5. 計算編
溝呂木がハルの暗号の原文を読み終えた。しかし、真解たちは首をひねるばかりである。
何を言っているのか、さっぱりわからない。
現代語訳を知っているので、大筋はわかる。「くら」とか「はり」とか言う言葉も出てきた。だが原文を聞いたからと言って、暗号が解けるとは思えない。
真解はうなりながら、ハルの暗号を見た。今の話を聞いても、崩し字が読めるようにはならなかった。
「こういうのってさ」と真実。「文章の頭をつなげると単語が出てくる、とかよね」
「そうなのか?」
「博士。そうすると、どうなりますか?」
「えっと……」
しかし溝呂木が言った言葉は、意味不明な言葉の羅列だった。
「……いまの言葉を、現代語に直してくれますか?」
「無理だな」溝呂木は一蹴した。「少なくとも、儂の知る単語は含まれていない」
「メイちゃんは?」
メイも黙って首を振った。
「違うかー。あ、じゃあ、平仮名を飛ばして読むとか」
「そこに書かれているのは、全部漢字だ」
「あれ?」
その後も、真実は手当たり次第に解法を提案したが、どれも意味を成す文章を作らなかった。
「そもそも」見かねた真解が、横から突っ込みを入れた。「200年も解かれなかったんだ。3文字飛ばしで読むとか、いろは歌で1文字ずつずらすとか、そういうシステマチックな方法で解けるなら、とっくに誰かが解いてるに違いない」
真解の言葉に、溝呂木が賛同した。
「うむ、儂もそう思う。それに、5文字飛ばして読んだり、いろは歌で3文字ずつ後ろにずらしたりと言ったことは、儂も既にやっている」
〔やったんだ……〕
真解は気まずそうに、溝呂木から視線を逸らした。それに気付かず、溝呂木は続ける。
「これは儂のカンだが、この暗号文は、もっと素直に受け取って良いような気がするのだ」
「素直にって、どういう意味ですか?」
そこで溝呂木は唸った。そこまではわからないらしい。
「お兄ちゃんはどう思う?」
真実の質問に、真解はしばらく考えてから、
「わからない」
と首を振った。
「でも溝呂木さんの言う通り、この暗号文は、何らかの方法で変換すると別の意味ある言葉になる……という類の物ではないと思う。それこそ、メイが言っていたシャーロック・ホームズの暗号に近いものだと思う」
「三角比ね」
「三角比が出てくるかどうかはわからないけど……。そもそも、三角比ってなんだ」
真解の質問に、真実は爛々と目を輝かせた。
「三角比って言うのはね!」
「いや、やっぱり良い」
「なんでよ」
「いまは暗号に取り掛かりたい」
そう言って真解は、再びガラスケースの中を覗き込んだ。
「……先ほどから気になっているのですが」
少し離れた位置から、遠慮がちに三木が尋ねる。誰が尋ねられているのか分からず、6人全員、三木を見た。
「皆さんは、その暗号を解こうとなさっているのですか?」
「ええ」
「何故です?」
真解たちは、チラリと溝呂木を見た。溝呂木が代表して言う。
「三木さんには、水曜に真っ先に連絡したが……」
「水曜……あ、マスクですか? え、本当に?」
「信じてなかったのかね!」
「い、いえ、決してそう言うわけでは」
ぎこちなく申し訳なさそうな顔をする三木。言い訳がましく続けた。
「ただ水曜に私が申し上げたとおり、暗号が解けなくとも、財宝を守ることは可能ではないかと思い込んでまして。まさか、解こうとするとは……」
真解は眉をひそめた。「どういう意味です?」
「だってそうでしょう? ハルの所有していた物は現在、溝呂木さんの家か当博物館にあります。ですが、当博物館には高価なものは置いていません。よって、マスクが狙うのは溝呂木さんの家。なので、溝呂木さんの家を警察に守ってもらえば、万事解決です」
一理ある。しかし、真解は反論した。
「ところが、そうはいかないんです」
「何故です?」
「マスクが狙うのは、高価なものばかりとは限らないんですよ。……ですよね、江戸川さん」
三木の視線を受け、江戸川は大きく頷いて答えた。
「そうですね。マスクは世間的な価値観とは無関係に、犯行に及んでいるようです。盗品の中には、世間的な価値はゼロ円と言うものもあります」
「なるほど……」
三木はあっさりと納得した。それから、暗号の方を振り見る。
「わかりました。なら私も、出来る限り協力しましょう」
しばらくの間、真解たち4人はガラスケースの中の暗号文を見ていた。溝呂木は反対側の間仕切りで、ガラスケースを覗き込んでいる。江戸川も辺りをキョロキョロと見渡し、プレートを立ち読みしていた。三木は少し離れたところから、その光景を見つめていた。
そのうち謎事と真実が音を上げて、他の展示品を見始めた。展示品やプレートを見るたびに、真実は三木に「これはなんですか?」「なんて書いてあるんですか?」と質問していた。それらの質問に、三木は淡々と、丁寧に答える。
「これはなんですか?」
真実は、真解たちから少し離れたガラスケースの中を指差した。中には、一抱えくらいある額縁が展示されている。そこにはカラフルな幾何学図形と、漢字だらけの文章が並んでいる。この文章はハルの暗号とは異なり、崩されていない。幾何学図形には、何故か「甲」だの「乙」だのと書き添えられていた。
「これは算額ですね」
「算額?」
「はい。江戸時代、プロやアマチュアの和算家達が和算の問題を解いたとき、解いた問題を書いてお寺などに奉納したのです」
「それが、これなんですか?」
「はい。主に、問題が解けたことを神仏に感謝する意味と、自分の学力を人々に誇示する意味があったと言われています」
「あれ、ってことは」真実は目を輝かせた。「これ、数学の問題なんですか!?」
三木は丁寧に頷く。
「はい。問題とその答えが書いてあります。残念ながら、解法は書いてありませんが」
「なんて書いてあるんですか!?」
「少々お待ちを。えーと……」
三木は算額を覗き込み、文章を読み始めた。それから、現代語で内容を伝える。
その算額に描かれた図は、きちんとした道具で描かれたようで、パソコンの描画ソフトを使ったかのように綺麗な図だった。三角形の中に円が1つ、ぴったりと入っている。
「2辺の長さが1である三角形と、それに内接する円がある。円の面積が最大となるとき、三角形の底辺はいくらか。そう書いてあります」
「……簡単そうだな?」
謎事が呟いた。真実は「そうかな?」と言った。
「あら、三木さん」
いつの間にかに、側にいた江戸川が尋ねた。
「この算額、最後に『春』と書いてありますが、まさか……?」
「そうだ」三木の代わりに、溝呂木が答えた。「それは、ハルが奉納した算額だ」
「へぇぇ……」
呟いてから、真実はバッグから手帳を取り出した。そこに、図を書き始める。どうやら、問題を解き始めたようだ。
「真実ちゃんに解けるかね」と溝呂木。「ハルの作った問題は、どれも難しい問題だったらしい。挑戦したほとんどの和算家が解けず、この問題に至っては誰一人解けなかったそうだ」
「超難問じゃないすか」
と謎事。うむ、と溝呂木は鷹揚に頷き、真実を見た。真実は2人の会話など聞こえていないのか、一心不乱に手帳にペンを走らせている。
〔……なんか、突然静かになったな〕
それまで暗号文を見ていた真解が、顔を上げて真実を見た。
手帳を覗き込む真実の瞳は、輝いていた。いたずら好きの猫のような目が、いたずらが見事成功したときのように、細くなっている。
箸が転んでもおかしい年頃、という表現がある。箸が転がるようなちょっとしたことでさえ面白く感じてしまう、思春期の娘を指す言葉だ。真実もその例に漏れず、常に楽しそうである。
しかし、真実が一番楽しそうにするのは、数学の問題を解いているときだ。双子の兄である真解は、そのことを知っていた。いったい何がそんなに楽しいのか、真解には全く理解できない。真実は幼い頃から、パズルとかなぞなぞを与えておくと、ずっと静かだった。
〔もしかしたら、ハルもそう言う少女だったのかも知れないな〕
ハルが現代にいたら、真実と気があっただろうか。
ただ、真実は問題を解いているときは静かなのだが、解き終わると途端にうるさくなる。解法を喋りたがるからだ。
〔……まあ、今回は誰一人解けなかった超難問だし、ずっと静かだろう〕
そう思ったのに。
真実は不意に顔を上げると、ポカンとした顔で告げた。
「……解けた」
「は!?」
天才少女、ここに現る!?
一同は真実のもとに集い、手帳を覗き込んだ。英文のような数式がずらっと並んだ末に、数字が書かれている。その数字は、確かに算額に書かれている答えと一致していた。
「ど、どうやって解いたんだ?」
謎事が聞く。真実は淡々と答えた。
「んっと……たぶん、現代の数学者なら、みんな解けるんじゃないかな?」
「なんでだ?」
「微分を使えば、一瞬で解けるのよ」
「……は?」
ビブンてなんだ。謎事は呆けたが、溝呂木や三木は、むしろ納得したような顔をした。
「なるほど、誰も解けないわけだ」
「どういうことすか、溝呂木さん」
「和算に、微分はないんだよ。おそらくハルも、微分を使わずに解いたんだろう」
「微分が……ない?」
真実の疑問形の言葉に、溝呂木は頷いた。
「正確には、微分のようなものはあったらしいが、はっきりとした概念は存在しなかったらしい。積分の方は『円理』と言って、西洋にも引けを取らないレベルまで達していたようだが」
「微分がないのに、積分はあったんですか?」
「そうだ。当然、その2つを結び付けてもいなかった」
「と言うことは、積分の計算をいちいち区分求積法とかでやってたんですか?」
「……いや、儂も詳しくはよく知らないがな」
和算に関しては詳しくても、数学にそのものについての知識は深くないようだ。
「微分を使わずに解く……」
真実はそう呟いて、再び手帳に目を落とした。シャーペンを握り締め、問題に取り掛かる。
ビブンを使わずに、解こうとし始めたようだ。