彼と彼女の微妙な関係
午後は農作業を手伝った後で、川で泳ぐのがイッペイの日課だった。
川べりには洗濯や洗い物や野菜のあくぬきやら、町の女が繰り出しておしゃべりしながら作業をしている。イッペイにはそれが、故国で見た街角でのおばさんたちの立ち話を想像させる。老いも若きも、女性というのは歓談が好きならしい。
子供たちが水遊びをするのは、彼女らのそばだ。まさに目の届くところ、手の届くところ。その光景は、どこかあたたかい、と、アイマにこぼしたことがある。
アイマは不思議そうに首をかしげた。
「なぜ?」
当たり前のことは説明しづらい。しばらく考えてから、俺の家では、とたどたどしく言った。「物理的な距離なら、ここの親子より、おふくろの近くにいたけど、たぶん、おふくろは、俺を見てなかったし、手を差し伸べてもくれなかったから、かな」
アイマは少し考え、そうね、とうなずいた。
「こんな光景、当たり前だと思ってたけど、そうじゃない人もいるのね」
たぶん、そういうことなのだろうと思う。
その日も同じく、日課の水泳のため、母子の群れからは離れた場所で、イッペイは川の中央を目指した。
川は、イッペイの見たことのない巨大なものだ。テレビ画面を通してならば知っている世界の大河は、たぶんこのようなものなのだろう。
ちょっと休憩、と背泳ぎに変えたイッペイは、そこにヒバリを見つけて笑った。
ヒバリの目にするこの川は、きっと、テレビで見た上空からのカメラ映像のようなものなのだろう。そこに、彼の姿はあるまい。川の巨大さに比べ、人間の体はあまりに小さい。
初めてこの川を見たときの衝撃を、今でも思い出す。
なんて巨大なものがこの世にはあるのだろうか。それに比べ、俺の見てきた世界のなんと矮小なことか。
言葉にすればそんなところだ。
感傷と休憩を終わらせて、彼は再び力泳を開始した。
陸に上がる頃には、だいぶ下流へ流されているから、町へ戻るのに川辺を歩くことになる。考えながら上流へ向けて泳いでいるつもりなのだが、さして速いとも思えない流れに流されてしまう。
いつものように、イッペイの水泳ポイントにアイマが待っていた。
「泳ぎ、だいぶ様になってきたわ。とても、片腕の人とは思えないぐらい」
「一年近くやってるんだ、そうでなきゃ困る」
「よくまあ、飽きもせずに毎日毎日。村の人からすれば、泳ぎなんて、ただの水遊びよ」
「俺の国では、泳ぎを競い合うんだ」
「そういうのもあるわ。たしかに。だけど、なんか、イッペイの国って、変」
イッペイは思わず笑った。
なるほど、確かに変かもしれない。
「……泳ぐのは、体にいいんだ。全身の運動になる」
おかげで、左腕を失ってから、無理をさせた筋肉と、衰えた部分とがわかった。
「村の人は、みんな泳げるのか?」
「泳げない人はいないわよ。川は子供の遊び場だもの。溺れるのは、子供にとっても不名誉なことだし」
服を着終えると、アイマと並んで帰途に着く。これも、変わらぬ日課になった。
「聞いた? また武神の子、反乱軍残兵退治」
いつもと変わりないと見えながら、アイマの躊躇がイッペイには伝わっていた。
「タカシとリョウ、か・・・・・・」
その名前が心を揺さぶる。それは、懐かしさであると同時に、なにゆえ俺だけが、という怒りにつながる名なのだ。
「・・・・・・ごめん、嫌いだったね、この話」
「別に・・・・・・」
ふてくされている様子を見せぬように、イッペイは辺りを見回した。
「それよりも、お前、話があるんじゃないか?」
ほとんどあてずっぽう、武神の子の話をする前の彼女の表情からの推測だ。
「……さっき、コルロに聞いたんだけど」
コルロ。よそ者のイッペイとなににつけ反発する男、若者たちのリーダー的な存在。コルロの侮蔑の目を思い出して、イッペイは顔をしかめた。
「求婚でもされたのか?」
「ええッ!? ま、まさか、そんなんじゃないわ」
「あいつは明らかにアイマに気がある。あとはお前の気分しだいだ。悪い気がしないなら、俺みたいなよそ者の世話を焼くより」
「やめて!」 アイマは、とび色の瞳でイッペイを睨みつけた。「なんでそんな話になるの? なんで、そんな」
イッペイはしばらく立ち尽くしてから、「悪かった」 とつぶやき、川の向こうへ視線を移した。
「あたしが聞いたのは、イッペイが、明日のお祭りに出る、っていう話」
「……ああ、それか」
「なんで? 危険よ、なにをやるか知ってるでしょ!?」
「試合、だろ。木刀持っての殴り合いは、慣れてる」
「隻眼隻腕で参加したなんて話、聞いたことがない」
「俺は強いさ。知ってるだろ?」
「でも……」 となにかしら続けようとして、アイマは、質素を絵に描いたような粗末な服を握った。「なんであたしに隠してたの?」
イッペイはため息をついて、歩き出した。「出してくれるよう頼んだのは、ついさっきだ。いつ話せってんだよ」
「え?」
「晩メシの話題に提供しようと思ってたのに。それにしても、コルロの野郎、なんでもう知ってんだ?」
「……対戦相手がコルロだから」
知らず知らず、舌打ちが漏れていた。
片腕だからと手を抜いてくれることなど相手に求めてはいない。それはイッペイのプライドが許さない。しかし、それにしたって、町でも五本の指に入る戦士で、しかもイッペイを嫌っているコルロとは。
「コルロが立候補したんだって。明日、あなたをなぶり殺しにするつもりよ」
「やれるもんならやってみやがれ、タコ助が」
思わず昔の言葉が口から飛び出したのは、たぶん闘志のためだろう。