4. 観覧編
県立の小さな博物館に、ハルの暗号文は託されていると言う。溝呂木の家からは、車で30分ほどの場所である。白いワゴン車に6人が乗り込み、溝呂木が運転した。車中で、溝呂木はハルについて説明した。
「ハルは、和算が最も活発な時期に生きていた」
「関孝和とかの時代ですか?」
真ん中の列から、真実が身を乗り出した。真実は和算に関しては詳しくないようだったが、和算家の代名詞である関孝和の名前くらいなら知っているようだ。
溝呂木は小さく首を左右に振った。
「その、百年くらい後かな。江戸時代後期、浅間山噴火の少し後だから、寛政の改革の頃だな」
いつだ、と謎事は思った。
助手席に座る江戸川が、冷房の風を浴びながら言った。
「200年くらい前ですか。そんなに昔に書かれたんですね、あの暗号文」
「そうだ。200年間誰も解けなかった暗号を、マスクは解いた」
「すげえ頭良いんだな、マスクって」
一番後ろの席で、謎事が言う。その隣では、メイが眼鏡を拭いている。倉に入ったときに埃が付いたようだ。眼鏡をかけ直すと、呟くように聞いた。
「マスクはいつ、暗号を見たんでしょう?」
「確かにそうだな」と真解。「もしかしたら何年も前に見ていて、最近やっと解けたのかもしれない。溝呂木博士、いままで暗号を見せた人って、誰だか覚えていますか?」
「うーん……」首をひねる。「知り合いの歴史家には、ほとんど見せている。30人…いや、40人くらいかな」
「……」
マスクとアシストには、超人的な変装の技術がある。もしかしたら、いままで暗号を見せた人の中にマスクがいたのかも……と思ったが、これでは絞り込めない。
そもそも、現在博物館に展示されているのだ。マスクはそこで見た可能性もある。
「ちなみに」と真解。「江戸川さんは、いつ見たんですか? 今日うちに来たときには、既に見たことがあったみたいですが」
「2週間くらい前ね。溝呂木博士のお宅を伺って、マスクの盗品について質問したのよ。そのときに」
割と最近見せてもらったんだな、と真解は思った。
「もっとも、読めなかったけど」
「どうしてっすか?」
「あんな崩した文字、読めるわけないでしょ」
〔現代語訳じゃなくて、本物を見たわけか〕
「もちろん、現代語訳も見せてもらったけど」
〔何故ボクの心が読める〕
溝呂木の家を出てから、窓外にはずっと住宅街が続いている。代わり映えのしない風景が続いていた。よく見ると家が徐々に古くなっていることがわかるが、その程度だ。
瓦屋根が目立つようになって来た頃、溝呂木が車の速度を落とした。
「着いたぞ」
住宅二軒分くらいの広さの敷地に、平屋の建物があった。壁一面に黒っぽいタイルが貼られ、ところどころ白いタイルが貼ってある。塀には、「日本の数学 ~和算~」と書かれたポスターが貼ってある。
敷地に入ると、すぐ目の前に建物の入り口があった。半円の自動ドアの横に、「日本の数学 ~和算~」と書かれた垂れ幕が下がっている。
入り口の前を通り過ぎ、駐車場に入る。狭い駐車場には、車が1台もなかった。溝呂木は入り口に一番近いところに、ワゴン車を停めた。
「人気ないのかな?」
真実が真解に尋ねた。そもそも歴史博物館などに来るのは、社会科見学の小学生か歴史好きだけだ。住宅地の一角にある小さな博物館では、そのどちらも寄り付かないのだろう。
入り口のドアを潜り抜ける。中は冷房が効いていて涼しかった。ロビーらしきその部屋は、教室の半分くらいの広さで、無人の受付といくつかのベンチが置いてあった。受付の上には、料金表が載っている。常設展示は無料だが、企画展示は有料のようだ。小学生以下は無料、中学生以上は一律300円。
「誰かいるのかな?」
真解は受付の前に立った。受付の奥に扉があるので、その向こうに誰かいるに違いない。しかし、呼び鈴のようなものは見当たらない。
キョロキョロしていると、突然扉が開いた。中から出てきたのは、40歳くらいの痩せた男だ。ネクタイを外したスーツ姿、色白い肌。男はぎこちない笑みを浮かべた。
「こんにちは、ようこそいらっしゃいました」
「あ……どうも」
いきなりの登場に真解は咄嗟に対応できず、中途半端に頭を下げた。何故突然出てきたのか。ふと見ると、天井にカメラを発見した。あれで受付の様子を見ていたのだろう。人気がない割に、無駄な経費がかかっている。
男の胸元には、「学芸員 三木大介」と書かれたネームプレートが付いていた。
「おや、三木さん」
「お久しぶりです、溝呂木さん」
三木はやはりぎこちない笑みを浮かべたまま、溝呂木に頭を下げた。表情はぎこちないが、口調ははきはきしている。どうやら、ぎこちない表情はただの癖のようだ。
「ここにいる6人全員、企画展示を見させていただきたいのだが」
「はい、1800円になりますね」
〔お金は取るんだな〕
溝呂木なら無料で見せてもらえそうなものだが。
溝呂木はズボンのポケットから薄い財布を取り出すと、千円札を2枚取り出した。それを受け取ると、三木は受付の下でごそごそと手を動かし、6枚のチケットと2枚の百円玉を取り出した。
「では、ごゆっくりどうぞ」
手のひらで、ロビーの先にある通路を示した。
ロビーの先の通路は、入ってすぐに二股に分かれていた。左側が常設展示、右側が企画展示だ。真解たちは、迷わずに右側の通路に入った。数メートル歩いたところで自動ドアをくぐると、小学校の体育館くらいの広さの部屋に出た。
ここが企画展示室だ。
入り口のすぐ横には、「日本の数学 ~和算~」と書かれた看板が立ててある。部屋には間仕切りがいくつも立てられ、通路を作っていた。間仕切りには和算の歴史について書かれたプレートが吊るされ、その下にガラスケースが置かれている。中には本や、木製の板などが置かれている。そろばんもあった。
「……なんか、静かだね」
真実の声が、部屋に吸収された。
展示室には、真実たちのほか誰もいなかった。照明も薄暗いので、なんだか寂しい。かすかに冷房のファンの音が聞こえるだけだ。
「まあ、話し声が迷惑にならなくて、いいんじゃないか?」
そう言って真解は、先陣切って歩き出した。後ろから真実たちが続く。
通路に沿って進むと、プレートに書かれた時代が過去から現在へと移り変わっていく。最初に目に付いたプレートは、奈良時代であった。
「奈良時代!」
真実が頓狂な声を上げる。
「そうですよ」
「ひゃぁっ!」
背後から聞きなれない声をかけられ、真実は飛び上がった。振り返ると、三木が立っている。
「普通、和算といえば江戸時代のものを指しますが、日本の数学として記録に残っているのは、古くは奈良時代……万葉集にまで遡ります」
「個別指導してくださるんですか?」
江戸川が尋ねる。江戸川の格好にも臆することなく、三木は笑みを浮かべたまま答えた。
「はい。……他に観覧される方もいらっしゃらないので」
少し寂しげに三木。真実は上目遣いで三木を見て、
「ぜひぜひ、教えてください!」
「はい、喜んで」
理系少女として、真実は和算に興味を示したようだ。謎事や、意外にも溝呂木は興味なさ気だが、他はそうでもなさそうである。特に真解は、そこに暗号を解くヒントがあると考えたのか、真実以上に真剣な様子である。
「万葉集はご存知ですか?」
「はい、現存する日本最古の歌集ですよね。成立は奈良時代の末期。飛鳥時代から読まれてきた歌を、4500首以上集めた歌集です」
さすが、授業内容を完璧に暗記している真実である。基本データはすらすらと出てくる。知識の深さで言えばメイが上だが、記憶力が自慢の真実は、一度聞いた雑学は全て覚えている。
「万葉集に、こんな歌があるんです」
と、三木が綺麗な声で歌を詠んだ。
「若草の 新手枕を まきそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに」
聞かされたところで、真解達には意味がわからない。目を白黒させた(メイは元々知っていたようで、無表情のままだった)。
「いまのは、この歌です」
と、三木がプレートを指差した。そこには、
『若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國』
と書かれていた。
「ここに、『二八十一』とあるでしょう? これで、『憎く』と読むんですよ。9×9は81ですよね。九九八十一……だから、『八十一』と書いて『くく』と読むんです」
「へぇ」
ようやく謎事も興味を持ったようである。
「他にも、『十六』と書いて『しし』と読んだり、『二五』と書いて『とお』と読んだりもするんです」
6人とも、一様に感心しているようである。
「ところで、いまの歌はどういう意味なんすか?」
謎事が聞くと、隣に立っていたメイがわずかに顔を伏せた。
「そこに書いてありますよ」
ぶっきら棒にそれだけ告げると、メイは1人で通路を先に進み始めた。
「え、おい、メイちゃん」
謎事が後に続き、真解と真実も顔を見合わせて、先に進み始めた。
江戸川は一瞬だけプレートを見て、意味を確認した。メイのウブさにくすりとして、江戸川も子ども達の後を追う。
ちなみに、いまの歌はこういう意味だ。
『若草のように美しい妻とせっかく初夜を過ごせたというのに、もう旅立たなくてはいけないのか。あんなに可愛いのに、何夜も会えなくなるなんて!』
奈良時代、平安時代、鎌倉時代……と、通路を進むごとに時代が進んでいく。三木の説明は見事に聞く人の興味をあおり、場を盛り上げた。人に物を教えるのに長けた人間のようである。
1時間以上かけて、ようやく江戸時代まで辿り着いた。
「あったぞ、これだ」
溝呂木がガラスケースを覗き込む。そこには、墨で長々と文章が綴られた和紙が、額縁のようなものに収められていた。
「あっ」
と真解が言った。
「どうしたの、お兄ちゃん」
「いや……なんでもない」
真解はいま、自分達の目的を思い出したのだ。三木の話が面白くて、ついつい忘れてしまっていた。自分達は、マスクの犯行を阻止するため、ここにいるのである。
誤魔化すように、真解はガラスケースを覗き込んだ。江戸川が言ったとおり、そこには崩し字が躍っていて、とても読めたものではない。額縁の横には、この文章がハルの暗号であることと、現代語訳が書かれたプレートがある。しかし、そんなものを見ても自分達の情報は増えない。
「溝呂木さんは、当然読めるんですよね?」
「無論だ」
「ではすみませんが、これ読んでくれますか? もちろん、古語で」
「わかった」
溝呂木は1つ咳払いすると、ハルの書いた原文を読み始めた。
ところどころに夏の描写がありますが、夏であることに特に深い意味はありません。
たまたま暑い時期に書いていたため、こうなってます。