
「この顔を見てわかりません?わたし、もの凄く疲れちゃったんですよ。こいつのせいで」
びしりと主に指差されたトージャが呆れ果てた溜め息を漏らす。
「は、それは我が部下がとんだ御無礼を……」
我が部下、の箇所で、トージャの鋭い眼差しの中に隠しきれない不快感が過ったことを、主は気付いただろうか。
まだ、血の気のない顔ながら、どうやら精神的な調子は取り戻した様子の主が、軽薄な口調で喋り出す。
「どーせ、服がどうだ、髪型がどうだとか言って、今すぐちゃちゃっとライワンとリリシアに会って、はいサヨナラ〜って訳には行かないんでしょう?だったら客部屋なり牢屋なり、ゆっくり出来るとこにさっさと案内して頂きたいんですけど」
さらっと皇帝と皇后を名指しで呼ぶ主に、ルムドは目を白黒させて言葉を失ってしまったようだ。
固まってしまった魔導師長に痺れを切らして、軽く苛立ちを含んだ声音でトージャが言った。
「差し支えなければ、このまま私がご案内させて頂きますが」
「あ、ああ」
我に帰ったルムドは、頷きながらも、困惑した表情を隠せない。
「清月の離宮でしたら、大魔導師様もごゆっくり寛げるかと」
「そ、そうだな、そちらへご案内せよ」
淡々と話を纏めるトージャに、主が口を尖らせる。
「えー。清月って、こっから一番遠い離宮じゃないですか」
拗ねた子供のような主に対して、どう接していいか分からない様子のルムドを他所に、トージャは顔色も変えず手に魔力を宿す。
「……移動陣をお使いになられますか」
心中舌打ちをしているだろう主は、それでも流石は表情に現さず、にっこりと人好きのする笑顔で首を振った。
「いえ、お構いなく。ちょうど、懐かしい宮廷をゆっくり歩いてまわりたい気分でしたし。静かで良いとこですよねー。清月の離宮。さ、行きましょうか」
歩き出す主を怖れるかのように、魔導師と兵士たちが後退りして道を開けた。
ずらりと並んだ衛兵達は、戸惑いつつも目の前を横過ぎる主に礼を示す。
これが「シン・ロウ」でなければ、問答無用で燃やされるか、切り捨てられてるかしていただろうに。
トージャは、取敢えずは名目通り、形だけでも主を先導する格好をとろうと、足早に主の隣に並ぶ。
「じゃ、サザシラ宮廷魔導師長、後ほど、また」
呆然と二人を見送るルムドに、主は振り返り、穏やかに微笑んだ。
主の微笑みに潜む酷く冷酷な眼差しは見抜けないまでも、明かさなかった自身の新たな肩書を見抜かれていた事実には気が付いたのだろう。
ルムドは息を飲むように目を見開き、何か言おうと口を開く。だが、既に主が声の届かぬ場所まで歩いていってしまったのを見ると、忌々しげな表情を隠すように頭を垂れた。
主はその姿には一瞥もくれず、白く整然と敷き詰められた宮内へと続く緩い石段を気だるげに登り始めるのだった。
「と、トージャ君、わたしを、殺すつもりでしたらね」
ぜぇぜぇと息も切れ切れの主がそんなことを言い出したのは、我を杖代りにしながらも、なんとか長い石段を登り終えた時だった。
そういう発言を主がするだろうことは、先程からトージャより発せられているこの張り詰めた気配を感じていれば、我にも容易に想像が出来ていた。
だが、何もそんな運動不足の膝ががくがく笑っている最中に切り出す話題ではないだろう、とは思う。
既に先に登りきって主を待っていたトージャに全く疲れた様子はない。
移動陣を使える魔導師が、普段この石段を歩いて登ることもないだろうが、普通に主ほどひ弱ではないのだろう。
ただ、主の発言には驚いたようで、返す言葉は見つからないようだ。トージャは不審げに、まだ顔色が戻らない病み疲れたような主の顔を凝視した。
「わたしはこんなんですけど、シロが居ますからね。まずはちゃんと上手い策を考えて、ここぞって機会を見図らないと……」
「……馬鹿にしているのか」
殺されそうになっている者が、殺そうとしている相手に暗殺方法の助言を始めたら、まずそう捉えるのが一番無難なところだろう。
だが、そんな下らない冗談ではないということは、我が身を持ってよく理解している。
今までだってこれが、我を出し抜いて死にそうになったことは、一度や二度の話ではないのだから。
トージャの怒りに満ちた琥珀色の目に、主は臆することもなく、真っ直ぐに己の視線を絡めた。
「わたしを白の導師にするわけにはいかないだろう」
主は光を飲むような暗い色の瞳を細め、良く通る声で己の定めを断ち切るようにそう言った。
まだ、この男は認められぬのだ。
もう、受け入れて頂くしかないことなのに。
我は既にこれを選んでしまったのだから。
我が心中を見透かすように、主は自身を支える刀身を嫌味たらしく優しく撫で、布越しに我へ挑発するように言った。
「どんなに凄い精霊だって、一瞬の隙くらいありますよ。ね、トージャ君」
悪戯をけしかける悪童のような顔で、己の殺害を唆す我が主。この死にたがりの契約者を守ることの難しさに、我は改めて気を引き締める。
トージャは無言のまま、主の真意を見定めようとするかのように厳しい顔付きで主を見下ろしている。
その突き刺さるような視線へか、それとも我へと向かってか、主は苦笑いを噛み締めた。
「例えば……そうですね、わたしを殺そうとした人を、シロが殺している時、とか、ね」
まるで実情を含んだかのような、意味深な主の言葉に、トージャが不可解そうに眉を潜めた。
「どういうことだ?」
「わたしを殺したいのは、何もトージャ君とわたしだけじゃないってことですよ」
主のおどけた調子のその言葉は、我が無闇やたらに主に敵対する者へ牙を剥かないようにする為の牽制も含まれている。勝手に敵を殺ったらその間に死んでしまうぞ、という究極の脅しだ。
勿論、我だってそのようなへまを踏む気はない。
『守りきってみせるぞ。……たとえ、主が何を望まれようとも』
決意を込めて、外界に通る声で我は言った。
主は、精々頑張りなさいと投げやりに呟いて、荘厳な神楽が響き渡る宮に足を踏み入れた。
階段上に広がるこの場は、清蓮の庭と呼ばれている。その名の通り、蓮の咲き乱れる大池の上に幾重にも橋が掛かる水庭だ。
貴族が住まう各々の離宮や、院を付けて呼ばれる行政機関を繋ぎ、またハロナ皇家の住まう奥の真宮へも通じられる宮廷の中心的な場所だ。
我もこの場を見るのは百五十年ぶりだが、相変わらず常に貴族や魔導師、また警護の衛兵たちで賑わっていた。
主は迷いなく青い龍を模した見事な装飾の橋へと進む。既に役目を放棄した案内役がその後に続いた。
「まったく、ここは変わりませんね」
華やかに着飾った貴族たちの不審げな眼差しと囁きは、当然、主へと集まっている。
主は無頓着を装いつつも、久しぶりに感じる己への注目に、多少は戸惑いもあるのだろう。落ち着きなく視線を漂わせ、我が剣を持つ握力が僅かに強まった。
「余計なことを言うんじゃないぞ」
低い声で主に釘を指しながら、トージャは大きな身体と魔導師らしい威厳に満ちた態度をもって、咳払い一つで集まる不躾な視線達を払いのけていく。
擦れ違った貴族達が怯えた様子で道を空ける。
「あらあら、恐がられてますねー。トージャ君」
愉快げに茶化す主に、トージャは更に表情を固くした。
「魔導とはそういうものだろう」
「……ほう。良くわかってるじゃないですか」
主は感心したように僅かに眉を上げてトージャに振り返り、満足げにうんうんと頷く。
「それ、忘れないほうがいいですよ。その力に見合うだけ生きたければ、ね」
この世で一番魔導を恐れているこの人間は、だが、この世の誰よりも長く魔導に携わってきた人間でもあるのだ。
この忠告で、きっとトージャは主がシン・ロウであることを再認したのだろう。眼差しから僅かにだが、主の纏う年月に対しての敬意が感じられる。
主はその視線が煩わしいとでも言わんばかりに、若い魔導師に背中を向けた。
記憶を馳せるように目を伏せる。
「魔導に過信することなかれ、然れど目を背くこと非ず……か」
無意識に主の口から漏れたのは、最初の魔導師エジン・サラザンのものとして有名な言葉だった。
不意に朗々と響いた主の声に、せっかくトージャが散らした人々の注目が再び集まってしまう。
その数多の視線と、睨み付けるトージャの視線には気付かない振りで応じて、主は橋の欄干に寄って歩く。清池に咲き誇る蓮とそれを縫うように泳ぐ銀の魚に視線を落とした。
布越しに我を持つ手は、相変わらず汗ばんでまだ僅かに震え、主の顔色は悪い。
魔力によって枯れることのないよう造られた蓮と、魔術によって映し出される幻影の魚。
我がこの世界で一番美しいと感じる灰色の眼は、ただ無感動な動きで、何百年も変わらることのない、主にとっては懐かしくも忌々しい風景を映す。
「わたしでは、駄目だ」
主の良く通る澄んだ声音には、トージャの発したような落胆も絶望もなく、ただ淡々と事実を述べる無機質な冷酷さがあった。
トージャは複雑な思いを殺した暗い表情で、食い入るように主の痩せた背中を見詰めていた。
貯蓄をさくさく投稿中。