小さな決意
すみません。お久しぶりです。だいぶ間が空いてしまいました。
−エンジュ、キミは嘘を吐いてはいけないよ−
嘘を吐くな。小さい頃から、父様はあたしに口癖のようにそう言った。
一応言っておくけど、あたしは特別ひねくれた子供ではなかったと思うし、虚言癖があるとか、そんなことも全くない。
なのに、何かあるたびにそんな風に言うんだから、父様はあたしのことを信じていないんだって、幼いながらに悲しく思った記憶がある。
だけど結局、今もこうやって一言漏らさず思い出せるくらい、父様はあたしにそう言い聞かせ続けた。
−弱くてもいい、我が儘でもいい。キミは自分の気持ちを真っ直ぐ見詰められる人になるんだよ−
最後に会った去年の春の長期休暇まで、父様はあたしに沢山のことを教えてくれた。
あたしの無能っぷりに周りの誰もが諦めても、父様だけは見捨てたりしなかった。だから、自分を見捨てずにここまでこれたんだ。
だけど、父様はあたしに魔術の才能なんて始めから求めてなかったようにも見えた。
父様が求めたことは、正直に生きる、最初から最後まで、そのこと以外にはなかったような気がする。
−どうして?エンジュ、「あかのどうし」かもしれないんだから、つよくなきゃだめでしょ?−
それはまだあたしが今のロイくんくらいの年の頃。まだこの頃までは、あたしが魔術を使えなくても誰もがっかりしなかったし、大きくなりさえすれば、父様みたいに精霊を自由に操れるようになるんだって、あたし自身、疑ってはいなかった。
だから、父様のあたしに何にも期待していないみたいな口ぶりに、頬を膨らませて拙い言葉で反論したんだ。
思い出すのは、何かにすがるような父様の笑顔。あたしと同じ色の髪も目も、その時だけは、まるで違う色みたいに感じて、心細いような気分になった。
−エンジュ、いつまでも正直者でいるんだよ。それはね、精霊を捕まえるより、世界を救うより、ずっとずっと難しいことなんだ。僕たちはみんな、嘘吐きだから−
父様もガロン叔父様も、そう言えば笑顔だけは、シン・ロウ様にほん少しだけ似ているような気がする。いや、あんなに嘘っぽくはなかったけど。
−とうさま、エンジュに、うそ、いうの?−
−エンジュは気付かないだろうけどね−
父様が嘘を吐く。
無条件に父様を信じるしかない小さなあたしには、それは何よりも恐ろしいことで。耐え難い裏切りで。
まだ名前も知らないような感情の嵐に、あたしの目には、みるみるうちに涙いっぱいに溜まって、止めどなく溢れてきた感覚を今でもはっきり覚えている。
−やだっ。エンジュ、うそつかないから、ぜったい、うそなんていわないから、やだよ、とうさま、エンジュにうそついちゃ、いやよ−
あの時は、泣きながら、あたしは無我夢中で父様にすがりついたんだ。
だから、父様があの時、どんな顔をしてたのかは分からない。
どんな気持ちだったのかも、もうすぐ十五になる今でもまだ、分からない。一度も訊けなかった。
−ごめん、エンジュ、それは無理だよ。僕たちはもう戻れない−
父様は自分のことを、必ず「僕たち」って複数形で呼んでいた。それはガロン叔父様も同じように「俺たち」だったから、いつも一緒に行動してた双子の癖みたいなものだったんだろう。
でも叔父様はソニア叔母様と話すときは「俺」ってなってたから、父様も母様と話すときは違ったのかもしれない。だけど、母様を知らないあたしは「僕」と父様が言うのを一度も聞いたことがなかった。それはガロン叔父様が亡くなってからも、変わらなかったから。
−僕たちの大切なエンジュを泣かしたくはないけれど。それでも、僕たちには助けたい人がいるんだ−
それが誰なのか、とか、いやまず、父様が吐いているという嘘の内容すらも、あの時のあたしにとってはどうでもよかった。
−とうさまがうそつきなら、エンジュもほんとのことなんかいわないっ−
ぎゅっと抱きついたまま、いやいやと駄々を捏ねた。幼いやりようだったけど、今思い返してみても、あれは当然の抗議だったと思う。
だけど、父様は許さなかった。
−駄目だよ、エンジュ、君まで嘘を吐いちゃ、僕たちが成すことは全て無駄になってしまう−
優しい表情と、優しい声。だけどそれが、父様が精霊に対して使うのと同じ種類の言葉だと、まだ幼かったあたしでも気が付くことが出来た。
−嘘吐きを助けられるのはね、エンジュ、正直者だけなんだ。だから僕たちを信じられなくてもいいよ。君はいつでも本当の気持ちでいるんだよ−
なら、父様はあたしが助けるんだ。そう思った。
父様は信じなくていいって言ったけど。あたしもまだ泣き止めずに怒ったらしい顔して父様を睨んでいたけれど。
あの時あたしは心の中で、こっそり父様を信じていようと誓った。
いつか、本当のことを知ったなら、どんな嘘でも許してあげるんだって思った。
だってそれくらい、父様のことが大好きだった。
その後は、直ぐにいつも通り激甘な父様に戻って、たしか父娘でわいわいお菓子作りをして仲直りしたんだったと思う。
それからもくどいくらいに嘘を吐くなとは言われ続けたけれど、あんな風に父様が話したのは、後にも先にも、あれっきりだった。
−約束だよ、エンジュ−
あたしは、恵まれていた。
この約束が難しいことだって、たぶん、ついさっきまで気が付かずに生きてきたんだから。
父様もガロン叔父様も、全力であたしを愛しみ、育ててくれた。例えば本当に今までの何もかもが、全部上辺だけの嘘っぱちだったなんて打ち明けられたとしても、それでも心の底から感謝できるくらいに。
ソニア叔母様も厳しく暖かく、どんな時でも、こんなあたしを家族だと言ってくれる。ロイくんもトージャさんもいつだってあたしには優しい。
学園ではそりゃあたしに甘い人たちばかりじゃなくって、落ち込むことも多かったけど、そんなこと些細だって思えるくらい大切な友人に出会えた。
魔術なんて使えなくてもいい、なんてサラザン家の長女として生まれたあたしには、流石にそんな開き直りは出来なかったけど。
少なくとも心のどこかに、魔術を使えなくても、あたしを認めてくれる人がいる。守ってくれる人がいる。そんな安心感と甘えはやっぱりあったんだと思う。
自分のことを血筋の恥だとは思っていたけど、だからといって虚勢を張ったり、自分を偽ったりする必要を感じたことなんかはなかった。
今まで、あたしが誰かに、ましてや自分自身に、嘘を吐く理由なんてひとつもなかったのに。
少し休みなさいと、叔母様に気を使われ、否応なしに閉じ込められた自室で、あたしは何度目か分からない溜め息を吐いた。
「出来損ない、か」
思い起こす父様との古い会話より、シン・ロウ様が仰ったその言葉が、より強く鮮明に頭の中で響くのは、何もそっちの方が新しい記憶だからって理由じゃないだろう。
休めと言われたけれど、とても寝台に横になる気にはなれず、あたしは父様に貰った導衣に着替え、全身を映す鏡の前にずっと立ち続けていた。
昔からこうやって自分の姿を見れば、どんなに荒んだ心でも、大概は落ち着かせることが出来た。
朱を塗り付けたような赤い髪、そして良く熟成された葡萄酒と同じ、深く赤みがかった紫色の瞳。
それをこうやって鏡に写して確認することだけが、今のあたしに許された、自分がエンジュ=サラザンなんだと確信できる唯一の方法だから。
だけど、それも今は上手くいかなくて。
世界中どこを探しても、今はあたしとロイくんしか持たないはずの鮮やかなこの色を見ても、その意味合いすら霞んでいってしまう。
遥か昔の伝説に謳われているだけの血筋と容姿だけしか持たないあたしに、いったいなんの価値があるというんだろう。
ついさっき、その伝説の生き証人にその伝説を背負う資格すら、否定されてしまったっていうのに。
いや、違う。
鏡に映る紫色の目は、白眼まで赤く充血してゆらゆらと歪んでいる。今もまた一筋、涙がこぼれ落ちた。
違う。こんなにも苦しいのは、鏡を叩き割ってしまいたいくらいに悔しいのは、サラザン家とか赤の導師とか、そんな立場や格好を傷つけられたからじゃない。
伝説の人、最古の魔導師に、同じ運命をかせられた白の導師に、そんな偉大な人に拒絶されたからじゃない。
あの湿った冷たい手、響く声。すがるような眼差しに、単に優しいだけの言葉に、子供みたいに騙されてしまったのが悔しい。
あの人が、あたしを否定した。ただ、それが悲しい。
「…………これもやっぱり、失恋っていうのかな」
恋に落ちたことすら、まだちょっと半信半疑だったっていうのに。
鏡の中には、赤い衣に身を包んだ、見るからに未熟な魔導師が睨んでいる。
ああ、もう、魔術師なんて呼ぶのもおこがましいなんていじけてる。導衣と髪だけでなく、瞼も頬も赤い、ただのちっぽけな女の子だ。
本当に久しぶりに泣いてしまった。前向きなことだけが取り柄なのに。
あたし、父様が死んだって一滴の涙も出やしなかったのに。
恋が形になりかけもせず、破れてしまっただけで。
ただ、事実を淡々と指摘されただけで。
親不孝者を通り越して、もう、なんかこれって既に人でなしの領域にいると思う。
シン・ロウ様が、あたしの味方じゃない。
それがこんなにも絶望的なことだなんて。
優しい言葉も、笑顔も、偽物じみていて信用ならない、なんて最初から気がついていたんだけれど。
だけど。
「好きになっちゃったのに」
声にだして言ったら、また涙を垂れ流してる。こんなに涙腺に水を溜めていたんなら、父様の空の棺の前で少しは出てきてくれればよかったのに。
「最低だよね、こんなの」
あたしは鏡の中の自分に向かって呟く。あたしの顔は母様似らしくて、全くってくらい父様の面影はないんだけど、作り物みたいな色合いは、涙で滲んだ視界で、父様と全く一緒に感じられた。
「父様、本当にあたし、正直に生きていいの?」
涙で歪んだぐじゃぐじゃの視界のまま、鏡の中で赤い人影が、ゆっくりと指を正面に掲げた。
瞼を下ろして身体の中を思えば、血のように満遍なく巡るあたしの魔力が指先に集まってくるのがわかる。
あたしは嘘を付かない。自分にも、他の誰に対しても。
無力な自分が大嫌い。ロイくんが妬ましい。あたしの側にいない父様が許せない。……あの人が、憎い。
ねぇ、父様、それはこんなにも黒く渦を巻くみたいな真っ暗で醜い気持ちをも、目を逸らしたり、隠してたりしちゃいけないってことなの?
だったら、死んだほうがましだ。
「…………大丈夫、今度こそ上手くいく。あたしはエンジュ=サラザンなんだから」
いつも、学園の術部屋で御守り代わりに呟いていた言葉は、今は水っぽく嗄れている。
見習いの魔導師は学園以外の場所で魔術を行うのは禁止されているんだけど。
だけど、これが最後だから。
シン=ロウ様の言葉を聞いた時に、あたしはもう決めていた。
次を最後のチャンスにしよう、って。
あたしの身を包むサラザン家伝統の導衣は、身体の内側で急速に加速する魔力に全く反応を示さない。
父様が死んだと聞かされた二日後に、守護の魔術が消えたこの導衣は、もうなんの役にも立たない「死者の衣」なんだ。だけど、ずっとこれを着て魔術を使うのがあたしの夢だったから。
あたしが最初に成功させる魔術は、この導衣を着て行いたい。
例え、失敗した時に、もうこの衣があたしの身を守ることはないんだとしても。
あたしは指先に集中してきた魔力を慎重に鏡へと腕を伸ばして差し向けた。
まずは、印を刻む場所に向かって指を決められた通りに動かす。
手順に沿って寸分の狂いなく。だけど躊躇はせずに思いきって一気に。
それは文字や図面を空中に書くのと動きは似ているんだけど、描き上げるまでは絶対にそういう意識を持ってはダメ。
形として認識してしまうと、その時点で術印はただの文字や図面になってしまうから。
あくまでも無心で、何もかも始めからこうなるべきなんだって気持ちで指を動かす。
魔術はここが一番難しいってよくいわれる。うん、コツさえ掴めばこれはそんなに難しくないと思うんだけどな。
それが上手くできたなら、指でなぞりあげた通りに印の形が浮かび上がり、淡い光が輝く。
ほら、鏡の表面に、赤く光を帯びた術印が浮かび上がった。
こうなれば、あとはこの印に対応した、精霊を呼んで力を与えてってお願いすればいいだけの筈なんだけど……。
魔術って、術そのものに力がある訳じゃなくて、厳密にいえば、精霊の力を借りる為の儀式みたいなものなんだ。
精霊とはあらゆることの本質的な力。魔力は、その精霊と源が同じものであるって言われている。伝説の通りなら、神骸から生まれ出た力。ただ宿る物が違うだけだ。
自然へと宿った純粋に力だけで象られた存在なら精霊に。
血肉を持つ物に、例えば竜とか魔獣とか、素質がある人間に宿れば、魔力に。
ただ、基本的に人間はその力を直接操ることは出来ない。
だから、術という形で精霊と約束を交わす。魔力を対価や媒体にして、精霊の力を借りたり、自分の持つ力を引き出して貰ったりするんだ。
だから、大まかに分けると、魔術には二種類の術形態が存在する。
ひとつは「意思持つ精霊の力」。最近は「召喚術」って呼ぶのが一般的だ。ガロン叔父様が設立した魔術学園の教科書にそう記載されてあるからみたい。
これは単純に精霊の力を借りる方法。契約を交わして、その契約に応じた力を行使する術だ。
精霊は普段は自然と一体で存在している。熱には火の精霊、川には水の精霊って感じに。彼らはその自然から独立した存在となって初めて精霊としての力を発揮できる。
それらには、自らの力でそういう風に存在できる高位精霊って呼ばれる者、術によって初めて自我が生まれる精霊がいる。
当然だけど、前者は稀少で召喚に必要な魔力も多く、契約の審査も厳しい。反対に後者は圧倒的に数も多くて、召喚も契約も割りと簡単だ。一辺に何匹も呼び出せたりする。
一度契約を交わした精霊は、以後、呼び出しに行う術印の種類や、術者の魔力に応じた範囲で力を貸してくれるんだ。
これは最初の契約に魔導師の資質が問われ、魔力もかなり消費しちゃうけど、最初の契約さえ成功すれば、かなり簡素な印で、場合によっては魔力の保有量関係なく呼び出しが可能になったりもする。契約さえ交わしちゃえばこっちのもんよって感じだ。
一つの精霊に別の術者が同時に契約を交わすことは出来ないから、未契約の高位精霊を探すのが大変っていう難点はあるけど。でも、下級の精霊だったら同じ名と力を持つ物が、それこそ星の数くらい存在するから、日常の召喚に困ることはない。
今や釜戸の火から、船の動力まで、ありとあらゆるところで、こうやって魔導師と契約した精霊の力が使われているの。
これは父様が得意としていた術形態だ。
得意といっても、ただ高位精霊と契約してるよなんて次元の話じゃない。その精霊たちを伝に、まだ名前の無い未確認の精霊を見つけては、対応できる術印を組み立てて、新たな精霊を世に広めたのが父様だ。
父様が生まれる前は百種も知られてなかった高位精霊の名と呼び出しの術陣が、今は優に千を越えて術書に連なっている。
そしてもうひとつの術の形が「物言わぬ精霊の力」。叔父様が書いた教科書で、古代魔術と呼ぶのがこれだ。こっちは叔父様が熱心に専攻していた。
これは自分自身の魔力を、世界に漂う正体不明の精霊の力を借りて直接使う方法だ。さっきロイくんが使った移動陣がその代表的な術になる。
精霊には、召喚術で呼べる自然に宿るもの達とは別に、名前も姿も無く、はっきりとした意思も存在しないものが存在するんだ。
この精霊達の正体にはまだ諸説あって、はっきりとは解明されていないの。
今のところ、ガロン叔父様が唱えていた「神生の世に在りし精霊の魂」っていうのが一番有力な説だけど。
神様が死んで骸となった時に、世界の全ての存在は一度滅びましたっていうのが、この世界の伝説だ。
それでも、世界の一番純粋な元素である精霊は、滅びきれずに今もこの世界を漂っているんじゃないかって、叔父様は考えたみたいだ。
だけど、物言わぬってくらいだから、精霊自身は何も話してくれないし、神が骸になる前の世界については、本当に伝承も遺物も今は何一つ残っていないんだ。
ガロン叔父様は結局、生涯自分の仮説を立証することは出来なかった。
物言わぬ精霊の正体を知ることが、神骸の伝説の真実を解き明かす鍵だと、お酒を飲む度、叔父さんが力説してたっけ。
この種類の魔術はまだまだ本当に研究段階で、実用的なものは少ないんだ。移動陣以外に、あとあたしに思い付けるのは、一部の結界式と、防御壁、それから、導衣に練り込むまじないの類いくらいだろうか。
だけど意思を持ち自己主張する精霊とは違い、物言わぬ精霊はただの力の塊だから、術印に力を乗せてしまえば自動的に効果だけが還ってくる。
効率的で魔術の消費には無駄がない。それに対価や代償って概念で動いてるわけじゃないから、例え失敗しても危険は少ない。
ただ、この方法はとにかく術印が複雑だし、魔力の込め方も繊細で、とても発動が難しい。
予め補整や補助の術印を刻んでおく形式を叔父様が編み出すまでは、相当熟練した魔導師でなければ使えない術だったそうだ。
ロイ君、どれだけ天才なのよって話だ。
あたしだって、古代魔術なんてまだ術書を見ないと陣すら組めないもの。
それから……
「あっ」
……って、あたし、なんでこんな大事な瞬間に、また余計なこと考えちゃってたんだろう。
「……う、そ」
はっと、気付けば、既に精霊を導く為の光は消えていて、代わりに沸々と陣の形が歪み出している。
また、失敗だ。
いつもそうだ。あとは、発動だけってところまで来て、どうしても別のことに気を取られてしまう。
「……なん、で」
今まで師事したどの先生も、気が散漫しているからだ、と叱った。己の血筋と才能に慢心しているから、最後の詰めをしくじるのだと。
それはあたしが甘やかされて育った為だろうと、誰もが哀れみ、そして嘲笑い、侮蔑した。
魔導師としての覚悟が無い、と。
−とんだ出来損ないですね−
「もっ……やだ……なんで、なんで!!!」
『何をしている!!陣から離れよ!!!』
導衣の袖に黒い炎が燃え移るのもそのままに、頭を抱えてパニックを起こしていたあたしに、突然、何かが覆い被さった。
鋭く、それでいて耳に残らない不思議な声が響いた。
海中の押し寄せる波の感覚に似た圧力に、あたしは押し倒され、尻餅を着く。
「っ…………え、うわぁっ」
顔を上げると同時に、どこからともなくぼとぼとと、芋やら南瓜やら大根やらが幾つも降りかかり、頭に直撃してきたのだ。
訳がわからず再び頭を腕で覆うと、顔面に向かって袖先を燃やす炎が巻き上ってしまった。
『愚かな……腕を貸せっ』
そう声が聞こえた途端、袖口を何かゆらゆらとした銀色のものが覆っていく。
一瞬のうちに、暴走した魔力の炎が鎮火してしまった。
後にはびらびらに破れた胴衣の袖が残る。魔術の力ではないけど、その厚い布地は、あたしの腕をどうやら火傷から守ってくれたみたいだ。
『そのまま、其所にじっとしておれよ』
そう告げて、どうやら銀色の何かはぐるりと向きを替えたようだった。
それは、あたしの袖の炎と同じように、鏡を溶かす爛れた陣を、食べた。
「い、犬……?」
そう、うっすらとだけど、よく見ると銀色の靄は、巨大な犬の頭部に見える。氷か、水に浸した水晶みたいな眼をした白銀の犬だ。
透き通った牙の間から、黒く焦げたあたしの召喚陣が噛み砕かれて消えていくのがわかった。
え、まさかあの術陣で召喚成功、とか?……でもあたしが呼ぶはずだったのは、蛇の姿の精霊だったんだけど……。
混乱するあたしを他所に、銀色の犬はごくりと陣の残骸を飲み下し、あたしをぎろりと睨んだ。
『犬、とは聞き捨てならぬ。改めよ』
頭ほどはっきり見えないけど、どうやら身体もあるみたいで、尾を引くように白銀の霧が宙を漂っている。
「えと、お、名前は」
『……名は在るが、それを呼ぶに相応しき者とは、我は汝を認めぬぞ。我が存在を犬と判じた愚考を知れ、という意味だ』
凄く尊大な言い回しも、その言葉と共にどんどんはっきりしていく姿を目の当たりにして、あたしは納得して青ざめた。
たぶん、この方を犬と表したのは、あたしが世界で初めてではないだろうか。
確かに頭は狼だけど、白銀色の毛皮に見事な鬣、背を伸びる青孔雀色の鱗、純白の二対の翼、徐々に輝きを変える銀の龍尾。
この姿を知らない訳がない。
だけど、こっちの方は絵巻よりずっと美しいだなんて、反則だと思う。
「びゃくや…え…白夜……さ、ま………?」
『認めぬ、と申した筈だ』
無意識にあたしの口を出たその名前に、憮然とした声が跳ね返る。
「も、申し訳ございませんっ!あの……え、と」
慌てて低頭し、必死に非礼をお詫びしたけど、他にこの精霊を呼びようもなくて、あたしは口ごもってしまう。
『…………シロ、と呼べ』
「え、シロ、さま、ですか」
たぶん、とてもぽかんとした表情をしている筈のあたしは、今にも食べられてしまいそうな、大きな口を見上げた。
『……様、は要らん。人間は敬う、ということを軽んじておる故』
不機嫌そうに言う白夜様に、何と応えることも出来ずに、あたしは途方にくれた。だって流石に伝説の精霊に向かって、それこそそんな犬みたいな。
『だが、汝に犬のように呼び捨てられるのも癪よ……』
ほら、やっぱり。
白夜様は、暫く思いあぐねるように唸ると、独りで解決されたようで、うむと頷いて見せた。
『……ちゃん』
「……はい?」
なんだか、幻聴が聞こえた気がした。
『我のことはシロちゃんとでも呼ぶがいい』
「何故!?」
思わず間髪入れず叫んでしまう。
白の導師に唯一無二の忠誠を誓い、神骸を討ち滅ぼす刃になるという、古の精霊「白夜」。
サラザン家が探し求める「暁」と対に生まれたという伝説の精霊だ。
そんな精霊様を、シロちゃん、って……。
いくら毛皮がもふもふしてそうだからって、それは許されない気がする。
『双子からもそう呼ばれておった。今更、かの子が畏まっても始まるまい』
父様、叔父様……。
いや、何となくあの二人なら想像出来るけど。
「で……ですけど、偉大な精霊様にそんなご無礼……」
白夜様はくつくつと笑った。
『なに、我はあの男の下僕ぞ。無礼非礼を押し量るならば、既に圧倒的に我が方に分があろう。そもそも我に己を偽ることなど無意味。不様な敬語もいらん。楽に話すがよい』
そこまで押されてしまっては諦めるしかない。
頭がはっきりしてくれば、呼び方なんてことより、聞かなきゃならないことが山程あることに嫌でも気が付いてくるし。
「じゃぁ、そ、の、シロ……ちゃん、助けてくれてありがとう」
思いきって呼んでしまうと、思いの外しっくりするから驚いた。
シロちゃんは満足そうに頷く素振りを見せた。やっぱり実体は無いようで、あたしの頭を顎がすり抜ける。さっきはどうやってあたしを押し倒したんだろう。
『……よもや汝、死ぬ気だったのではあるまいな』
「ちが……」
言いかけて、どくん、と心臓が飛び跳ねた。駄目だ。あたしは嘘が吐けないんだ。
あたしは死にたかったのか。その方が楽だとは確かに思ったけれど。
自分の気持ちを見極めると、あたしは改めてゆっくりと首を振った。
「……死にたいからわざと失敗したんじゃないよ。……だけど、失敗したら死んじゃってもいいやとは思ってた」
シロちゃんはあたしの眼を覗き込むように、鼻先を近付ける。
何となくだけど、白夜様をシロちゃんって認識してから、血の気の引くような畏怖の気持ちは和らいでいた。
『左様、か…………良く聞け、娘。実はな、我が主は阿呆なのだ』
「あほ……?」
思いもよらない告白に、あたしは何と返事していいか分からず、鸚鵡返ししてしまった。だけど、シロちゃんはあたしの戸惑いは無視して続ける。
『ああ、うつけもうつけ。意地は悪いわ、利己的で、頽廃的で、協調性の欠片もなく、自堕落で、己が不利となれば直ぐ自暴自棄になられる。おまけに意気地も無い』
白の導師に絶対服従である筈のシロちゃんが、シン・ロウ様をこんなにボロクソに貶すとは思わなかった。
『油断すると直ぐ意味のわからんことをされるし、煙草は止めんし、神経質だし、頑固だし、外面ばっかり良くて、ちっとも我を大切にせん。都合の悪いことはいつもはぐらかす……実に、世話の焼けるお方よ』
無茶苦茶言ってる癖に、シロちゃんの声は凄く暖かかった。彼はシン・ロウ様のことがとても好きなんだ、とあたしにも伝わってくる。
『こら、聞いておるのか、娘よ』
なんだか酔っ払いの愚痴みたい。
「え……う、うん。でもなんで、そんなことあたしに……」
シン・ロウ様を擁護する、とかならまだ分かるけど、わざわざ追い討ちをかけるように彼の欠点をあげ連ねる、シロちゃんの真意が読めなかった。
それにしても、この話だけを信じちゃうなら、ただの駄目人間だな、シン・ロウ様って。
訝しげなあたしの問いに、シロちゃんは当然のように答えた。
「汝は、あれのことを何も知らぬであろう?」
「あ……」
シロちゃんの目は、何も映さないほどに深く澄みきって、それでいて心の芯まで見透かされている様だ。
『知らぬ、ということは罪ではない。されど知らずに判じれば大罪を招こう』
そうだ。自分の感情にばかり気を取られて、あたしはまだ大切なことは何もしていない。
だから、自分の本当の気持ちが、あの人の言葉が、シロちゃんの語ったことが、どれほど真実なのか、今のあたしには解らない。
だけど、いや、だからこそ。
「……知りたい」
シン・ロウ様のことも、シロちゃんのことも。
そして、父様とガロン叔父様が何をしていたのか、あたしに何をさせたいのか。
この世界は何処へ向かっているのか。
それを知らなきゃ、あたしは何も出来ないままなんだ。
がんばるぞー。




