それぞれの思い込み
段々と投稿時間が不健康になってきました。外がちゅんちゅん言ってます。
「さっきから何を怒っている、シロ」
離宮に帰るなり、主は白い導衣を無造作に脱ぎ、細身の袴一丁の姿になった。足元の床には放り捨てられた白い布が広がる。貧弱な印象の佇まいに反して、普段の摂生の成果か、肉付きは悪いものの筋は太くしなやかな身体が顕になった。
我が刀は長椅子の上に投げられ、自身は倒れるように寝台に寝転がる。体を投げ出すように伸ばし、羽毛を詰めた枕に突っ伏した。
今の時候は秋の終わり。ここ暫くは冬の訪れを告げるかのような寒い日が続いていたが、外部から結界で完全に遮断された宮廷内では季節による気温の変化は少ない。常に過ごしやすい空気を保っていた。
故にたとえ半裸でも寒さで風邪を引くこともなかろうが、大分汗をかかれたようだから、そのまま寝台に上がるのはどうかと思う。衛生上宜しくないし、身体を冷やす。
だが、今はそんな風にこれの身を素直に案じて気にはどうしてもなれない。
清火の離宮からこの清月の離宮に帰るまでの道のりを、せめてもの抗議として無言を貫く我に、主は寝台の枕に顔を埋めながらも、痺れを切らしたように強い口調でいった。
「答えなさい。何を拗ねているんだ。お前が黙っているのは気持ちが悪い」
『……主の意図が解せぬ』
俄に命令めいた強制の言葉に、我は否応なしに応えざるを得ない。渋々、己の苛立ちを人間の言葉に置き換えた。
だが我が何を言ったところで、これが素直に己の真意を語ったことなどないではないか。それにたとえどのような理由があろうと、あの娘にした主の仕打ちは許しがたい。
しかしして、我にとってのこの男とは、端から許す許さないなど賎しい感情は超えて、全ての価値観を凌駕すべき唯一無二の存在である。
我に出来るのははせめてもの意思表示として、沈黙という責めで主を罵ることだけだった。
それだって、主がこうやってほんの僅かな苛立ちを言葉にするだけで、脆くも我の心は挫けてしまうというのに。
「わたしの意図など、百五十年前から変わっていない。お前と反対のことだよ」
『左様。百五十年前から理解できなかった。そこまで頑なに死を望まれるならば何故、あの日、汝は我が前に現れた?この封印の身たる不自由に任せて、永遠に見逃してやるのもいいだろうと、敢えて我は汝を呼びやしなかったというのに』
そうだ。人間どもの思惑も、太古の神々の選択も、この世界の行く末も、正直、我にとっては何の関係もなかった。
我は知っていた。長き眠りを強いられている最中でも、我が意思を突き動かすただ一つのもの。我の主と成るべく在るこれの存在を。そしてその卑小な人間の身に背負わされた酷しい罪過を。
それは、我から見ても明らかに、これが犯した罪に対して、遥かに重すぎる罰だった。
だから、もしもこれが我を拒み、運命から逃げ続けるのならば、それはそれで正当なる権利だと思っていたのだ。
だから、我は敢えて耳を塞ぎ目を閉じて、この檻のような封印を享受した。
これの命を守護する。全ての魔から、人間から、精霊から、神の死骸と、そしていずれ生まれるべき新しい神からさえも。
たしかにそれこそが、我に課せられた宿命ではあった。この仮染めの世界が生まれ、我が生まれたその瞬間から、既にもう、抗いようもないことだった。
だが、そんなものに踊らされるくらいならば我は、主が望みのままで在り続けることを望んでいた。
もしも、本気で死にたいのならばそれでいい。それでこれが許されるというのならば、我の守護でどうにもならなくなる前に、さっさと安らかに死んでしまえとさえ願っていたのに。
「また酷く昔い話を。てっきりお前は、わたしがエンジュ=サラザンを衆人の眼前で貶めたことに腹を立ててるのだとばかり思っていたんだが」
枕から主の声が響く。
分かっているではないか。どうやら自身の立ち振る舞いに自覚はあったらしい。
『あの様に主が仰れば、娘の命は危うくなろう』
無自覚でなかったのならば、そう意図した上で主はあのように娘を無能呼ばわりしたのだろう。
唾棄すべき過去とばかり思っていたあの白装束を身に纏い、あの時の主は己の影響力を、人々の無知を、まるで再確認するかのように言葉を紡いでいた。
主はやはりこの世界にとって、未だに最古の魔導師であり、最強の存在であり、伝説を具現化する象徴だった。
誰一人、主が魔術などひとつも使えぬ臆病者だとは気付かぬし、主の嘘を見抜こうともしかなかった。
事実を知っているトージャとガロンの妻、そして、ガルフの娘、エンジュ=サラザン以外は。
「彼女が魔術を使えないのは事実だ」
それは驚くべきことだった。我はてっきりここへ忍び込んだ移動陣も彼女の術だと思い込んでいたのだから。
しかも、エンジュ=サラザンの不能力は主が言う以前から既に、世間に習知のことであるようだった。
『主は知っていたのか』
「見れば解るだろう。彼女の身体には精霊の気配がなかったし、陣の残り香もなかった。お前は気づかなかったのか」
飾ることを省いた、素っ気ない口調なれども、深く響き渡る声。さすがに良く通るとはいえども、王宮の果てにあるこの寂れた離宮では周囲に気を使うこともないだろう。そういえば、主がこの様に淀みなく冷たい口調で話すのも酷く久しぶりのことだ。
『毎度申し上げているが、精霊の気配やら術の残り香やら、そんなもの解るのは主くらいのものだ。だが、主が抵抗なく娘に触れておられたのは、確かにおかしいとは思っていたが』
逆に、主はあの幼児に触れることを避けていたのだ。あの幼児が術を使ったからだったのか。
人間の使う術式など、我だって一瞥したくらいでは、術の種類も判じられぬ。やはり、そんなことがさらりと解ってしまうのは主くらいだ。
術を使いこなす為には、身に宿る魔力の量や質は勿論だが、複雑な印や魔力の組み立て式を、どれだけ正確に覚えられるかに懸かっている、と言っても過言はないらしい。
それを僅か五歳の子供がやってのけたのだ。
だとしたら、あの子供は正しく神童と呼ぶに相応しい才の持ち主だろう。
その親双子だってあの位の年頃の時分には、無意識に魔術に近い効果を発してしまうことはあったが、まだ緻密な術印を精製し陣を発動させることなどは出来なかった。
だが、そんな恐ろしい子供も、エジン=サラザンの血を引くと知れば、どこかその存在も納得できてしまった。
それよりも、魔術を使えぬガルフの娘、の方が遥かに違和感を感じてしまう。
赤ん坊のころから空間をねじ曲げて遊んでいたあの双子の印象が強すぎたのか、その娘がまさか魔力を持たぬなど夢にも思わなかった。
……否。
『あの娘には確かに魔力を保有していた』
我は確かに人の行う魔術の差異には疎いが、それでも身に魔力を持つものと持たざるものの違いは分かる。そして主のように無理矢理封じているのでなければ、その質や量を感じ取ることも容易い。
何にせよ魔力と人が呼ばわる力こそが、我ら精霊を世に繋げ、動かす源となるのだから。生き物が摂取する水や空気、或は食物に似ている。
確かに我はあの娘、エンジュ=サラザンから、その血に相応しいと認められる大きな魔力を感じていたのだ。
「そんなもの、わたしだって彼女の千倍は持っているよ」
不名誉を認めるような苦い口調で主が言う。
『主は使えぬではなく、使わぬ、だろうに』
「同じことだ」
主の即答に、我は刀でなければ怪訝そうに顔をしかめたのだが、表情のないものが寄り代なので、ただ沈黙して次の言葉を待った。
「わたしは使いたくないので使わない。彼女は使いたいのに使えない。当人の心境が違うだけで、魔力があるのに魔術を使えない原理なんて、術印を覚えられないような馬鹿じゃないならば、ひとつしかない。お前が自由に力を使えないのも同じだろう?」
回りくどい言い様の主に、やきもきしながらも我は応じる。
『封じられているというのか』
主が己の魔力を封印し、ひた隠しにしているのは知っていた。主の魔力は契約の瞬間にその芯核に触れたあの忘れ難い体験さえければ、我すらこれが魔力を持つことを疑ったかもしれない。
娘に同じ封印が施されているようには思えなかった。
『だがそれは、主の身に課せられた封印とは違かろう?あの娘は魔力を隠してはいなかった』
「同じだよ。そもそもわたしの魔力が身の外にあまり漏れないのは、魔術を封じてることとは全く関係ない。これは体質みたいなものだ。わたしの魂の許容量は永遠に増え続けるから、ただ外には溢れてこないだけ」
当然ながら初耳だった。別に嫌悪する己の魔力を隠していたわけではなかったのか。
『魂の許容量?』
珍しく、というよりは初めて己の力について語る主。我は驚きつつも二度とないかもしれない機会に、一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。
「……底抜けの空瓶だ」
だが、我の問いに関しては、その以上を詳しく説明する気はないと、意味深な揶揄で遮断される。
仕方がなく我は、本題だった娘に課せられた「魔術を使えなくする封印」に話を戻す。
『つまり、主よ。封印とは力自体を押さえるものではなく、力を使う切っ掛けを失わせるもの、だという解釈でよろしいか』
「あぁ、そうだ。魔術には、術印と精霊の許可と、あとは陣を稼働させるか否か術者の【選択】が要る。エンジュ=サラザンは、わたしと同じくその【選択】が封じられてあるようだった」
枕に顔を潰れるかのように押し付けている癖に、淀みなく主は話す。我に説明するというよりは、まるで己の知識や記憶を呼び起こして確かめるようだった。
『我が【自我】を封じられているのと同じ、か』
我がが主を守らねばならぬのも、命令に従わなければならぬのも、全て同じ原理なのだろう。
契約という約束で我は、他者より優位な優先順位にあるはずの【自我】という価値観を失った。
あの娘も、無自覚ではあろうが、魔術を発動させる、という概念を持つことができないようにされてしまっているのだ。
『しかし、何故、そのような封印がサラザンの娘に?』
「動機を追求する以前に、誰がどうやったかの方が遥かに問題だ」
我が問いを遮るように言った主は、枕から顔を外し、ごろりと仰向けに寝返った。
顔に張り付く湿った髪を払わぬまま、生気の無い目で天井を仰ぐ。
底抜けの空き瓶、先程の主の独白は、この何を見ているかも分からない両の眼のことを言っていたのではないか。
『……主?』
我は心許ない思いで、喋ることを止めてしまった主を意味もなく呼んだ。
自我を失った我の、何よりも中心にある存在は、虚ろな顔を我の詰まった刀へとゆるゆると傾ける。
「……わたしだけだ」
『主?』
我はその意味を理解できぬことに、言い知れぬ焦燥感を抱きつつ先を促す為に再び主を呼ぶ。
「あれは、わたしにしか出来ないことなんだ」
縋るような主の面持ちに、嘘臭い微笑み以外の顔を久しぶりに認める。
だが、始めてみる表情に、我には主の心境が全く読めない。
『主にしか出来ない?』
阿呆のように鸚鵡返しする我に主は頷いた。
「正確には、わたしが頼まなきゃ精霊達はやってくれない、と言うべきか。封印はわたしにしか使えない術なんだよ」
再び、初耳だった。
『初めて知ったぞ。我を封じたのは主であったということか!』
我にはこの刀に封印される前後の記憶がない。てっきり、その前後の流れからしてあの愚かな神々の仕業だと思っていたのに。
思わず声を高める我へ、主は珍しく素直に謝罪の言葉を口にする。
「悪かった。あの時は他にどうしようも出来なかった。お前は生まれたばかりで力が弱かったから」
そのように認められれば、他に何を言うこともできず。否、誰の仕業であろうとも、端からこの封印が仕方がないものだとは承知していたから、主を責めるつもりなど微塵もなかったのだ。
いや、寧ろ、感謝しなければならない。この封印によって眠ることがなければ、主のいう通り幼い精霊だった我は、瞬く間に創世の混乱に呑まれていただろう。
『……少々驚いただけだ。謝罪など及ばぬ。忘れてしまった我にこそ非があろう』
我がそう言うと、主は眩しそうに目を細めた。眉間に皺を寄せつつも、我が知る主の一番柔らかな表情だ。それは昔、幼い双子に良く向けた顔だった。
そうか、我も、恐らくは暁も、主にとってはあの双子と同じような存在だったのかもしれない。
『左様であれば、主はやはり我よりも長く生きておいでなのか』
「……お前達の卵を世界樹から摘み取ったのはわたしだよ」
思い込みとは時に恐ろしい過ちを招く。この短時間で我はその過ちを幾重にも重ねてしまっていたことを痛感した。
しかし、それではあの悪夢の時代、主は何をしていたのだろうか。我の封印を行ったということは、あの頃はまだ抵抗なく魔術を使っていたのだろう。
我が生まれた時には既に名のある魔導師だったということか。
その時を同じくしてエジン=サラザンが生きていたのだ。
彼女のことは未だはっきりと記憶している。我が生まれて初めて知った人間。
主の魔力量こそ分からぬが、彼女を超える魔力を持つ者は、このニ千年、ついぞ現れなかった。あの双子ですら、二人併せても、彼女の半分にも満たない。
主とエジン、ふたりの力を併せても、あの崩壊は防げなかったのだろうか。
何故、我は封じられ、暁は放されたのだったか。
何故、エジン=サラザンは死んだのだろうか。
一度堰を切った疑問は、止めどもなく無数に連なって溢れていく。主が語らぬをいいことに、今まで記憶と予測を繋ぎあせて何となく形にしていた過去は、脆く崩れ去ってしまったのだ。
人間どもに伝わる「神骸と神討ちの二導師の伝説」そしてそれを裏付けるような我と主の存在。酷く不安定な魔術師の血を、多くの犠牲を払い、頑なに繋ぎ続けたエジン=サラザンの子孫達。
我は主を守りながら、暁に選ばれたその子孫と共に神骸を倒せばいいのだと、勿論、そう認識していた。
主が戦闘能力、意欲の欠片も無い役立たずだということに思い悩みはしたものの、己の役割を疑うことはなかった。
だが、今、主の告白によって新たに湧き出た、疑問のひとつに我は愕然とする。
そもそも、神骸とはなんであったか。
我は知っていた筈だ。その存在を今まで当たり前のように一度も疑わなかったのだから。
だが、思い出せない。
あの遠い過去の世界では、神とは、今この世に伝わる伝説のような、生き死にが世界の存続に直接関わるほどの、そこまで絶大なる存在ではなかった。
だが、我が目覚めてみれば、既にここは、あの頃の世界ではなかったのだ。
明らかなのは精霊が違うということだ。我の親であり、兄であり、姉である、あの世界樹の森に生まれた精霊達は、誰ひとりとしてもうこの世界には居なかった。いや、暁だけは居るというが、未だに我はその存在を感じたことはない。
我は知っていた、否、精霊として本質的に解っていた。今のこの世界が仮染めであると。何かが足りないと。
我と主の契約が、神骸の復活を示唆するものだと聞いたとき、成る程、この世界に感じる違和感は、終わりが近い証かと納得したものだ。
だが、もう一度、よく見極める必要があるようだった。
我は何も知らないのだ。そして、今の今まで、主との契約に満足し、録に知ろうともしなかったのだ。
我が封印された後、世界と精霊に、エジン=サラザンに、そしてこの主の身に起こったこと、全てはそこから始まったのだというのに。
主の服装と立ち振舞いのみで勝手にその存在を推し量り、主の言葉を疑わなかった愚かな人間どもと、我もまた同じだったのだ。
『今更だがお答え頂きたい。我が主よ、汝の望みとは死ではないのか』
我は、主の望みすら、もしかしたら勝手に曲解し、決めつけていたのかもしれない。
「死で足りるなら、それも望みだ。だが、わたしは」
主の行動に意味を見出だせないのは、我が主のことを何一つ理解できていないからではないのか。
「もはや、死んでも忘れられはしないだろう。だから、今はもう、単なる死などは望まない」
いつのまにか、我はまた靄のような姿で、刀の上に漂っていた。
主が我ではなく、酷く遠くへ、時の彼方へと、その意識を向けているからだろう。
我は自由だった頃のように白い翼を大きく靡かせる。長い爪を主の肩に掛け、このまま食らうかのように跨がった。
漸く、主の本心を見た気がした。
「シロ、わたしは忘れたいんだよ。もう、何もかも。その為には、全てを失う必要がある」
食い込むように肌に透ける我の爪を、緩やかに撫でながら、主の声はやはり良く響いた。
《あの人は忘れないよ。君のことも、僕のことも》
ふいに記憶の奥から、久しい声が重く胸を打ち、突き上がる。
『世界が滅べばよいのか』
ならば何故、我に自我を捨て主を選び、世界を救えと呪いをかけた。何故、我の前に現れて己が主と示した。
主は、我の問いに首を横に振った。
「世界の為に、今度こそ、今度こそわたしは、全てを捨てるつもりだ」
『……解せぬ。主は行動が伴っておられぬ』
結局、先程のエンジュ=サラザンを貶めたことに対する説明も、何もされていないのだ。
無知ゆえに話を拡げ、挙げ句に反らしたのは、確かに我の落ち度だったが。
「今のところ、自分が思う通りには、行動できているがね。力も記憶も全て捨てる予定のわたしには、世界を救ったり出来ない。だからエジンの子孫には選択してもらわねばいけなかった」
何をだと我が聞く暇も与えず、再び主は淀み無い口調で淡々と話す。
「一つは頑なに【神討ちの二導師】の宿命に従う道。これを選ぶなら、わたしは役立たずながら暫くは、白の導師の名を享受してやるつもりだ。わたしがその名を受け入れれば、この無能っぷりを知り焦る者も流石に増えるだろうが。だが、たとえ道半ばわたしが望みを叶えて死んでも、お前との契約が完全に成立してさえいれば、適当に長生きの魔導師が白の導師を受け継いでも問題はないはずだ。神骸は別にそれでも殺せよう。世界の危機は消え、望み通りの新しい神の時代が来る」
それは、我が今まで頑なに信じてきた道だ。我はこれ以外に選択肢などないと疑わなかったが、主には端から他の道も見えていたのだろう。
「もう一つは、この世界を滅ぼす道だ」
我は敢えて疑問や反論を挙げない。己の無知を良く理解した今だからできることだ。
我の声で遮られないことに、主は少しだけ拍子抜けした間を上げたが、直ぐに言葉を続けた。
「滅ぼすとは言ったが、それは、世界を死で満たすこととは違う。どちらかといえば、最初に上げた道のほうが人の死は多いのかもしれん。この道を選ぶなら、エジンの子孫は、伝説に疑問を持ち、真実を知ろうとしなければいけない。様々な意味で多くの犠牲を出なければならない。わたしも直ぐには、全てを捨てることなど出来なくなる。思い出せるのはわたししかいないからね。だが、世界が滅べば、わたしは確実に望みを得られるだろう」
そう言って主は一呼吸吐いた。
『それ故に【白の導師】の出で立ちでエンジュ=サラザンの隣に立ったのか。彼女が盲目的に主を【終わりの導師】と捉えるか、それとも他の何かを見い出すのか、試されたのだな』
主は素っ気なく肯定すると、何が可笑しいのか喉を鳴らしながら苦笑を飲み込んだ。
「本当はガルフの選択に任せるつもりだったんだが、あの子がいないなら、エンジュ=サラザンが決めるしかないと思った。……予想以上に面白い娘だったな」
だが、と主は我を擦りながら溜め息を漏らす。疲れた眼差しで我の白い毛皮を眺めながら、奇跡的に本筋に戻った話を進める。
「だが、あの娘には封印がされてある。あれはわたしの仕業としか言いようがない。なのに、わたしには全く覚えがない」
何千年も生きている人間が何を忘れても不思議はないが、主に限ってはそれは有り得ないと断言する。
この男には、忘却が存在しない。
この百五十年間、主が何かを忘れたことは、ただの一度もなかった。それは、千年、ニ千年、と期間を延ばしても全て同じ結果となるのだ。
例えば今、千年前のこの時間、何をしていたと尋ねれば、主は当然のように答えを返すことが可能だろう。
これは主が魔術を使わない以上に知られていない、主の恐ろしい異能だ。
だからこそ、主は誰に尋ねられようとも、経験してきた過去を頑なに語らなかった。
自分が覚えてる事実のどこから何処までが、忘れるべきことで、どれが伝えるべきことか、全てが鮮明に思い出せるから、判断が出来ないのだそうだ。
『主以外の者の仕業の可能性は本当にないか』
「無い」
即答するのは、その根拠を説明する気が全くない証拠だった。
「だが、わたしは今まで、己に忘れた記憶があるなど疑いもしなかった。それが思い込みではないという確証は、実はひとつもないのだというのに。彼女の封印を感じて、目が覚める思いがしたよ。思い出せないから気が付かないだけで、わたしにも消えた過去があるのかもしれない、と。ならば、わたしが真実を知っているというのも、疑わしくなるじゃないか」
どうやら主も、先程の我と同じような衝撃を味わっていたようだ。
ならば、辿り着く結論もまた、同じであろう。
「わたしはもう一度、真実が何か、よく見極めなければならない」
主はそう言うなり、ゆっくりと身体を起こした。我の幻影がその背中をすり抜ける。この姿に魔力という程の力もないが、主はやはり良い気分ではないだろう。一度天井に舞い上がり、我は自主的に刀の中に幻影と意識を収めた。
「あぁ、次、エンジュ=サラザンに会ったらお前を紹介しないと」
背中に張り付く髪の毛を雑に結いながら主が、思い付いたように呟いた。出来損ないとまであの娘を罵っておいて、よくもそんなことがのうのうと言えると思う。
『次の機会ががあることを切に願うばかりだが……おい、何処へ行かれる?』
寝台からおもむろに立ち上がる主に、我は慌てていい募る。この情勢下で勝手に出歩かれたら堪らない。
「お風呂ですよ。自分で支度しなければならないから面倒ですが、この様じゃきっとリリィすら寄ってこない」
大きな声で話すのに嫌気でも差したのか、普段の取り成した声に戻した主が言った。
壁に掛かった燭台から蝋燭を一本抜くと、卓の火種を移し、二階への階段を進んだ。
階段に足を掛け、ふと、主は我の方に振り返る。
「シロ、人に見付からない程度なら動き回ってもいいですよ。ついでに厨房かどこかから、食べ物でもくすねてきてくれると嬉しいです。わたしは大丈夫、明るい間は誰も襲ってきやしないから」
『何故、襲ってこないと言いきる?』
主に食物を与えるのは賛成だし、宮廷内の視察もしておきたい。だが、これの安全を確信できない限りは我は側を離れることが出来なかった。そしてこの状況で安全の確信なんてことは不可能だ。それならば確信出来るのだが。
「馬鹿ですね。リリシアに【見られる】でしょう」
『……成る程。あの女も居たな』
予言の巫女と呼ばれ、魔導師とは違う摂理の力を使うあの女の特技は遠見だ。
一度姿を見た者のならば、どんなに離れていてもその姿を永遠に追い続けることが出来る。
そして彼女は主に執心している。今も、真宮から主のこの姿を眺めているかも知れぬ。いや、絶対に見ている。主の半裸を今更ながら我は隠したくなった。
もしも、白昼堂々主を殺す者がいたら、確かに彼女は見逃さないだろう。それを知る者は愚行を犯さないし、リリシアの特性も知らぬ者は、端からシン・ロウを殺す、などという発想を持たない。
「だから、本当はあんまり明るいうちに風呂に入るのもやなんですけどね」
悪戯っぽく笑う主に、我は溜め息と共に再び刀から身を具現させた。今度は感覚を少し濃く宿す。この状態だと人間の腕力程度の範囲でだが、外部に影響を及ぼせる。逆に姿の方は薄く陽炎のような淡い色合いにして目立たなくした。
『それはもう、今更であろうに。……よし、信じようぞ。ここは御命に従おう。食べたい物はあられるか』
「なんでもいいが、料理されてあるものはやめてください」
相変わらず、魔力の火で焼いたくらい許せぬものだろうか。
『承知した。ならば知りたいことは?』
我の呼び掛けに、主は階段の中ほどで足を止めた。少し考えてから、声を響かせる。
「……さっきのが命令になるなら、変更させてくれ。人に見られるなといったが、お前が見られても良いと判断したら見られてもいいし、別に会話を交わしても構わない」
言外に誰に会えと命じられたのか心得た我は、苦笑しつつも了承した。
『では、もしもそう判断する者に見舞え、言葉を交わした折りには、その者の現状を細部漏らさず主に報告して進呈よう』
「……頼みます」
既に二階に消えてしまった主から、ばつの悪そうな返事が返ってきた。
それを聞き届けて、我は露台から離宮の外に飛び出そうとしたのだが、思いもよらず、上から主の声が響いてきた。
「シロ、恐らくは今夜、宮廷魔導師長と副長が、わたしを殺しにくるだろう」
我はすんでのところで動きを止める。見上げれば二階の窓の縁から主が見下ろしていた。声はよく響くものだが、主自身はいつもの穏やかで胡散臭い顔で笑っている。
「もし、そこで死に損なったなら、わたしは明日、このアネイの王に会いにいく。エンジュ=サラザンと共にね。そして彼女が選ぶ道を共に進む」
我は暫し逡巡したが、主の呟きには、この既に命令と認めた行動を覆す力はない。
『ならばたとえ世が滅ぼうと、夕刻までに此処へと戻ろうぞ』
挑むように、主に向かってそれだけ告げると、我は透明な水の流れるせせらぎを飛び越えた。
さすがに少々詰め込み過ぎたきがします。後から訂正あったらごめんなさい。




