8. 真相編
午後10時。
予告した時刻ちょうどに、マスクは展示室内に立っていた。闇夜に目立ちにくい紺色のライダースーツと長い黒髪。窓もなく、非常灯しか付いていない展示室の中では、自分の姿すら見失いそうだ。
〔誰も出て来ない……〕
人の気配はするのだが、まだ出てくる様子がない。どういうつもりだろう。まあ良い。昼間にアシストが盗み出した鍵を使って、展示品をしまうガラスケースを開ける。
マスクがガラスケースから取り出したのは。
ハルが遺した暗号文だった。
〔ま、正確に言うとこれは、ハルの財宝そのものじゃないんだけどね〕
暗闇でも見える暗視スコープ越しに、額縁に入った暗号文を見つめる。
確かにこれは、ハルの暗号文が示す財宝ではない。だが、それに近いものだ。そしてこれには、歴史的な価値がある。
〔さて、誰も出てこないのなら、犯行声明置いてとっとと逃げましょう〕
ライダースーツのポケットから、名刺サイズのカードを取り出す。『ハルの遺した財宝、確かに頂いた。 怪盗マスク』ガラスケースの中に犯行声明を置いた、ちょうどそのとき。
パシャリ。
シャッター音とともに、フラッシュが瞬いた。
「!」
続けて天井の照明が一斉に灯される。マスクは視界が真っ白に覆われ、慌てて暗視スコープを取った。
「脅かさないでくれる?」
まぶしさに目を細めながら、マスクが言った。視線を向けるのは、先ほどから人の気配がしていた展示室の出口の方。そこから、カジュアルな白いYシャツに、青いネクタイを緩く締めた少年が現れた。
「別に、脅かすつもりではなかったんですけどね」
自分の目くらましに、自分でやられたらしい。目を細めている。
「ちなみに、写真を撮ったのは私」
真解の後ろに、4人の人間が立っていた。そのうち3人は中学生。残り1人、革ジャンを着た女がデジカメ片手に立っていた。さらにもう一枚、パシャリと撮る。
「マスクの素顔ゲット♪」
「ふん」マスクは左腕に額縁を抱え、右手で前髪を掻き揚げた。「これが素顔だって、どうして言い切れるの?」
「変装する理由がないじゃない」
「あなた達がいることは、アシストから聞いているのよ? 変装するに決まってるじゃない」
「ウソね」
江戸川が一歩前に進み出る。
「アシストは警察に捕まった。あなたに連絡する余裕はなかったはずよ」
「あら。じゃあどうして私は、こんなに易々ここに入って来れたのかしら?」
「……まさか」江戸川が一歩退く。「警察に変装して逃げ出したとでも言うの…!?」
マスクは小さく笑い、「プランBよ」と意味不明な言葉を呟いた。マスクはそのまま、視線を江戸川から真解に移す。
「それにしても、よくわかったわね。暗号文が示す財宝が、暗号文そのものだ、なんて」
「ええ……正確に言うと、ちょっと違うようですが」
真解はニヤリ、と笑って言った。
「ハルの遺した財宝……それは、微分と積分です」
「暗号文のナゾが解けた者は、ハルの財宝が手に入る。では、その暗号文のナゾとは何か? それはもちろん、そこに出てくる針の正体です」
真解はマスクから視線を逸らさずに話す。マスクも、真解から視線を逸らさなかった。だが、注意は四方に向けているようだ。仮にいま後ろから飛び掛っても、するりと避けられるに違いない。
「言うまでもなく、そんな妖怪が実在するわけがありません。つまり、その針は何かの比喩なんです。ではなんの比喩なのか」
3時間前、溝呂木の家で暗号文を読み返したとき、真解はデジャヴを感じた。「どこかで聞いたことがある」と。しかし、博物館で読んだときはデジャヴを感じなかった。つまり、博物館から溝呂木の家に帰るまでの間に、暗号文に似た話を聞いたのだ。その間に聞いた話と言えば、真実の講義をおいて他にない。
「それが、微分と積分ってこと?」
マスクが聞く。真解は「ええ」と頷いた。
「微分と言うのは、ごく小さな変化を調べるものだそうです。暗号文の中でも、『私』は針を本に突き刺して、針のごく小さな変化を調べています。また積分は、図形を細かく切り分けてその面積を足し合わせるものだそうです。暗号文の中で『私』が鞠を落とすと、細かい破片が飛び散りました。つまり『私』は、鞠を細かい破片に分けたんです」
全て真実が話したことだ。真解の隣で、真実は期待に満ちた眼差しを真解に向けた。褒めて欲しいらしい。しかしマスクしか見ていない真解は、それに気付かなかった。
「少しずつ変化する針と、それを積み重ねて出来た鞠。これはそれぞれ微分と積分を表し、しかもこの2つになんらかの関連があることを示唆している」
ところで、と真解は強調して言った。
「和算に微分はなかった。微分のような概念はあったものの、はっきりとした形は成していなかったし、それを積分と結び付けてもいなかった。しかしハルはそれを成し遂げた。微分を発見し、積分と結びつけた。……これは、数学史に残る発見。その証拠となるその暗号文には、歴史的な価値がある」
溝呂木や三木がハルの財宝を発見できなかった理由も説明できる。彼らは数学が得意ではなかった。当然、微分と積分の概念も知らなかった。だから、暗号文の意味を読み解けなかった。
暗号文が200年間解かれなかった理由も、そこにあるのだろう。暗号文を目にするのは、歴史家だ。しかし歴史家は数学に詳しくない人間が大半である。一方、数学に詳しい人間が、この暗号文に触れる機会があるとは思えない。
森羅万象あらゆる知識を追い求めるマスクだからこそ、ハルの遺した財宝に辿り着けたのだ。
「その通り」
とマスクは微笑んだ。さり気なく、暗号文の入った額縁を、自分の持っていたカバンに入れる。
「いくら私でも、微分と積分を盗むなんて出来ない。でも、この暗号文には魅力がある。女性が社会的に弱い立場にあった当時、たった16歳の女の子が、独力で微分と積分にまで辿り着いた。アイザック・ニュートンでさえ、20歳を過ぎてから発見したと言うのに」
カバンのファスナーを締め、小脇に抱える。
〔隙を作りたかったけど……〕真解は思った。〔無理だな!〕
「謎事!」
「おう!」
ダッと謎事が駆け出した。同時に、マスクの背後から兜と猫山を含めた5~6人の警察が飛び出す。
男達に捕まりそうになった瞬間、マスクは壁に向かって跳んだ。ガラスケースの向こうの壁を蹴り、体をさらに上へ。天井の穴に手をかける。換気口だ。ひとがぎりぎりで通れそうな細い換気口の蓋が外されていて、マスクはそこに入り込んだ。
「話してる間に隙を作ろうとしたのかしら? 残念ね。暗号文は頂くわ」
すぐ下では、男達が山積みになっていた。くんずほぐれつしながら、警官達が慌てて立ち上がる。
勝ち誇った笑みを浮かべるマスクを見上げながら、真解は小さくため息をついた。そして、勝ち誇ったようにニヤリと笑う。
「無駄ですよ。その暗号文は偽物です」
だがマスクは、表情ひとつ変えずに答えた。
「ウソね。私は知っているわ。あなた達は、午後6時の時点ではまだ暗号が解けていなかった。その直後に解けたとしても、残り4時間。たった4時間でこんなに精巧な偽物を作ることは不可能よ」
「自分たちは、逮捕された直後に警察に変装するくせに」
「私達には出来るわ。でも、あなた達には不可能よ。それにそもそも、ガラスケースを開ける鍵がないじゃない」
マスクの言葉に、真解はポケットから鍵を取り出した。それを高々と上げて、マスクに見せる。
「スペアキーです」
「……どのみち、偽物は存在しない。ウソつきは泥棒の始まりよ?」
泥棒に言われると、説得力があるやらないやら。
真解が複雑な思いをめぐらす間に、マスクは換気口の中に体を隠した。ごそごそ、と遠ざかる音がする。
「追え! 逃がすな!」
兜が叫んだ。中年の刑事たちが外へ飛び出す。若い刑事が2人残り、なんとか換気口に入ろうと壁をよじ登ろうとした。だが壁には取っ掛かりがなく、不可能だ。マスクのように跳ぶことも試したが、壁に激突して終わった。
「逃げられたか」
真解は呟いた。出来れば捕まえたかったが、暗号文は守れた。それで良しとしよう。
「溝呂木さん」展示室の出口に向かって、真解が言った。「残念ながらマスクは捕らえ損ねましたが、暗号文は守れたようですよ」
展示室に入ってきた溝呂木。
その手には、大切そうに暗号文が抱えられていた。
「マスクはなんで、あんな勘違いをしたんだろう?」
一件が落着し、真解たちは帰途に着いた。溝呂木がワゴン車で駅まで送ってくれると言うので、ありがたく乗せてもらった。
「暗号文の複製を今日作ったなんて、一言も言ってないのに」
「マスクも、意外におっちょこちょいだよねー」
楽しそうに真実。溝呂木もご機嫌だった。
「あの暗号文は、儂がもう何年も前に作ったものだからな。せっかく作ったのに、盗まれたのは惜しいが……」
惜しいと言いつつも、嬉しそうである。マスクに「精巧」と褒められたからかも知れない。
「江戸川さんが見たのも、偽物だったんですね」
「ええ」
江戸川は、2週間前に溝呂木の家で暗号文を見たと言った。だが、博物館の企画展示は1か月前から行われていたのだ。2週間前に、溝呂木の家に暗号文があるはずがない。つまり、江戸川が見たのは偽物だったのだ。
「マスクは自分が盗んだものが偽物だって、気付くかな?」
真実がウキウキした声で言った。もし気付いたなら、そのときの衝撃はいかほどか。
「そうだなぁ」と溝呂木。「精巧と言っても、和紙も墨も江戸時代の物ではなく、現代の物を使ったからな。ちゃんと調べれば、すぐに偽物と分かると思う」
後ろの席で、メイが心配そうに呟いた。
「ですが、もし偽物だと気付いたら、マスクはまた盗みに来るんではないでしょうか?」
「そのときは」溝呂木が少しだけ後ろを振り返る。「また頼みますよ、皆さん」
次の日の夕方。ネットでニュースを見ていた真実が、「ねぇお兄ちゃん、これ見て!」とパソコンの画面を指差した。
「なんだ?」
ベッドに横たわっていた真解は、読んでいたマンガを置いて、真実の後ろに立つ。そこには、見覚えのある建物の写真が写っていた。
「これって、昨日の博物館?」
「そう! マスクが盗みに入ったって事が今朝ニュースになって、そのおかげでお客さんがいっぱい来たんだって!」
確か今日は、企画展示の最終日だったはずだ。記事には、「企画展示の最終日に観覧客の方がたくさん来てくれて、忙しいですが嬉しい悲鳴です。これを機会に、皆さんが和算に興味を持っていただけると嬉しいです」という趣旨の三木の言葉が掲載されていた。ちなみに、記事の執筆者は「江川蘭子」とある。江戸川のペンネームだ。
「上手くやったんだな、江戸川さん……」
どのくらいの収入になったのだろう。
2人はしばらく黙って記事を読んでいた。画面を最後までスクローズしたところで、真実が顔を上げて真解を見た。
「そういえばさ、お兄ちゃん」
なに、と真解は視線で答える。
「ちょっと気になったんだけど、どうしてハルは、わざわざ暗号文で微分と積分を遺したのかな? ストレートに書けば良かったのに」
「……」
言われてみればそうだ。真解は考えながら、真実の顔を見た。いたずら好きな猫のような目を、じっと見つめる。
「な、なに? そんなに見つめたらキスするよ!」
真解は視線を逸らした。
「ハルが和算をやることを、周りの人間はあまり歓迎していなかった。たぶん女性が学問をやるということ自体、考えられない時代だったんじゃないかな。よもや、それまで誰も気付かなかったことを発見したなんて言っても、相手にされなかったんじゃないだろうか」
「それで、暗号文を?」
「うん。『いつか、誰かが気付いてくれるに違いない』……たぶん、ハルはそう思ったんだと思う。『この暗号が解けるほどの人間なら、きっと自分の発見を認めてくれる』と信じて」
そこで真解は、再び真実に視線を戻した。いたずら好きな……いや、数学好きなその目を、じっと見つめる。
「ちょうど、問題を解いた真実が、その解法を語りたがるように。語りたがるのは、認めて欲しいからだろ?」
「…………」
真実は少しだけ、唇を尖らせた。なんかいま、バカにされた気がする。
「お兄ちゃんだって、人のこと言えないよ」
「? どういう意味だ?」
「だってお兄ちゃん、昨日マスクに向かって、長々と暗号の意味について説明したでしょ? でも、どうしてそんなことしたの?」
真解は一瞬無言になった。
「……え?」
「だって意味ないじゃん。あのとき、あの場にいた全員が、暗号の意味を知っていた。マスクは自分で解いたし、わたし達は事前にお兄ちゃんから聞いていた。だから、あの場で暗号の意味を説明する必要なんて、どこにもない」
「……」
確かに。
確かに、その通りだ。
真解はゆっくりと、真実から視線を逸らした。
「お兄ちゃんだって、わたしやハルと同じ。『語り好き』なんだよ」
それが図星だと聡明な真解はすぐに気付いて、でもそれを認めたくなくて。楽しげに言う真実を視界に入れないように、真解はベッドに潜り込んだ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
またひとつ、言っておきますが……。
今回の話の構成が、加藤元浩さんの漫画『Q.E.D.』の「十七」に似てしまったのは、全くの偶然です。
ほ、本当だってば。
なお、和算の歴史的背景などは、遠藤寛子さんの小説『算法少女』を参考にしています。
まぁ、本編の内容には全く反映されていませんが(脳内設定に反映されているが、登場する機会がなかった)。