6. 推理編
それから、真実を含め、一同はずっと静かだった。時々真解とメイが暗号について話す以外、展示室内に会話はない。三木も、いつの間にか受付裏の事務室に戻ったようだ。
そのとき、室内に静かに音楽が流れ始めた。『蛍の光』のカラオケバージョンだ。
「あら」江戸川が腕時計を見た。「6時閉館なのね」
展示室の出口から、三木が入ってきた。すまなそうに頭を下げる。
「皆様、本日はお越しくださりありがとうございます。申し訳ありませんが、閉館時間となりましたので……」
閉館なら仕方ない。6人はぞろぞろと出口から外へ。そして無人の駐車場へと進んだ。
〔マスクの予告した時刻まで、あと4時間〕
真解はぼんやりと考えた。
古語の知識をメイから得ながら暗号文を読んだが、結局何一つ分からなかった。200年も解けなかった暗号を数時間で解こうというのは、さすがに無理があったのか。
〔だけど、マスクは解いた。いったい、何故解けたんだ?〕
マスクにあって自分にないものが、きっと何かあるのだ。それさえ掴めれば……。
「突っ立ってないで、早く乗ってよ、お兄ちゃん」
後ろから真実が小突いてきた。目の前には白いワゴン車。真解は来るときと同じ席に座った。その横に真実が寄り添うように座る。
「暑いからあまり引っ付くな、真実」
「頭を使えば、暑さは感じない」
そう言う真実は、自分の手帳に図や数式を一心不乱に書いていた。ハルの問題にいまだに挑んでいるのだ。暗号への興味は、完全に失われていると見て良い。
「ビブンを使わずに解けそうか?」
「さっぱり」
シャーペンの頭を唇に押し当てながら、真実が答える。既に手帳のページは、10ページ以上使われていた。もっとも、文庫本サイズの手帳なので、1ページに書ける分量も少ないのだが。
全員乗り込んだのを確認し、溝呂木がワゴン車を動かした。謎事は横目に、博物館の塀を見た。「日本の数学 ~和算~」のポスターが、広々とした掲示板に寂しげに貼ってある。
「明日が最終日なんだな」
「何がですか?」
「企画展示。1か月やってたらしいぞ」
明日が最終日なのに、自分達以外観覧客がいなかったのか。三木が嬉々として説明していたことも頷ける。
帰りは行きと違って、会話がなかった。疲れていたのかもしれない。真実がペンを走らせたり、カチカチとノックしたりする音が、車内に響いた。
「やっぱり無理よ、微分使わないなんて」
「しかしなぁ」真実の呟きに、溝呂木が答える。「和算に微分はなかったからなぁ」
「そもそも、ビブンてなんだ?」
謎事が聞いた。真実が目を輝かせて、後ろを振り向く。
「微分って言うのはね!」
「お、おう」
「ごく小さな変化を調べるものなの」
「小さな変化?」
鸚鵡返しに謎事。真実は、うん、と頷く。
「例えばこの問題」
真実は手帳を開いた。三角形と、それに内接する円。算額に載っていた図と同じだが、「甲」「乙」の代わりに「x」「y」と書かれている。
「三角形にぴったりはまる円があるとき、この円の面積を最大にする三角形の底辺を求めよ。私はこの問題を、微分を使って解いた。これはつまり、『三角形の底辺をほんの少しずつ変化させ、逐一円の面積を求めて解いた』と言うこと」
「ほんの少しずつ?」
謎事は頭の中でアニメーションした。三角形の中に、円を収める。そして三角形を、左右に広げたり狭めたりする。当然、円も大きくなったり小さくなったりする。
「つまりこういうことか」横から真解が聞いた。「正面突破じゃ解けないから、『ありとあらゆる三角形を描いて』円の面積を全て求めた……」
「平たく言えば、そういうことね」
「そんなこと不可能だろ」
と謎事。真実は謎事にシャーペンを突きつけた。
「それが出来るのが微分。ま、実際には微分は『変化』を求めるだけだから、『三角形の底辺がAからBまでは円の面積が増え続けるけど、Bを超えると減り始める』みたいに、増減しかわからないんだけどね」
「増減だけじゃダメじゃないか?」
謎事の疑問に、真解が答えた。
「いや、増減がわかれば十分だ。AからBまでは増えて、Bからは減り始める。ってことは、Bが“頂上”になるってことだ。だから、三角形の底辺がBのときに円の面積が最大になる」
「そういうこと」
へぇ、と言う空気が車内に流れた。助手席に座る江戸川が、前を見たまま聞いた。
「さっき、積分がどうとか言ってたけど、何の関係があるの?」
「積分は、複雑な図形の面積や体積を求めるのによく使うんです」
「それと微分と、何の関係が?」
「えっと……」
真実は上を向いて、少し考える仕草をする。木の上にいる小鳥を狙う猫のような印象だ。どうやったら気付かれずに、あそこまで近づけるか。
「複雑な図形の面積を求めようと思ったとき、そのまま求めるのは無理なので、それを細かく分解して求めようとした人がいたんです。例えば四角形とか三角形とか、面積の求めやすい形にバラバラにして、その全ての面積を足してしまえば良い、と」
話を聞きながら真解は、小学校の算数の授業を思い出した。確か、黄色いタイルを何枚も並べて、図形の面積を求めたことがある。
「最初のうちは、図形ごとに求めやすい形を考えて切り刻んでたみたいだけど……そのうち、全部長方形で済むことに気が付いた人が出てきたの」
「なんで長方形なんだ?」
後ろから謎事が聞く。全員すっかり真実の話のとりこだった。勉強熱心な人々である。
「複雑な図形を細い千切りにすると、一本一本はほぼ長方形になる。その長方形の幅は全て同じで、高さは図形の形に沿って少しずつ変化する」
「少しずつの変化って」と謎事。「微分じゃん」
「そう。ある長方形から隣の長方形に移るとき、高さがどのくらい変わるかは、微分を使って求めることが出来る。そうすれば、長方形の高さがわかる。すると、幅かける高さで長方形の面積が求まる。それらを足し合わせれば、複雑な図形の面積が求まる。……これが積分よ」
真実先生の講義終了。
……かと思ったが、真実はその後も、延々と微分と積分について語った。その大半は真解たちには理解できなかったが、真解は思った。
〔真実って、語り好きだよな…〕
「良いじゃん別に」
〔なんで心を読まれたんだ?〕
真実の講義もいよいよ佳境、と言うところで車は溝呂木宅に到着した。真実は語り足りないようだったが、問答無用で真解たちは車から降りた。
真解たちは、再び応接室へ通された。溝呂木が麦茶と数冊の大学ノートを、漆塗りのケヤキのテーブルに置いた。ノートはすべて、ハルに関することが書かれているらしい。どのページにも、明朝体のような骨ばった字が綴られている。溝呂木の字だ。
「皆さんは、これを参考に暗号に挑んでください。儂は夕ご飯を作ってきます」
「手伝いましょうか?」
江戸川が軽く腰を浮かす。溝呂木は丁重に、
「いや、結構です」
応接室の冷房を入れると、部屋を出て行った。
真解たちは早速、目の前のノートを手に取った。
「でもよ」ノートをパラパラやりながら、謎事。「本当に財宝なんて、あんのかな?」
全員が、謎事を見る。「ハルがウソを吐いてるってこと?」と真実が聞いた。
「いや、最初からないのか、途中でなくなったかわかんねぇけど……」
謎事は室内を見渡した。アンティークな棚に、骨董品が並んでいる。
「この家、築30年くらいだろ? で、溝呂木さんはこの家を建てたときには既に、ハルの暗号文を知っていた。なら溝呂木さんは、30年以上前から、ハルの財宝を探してたって事じゃないのか? こんな何冊もノートを作るくらい、真剣に」
ノートは、どのページも文字や写真でびっしりと埋まっていた。気まぐれで作れるような代物ではない。文字の丁寧さからも、真剣さが伺われる。
「なのに、発見できてねえんだろ? それは、財宝がないからじゃないか?」
「いや、財宝はある」
真解が強い否定をした。あまりにはっきり断言するので、謎事のみならず、真実たちも驚いたようだ。
「どうして言い切れるの?」
「マスクが予告状を送ってきたからだよ。マスクが『盗む』と言った以上、財宝はあるんだ」
それは、妙に説得力のある言葉だった。マスクは「盗む」と宣言した。なら、財宝はあるのだ。なければ盗めない。
「ですが」とメイ。「謎事くんの言うことも、一理あると思いますが」
「よほど上手く隠した、とか?」
江戸川が言った。そういえば、江戸川は倉でもそんな主張をしていた。
真解はしばし俯き、考えに沈んだ。数秒そうした後、顔を上げて説明し始めた。
「今の状態は、3つの可能性のどれかに分類できる。1つ、財宝は存在しない。でも、これはあり得ない」
うん、と真実が頷く。
「2つ、財宝はあるが、まだ見つかっていない。この可能性は、否定も肯定も出来ない。たまたま見つかっていない可能性もあるけど、メイや謎事が言うとおり、不自然だ」
謎事とメイは顔を見合わせた。それから再び、真解の方を見る。
「それで、3つ目は?」
「3つ、財宝はあり、既に見つかっている」
「は?」謎事が間の抜けた声を出した。「どういう意味だ?」
立て続けにメイが言った。
「既に誰かが発見していて、でも発見者がそれを隠している、と言うことでしょうか?」
「違う」首を振った。「それだったら、マスクが溝呂木さんに予告状を出した理由が説明できない。誰かが隠しているなら、その隠している相手に予告状を出すはずだ」
「それは、溝呂木さんが財宝を持っているから、マスクは溝呂木さんに予告状を出した、と言うことですか?」
「ああ」
真解が頷くと、4人の顔には疑問符しか浮かばなかった。財宝は存在する。そして既に発見されている。それを溝呂木が持っている。しかし、溝呂木はそれを懸命に探している。……いったい、何故?
「つまり。財宝はあり、既に見つかっているが、それが財宝だと気がついていない、と言うことだ」
「は?」謎事が再び間の抜けた声を出した。「そんなこと、あるのか?」
「あり得なくはないと思う。だって、財宝がなんなのかすら、わかってないんだろ? だったら、財宝を見つけたって、それが財宝だって、どうやってわかるんだ?」
言われてみれば、そうである。
「だけどさ」と真実。「財宝って言うくらいなんだから、価値あるものなんじゃないの? わたし達はともかく、溝呂木さんなら、一目見て財宝だってわかるんじゃないかな?」
「ハルの遺した財宝が、価値あるものとは限らない。例えば、自分が大切にしていた本とかかもしれないだろ?」
「……裁縫箱とか?」
「……絶対ないとは言い切れないな」
何故そんなに裁縫箱が気に入ったのだろう。真実に手芸の趣味はなかったはずだが。
「あ、そうか」謎事が神妙な顔で、独り言のように言った。「あれはそう言う意味か」
「あれ?」
真実が眉をひそめて聞き返す。
「さっきちょっと気になったんだけどな。いまの真解の話を聞いて、わかった」
「どういうことだ? 何が気になったんだ?」
謎事の言う「あれ」を聞いて、今度は真解が神妙な顔になった。
〔……気にするほどのことじゃない、か? いや、言われてみると他にも妙な点があったような?〕
しばらく考えたが、真実が言った。
「気にすることないんじゃない? それより、早くしないとマスクが来るよ」
棚に置かれた電子時計を見る。現在時刻は午後7時。あと3時間で予告の時間だ。
「やっぱり、暗号を解くしかないのよ。そうすれば、財宝の在り処も、そもそも財宝がなんなのかもわかるじゃない」
「……それもそうだな」
真解は目の前のノートを手に取った。それは、最初に溝呂木が持ってきたノートだ。
ページを開き、例の暗号文を探す。すぐに見つけ出すと、真解は改めて、暗号文を読んだ。
〔私がその物の怪に出会ったのは……〕
読み終わって、真解はデジャヴを感じた。いや、この暗号文ならもう何度も読んだから、既視感があるのは当然だ。しかし、違う。これはデジャヴだ。
〔ボクはこの暗号文を、「聞いた」ことがある〕
何故だ。溝呂木が原文を読み上げたからか。いや、違う。真解は思い出した。これは、あそこで聞いたのだ。
真解は俯き、口元に拳を当てた。真解の頭が、高速で回転を始めた。
この暗号文が解けた者は、ハルの遺した財宝が手に入る……。
〔いや、違う!〕
溝呂木はそうは言わなかった。この暗号文の「ナゾ」が解けた者は、財宝が手に入ると言ったのだ。
〔この暗号文そのものを解くんじゃない。この暗号文に隠されたナゾを解かなきゃいけないんだ!〕
そして、そう考えたとき。
ウソのようにあっさりと、暗号の意味を理解した。
「……見えた」
「ふぇっ?」
真実が顔を上げ、真解の顔を覗き込んだ。
「解けたの?」
「あ、ああ。だけど……」
だけど、の後は真実の歓声にかき消された。答えは何、と真解を揺する。
〔解けたは良いけど〕揺れながら、真解は考えた。〔マスクはこんなもの、どうやって盗むつもりなんだ?〕
そこで、天啓のように真解はひらめいた。先ほど謎事が言った、気になる点。あれは、ここにつながって来るのではないか?
そのとき応接室の扉が開いて、四角い顔が中を覗いた。溝呂木だ。
「夕食が出来たよ」
「溝呂木さん!」
立ち上がって、真解が言った。
「溝呂木さんはもしかして、骨董品の複製なども行っているんじゃないですか?」
「……うん?」
まあ、確かにやっているが。答えながら、溝呂木は首を傾げた。
「それが?」
真解はニヤリ、と笑った。
「急ぎましょう。今ならまだ、マスクの犯行を阻止できます」
~読者への挑戦状~
以上で、「問題編」は終了です。
さて、ハルの遺した財宝とは、いったいなんでしょう。
そしてその在り処は、どこでしょう。
マスクはそれをどうやって盗もうとし、
真解はどうやって守ろうとしているのでしょうか。
すべての手がかりは、「問題編」のどこかに隠されています。