2. 暗号編
江戸川は、免許は持っているが車は持っていないようだ。フリージャーナリストという収入の安定しない職業、しかも母子家庭なので、あまり高価なものは買えないらしい。そのような家庭だと子どもはグレてしまいそうだが、江戸川の娘はグレることなくすくすくと育っている。ちなみに彼女の娘、真澄は、真解たちの同級生だ。
実相家から電車で1時間。
「さあ着いた!」
と江戸川が見やった先には、白い大きな家があった。
辺りは住宅街。築5年か10年くらいの真新しい家が経つ中で、目の前の家だけは30年は経っているようだ。白い塀に囲まれた敷地は、辺りの家の敷地よりやや広い。2階建ての白い家の横に、薄汚れた灰色の小さな倉があり、そこだけ妙に浮いていた。
江戸川は門の横にある呼び鈴を鳴らした。カメラ付きのドアフォンだ。門も、ステンレス製の普通の門である。
「なんか、普通の家だね」
と真実は真解に耳打ちした。歴史研究家の家と言うから、古風な日本家屋を想像していたのに。
しばらく待つと、玄関のドアが開いて、1人の初老の男が現れた。四角い顔に、白髪がたっぷり乗っている。ワイシャツに横縞のベスト姿で、よたよたとした歩みだ。
「お久しぶりです、溝呂木博士!」
江戸川が手を振ると、老人も手を振り返した。彼が今回、マスクからの予告状を受け取った歴史研究家のようだ。
「こっちは、想像通りだね」
と真実は真解に耳打ちした。
溝呂木は「いらっしゃい」と微笑みながら門を開けた。するとそこで初めて気がついたように、訝しげに真解たちを見下ろした。白いまつげを生やした細い目を、少しだけ開く。
「あ、この子達は」江戸川が説明する。「私が呼んだ助っ人です。こっちから、真解くん、真実ちゃん、謎事くん、メイちゃん」
紹介され、4人は小さく会釈した。「助っ人?」と溝呂木は、値踏みするように4人を見る。それから江戸川に顔を寄せ、
「助っ人になるのかね?」
「あら、もちろんですよ、博士」
フフン、と江戸川は笑ってみせる。
「彼らは今までに2度、マスクの犯行現場に居合わせています。そして2度とも、彼女の犯行を阻止しています!」
ほぅ、と溝呂木は感嘆の声とともに、真解たちを見た。先ほどと目つきが変わっている。値踏みをしていたのに、高価な骨董品でも見るような目だ。
「江戸川さんが言うなら、信じましょう。どうぞ、お入りください」
溝呂木が5人に背を向けて歩き出す。その後に続きながら、真解が江戸川に言った。
「随分信頼されてるんですね、江戸川さん」
「なんかね」江戸川が小声で言う。「どうやら私のことを、マスク研究の第一人者みたいに思ってるみたいなの」
〔マスク研究って……どういう意味だ?〕
「もしかしたら、刑事と勘違いされてるのかも」
「なんでまた?」
江戸川は腕を組んで首をひねった。
「私がマスクが盗んだ物について、あれこれ質問したからかしら?」
「質問って……」どういう意味ですか、と聞こうとしたところで玄関を通され、靴を脱いだり応接室に通されたりしている間に、聞く機会を逸してしまった。
家の中も、見た目と違わず普通の家だった。普通と言いがたいのは、綺麗な応接室があるところくらいだろうか。漆塗りのケヤキのテーブルが真ん中に置かれ、3人掛けソファと肘掛け椅子がそれを挟むように置いてある。真解と真実、江戸川が3人掛けソファに座り、謎事とメイが肘掛け椅子にそれぞれ座った。
「歴史研究家の家! って感じだね」
部屋の中をキョロキョロ見渡しながら、真実が言った。応接室にはガラス戸の付いたアンティークな書棚があり、そこに骨董品らしき壷や置き物が置かれていた。
〔むしろ、田舎のお婆ちゃんの家って感じだな〕
と真解は思った。
応接室の扉が開いて、溝呂木が入ってきた。手にしたお盆の上には、コップが6つと大きな透明の水差し。水差しには麦茶が入っていて、表面に水滴が付いていた。冷え冷えである。
お盆をテーブルに置くと、
「飲んでいてください。少々お待ちを」
と溝呂木はまた部屋を出て行った。
メイが立ち上がって、水差しから麦茶を注ぐ。6つ全てに麦茶を注いだところで、銘々が勝手にコップを取った。
溝呂木はすぐに戻ってきた。左手に大学ノートを持ち、右手でキャスター付きの椅子を引いていた。
「お待たせしました」
テーブルの横に椅子を置いて、そこに腰掛ける。大学ノートを開いて、挟んであった便箋を取り出した。
「これが、マスクの予告状です」
1時間前に見せてもらったコピーと、全く同じ便箋が、テーブルの上に置かれた。やはり手書きのようなフォントで、同じ文面が書いてある。
『和算家ハルの遺した暗号が解けた。ついては、来る土曜日の夜10時、彼女の遺産を頂く。怪盗マスク』
「あ、溝呂木博士」と江戸川。「ここへ来る前に、私が昨日ファックスしていただいた物を、既に彼らに見せました」
すると溝呂木は目を瞬いたあと、
「それは失礼」
と頭を下げた。
「ちなみに」真解が尋ねた。「その予告状は、いつ届いたんですか?」
「えーと、水曜日だ。大学から帰ってきたら、ポストに入っていた」
それから大慌てで方々に連絡を取ったと言う。主に、いままで暗号を見せた人物、暗号が解けそうな人物、そしてマスクについて詳しそうな人物だ。
それで、過去にマスクについて質問してきた江戸川に、連絡を取ったわけか。真解は納得した。
「マスクは暗号が解けたと書いている」溝呂木は予告状の文字をなぞった。「しかし、儂はまだ解けていない。だから、財宝がどこにあるか、そもそも財宝とはなんなのかもわからない。それでは、マスクから財宝を守ることが出来ない」
予告状を見ていた視線を上げ、真解たち4人の顔を見渡す。
「警察にも連絡したが、そもそも財宝がどこにあるのかわからなければどうしようもないと言われ、途方に暮れていたのだ」
「ご安心ください、博士!」
と真実が胸を張った。どうやら「博士」という響きが気に入ったらしい。そこだけ妙に力が入っている。
「お兄ちゃんが、暗号なんてたちどころに解いて、マスクから財宝を守って見せます!」
胡散臭い、と真解は思った。
「解けるかどうかはわかりませんが、ひとまず暗号を見せていただけますか?」
わかりました、と溝呂木は答えた。それから、大学ノートをぱらぱらめくる。
「実はいま、実物は近所の博物館に貸し出し中でね」
「そんな有名な和算家なんですか?」
真実が身を乗り出すように聞いた。
「そう言うわけではないが……いまその博物館が、和算家の特別展を開いていてね。それでうちにも貸してくれるよう依頼が来たんだ」
「コピーとかないんすか?」と謎事。
「古い紙だからね。コピーみたいな強い光を当てると、痛むことがあるんだよ」
と、そこで溝呂木は大学ノートを繰る手を止めると、真解たちの方にページを向けた。
「その代わり、はい。これが、ハルの遺した暗号の、現代語訳だよ」
真解たち4人は、ノートを覗き込んだ。明朝体のような角張った字が綴られている。ノートを持つ溝呂木の細い手と、なんとなく似ていた。
そこには、こうあった。
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私がその物の怪に出会ったのは、三月ほど前の事だ。
父に頼まれ、医学の古い書物を取りに倉へ入ると、奥の方で小さな物音がした。初めは鼠だと思ったが、鼠の足音とは異なるようにも思った。
私は恐る恐る音のする方へ近づいた。蝋燭で照らしてみると、そこには一本の針が立っていた。高さは一寸(約3センチ)ほど、太さは髪の毛ほどの白い針が、飛び跳ねるように動いている。
不思議と恐怖は感じなかった。針が私の存在に気付かなかったからかもしれない。私は頼まれ事も忘れ、針に見入った。
針は下の方が細く、上に行くほど太かった。手足はついていない。針は体をわずかにくねらす事で、飛び跳ねているようだ。円を描くように回ったり、自分の背丈よりも遠くまで跳んだりしていた。私にはそれが、舞を踊っているように見えた。そして、たった一本で舞を踊る針が、ひどく寂しそうに見えた。
それから数日間、私は毎日針を見に行った。針はいつも一本だけで、倉の奥の狭い隙間で、私以外誰も見ない舞を踊っていた。
ある日私は、針が最初より太くなっていることに気がついた。それも、上の方ほど太くなっているようだ。横から見ると、ちょうど広げた扇子のような形に、膨らみつつあるようだった。
いきなり太くなったのだろうか。それとも、少しずつ膨らんでいたのだろか。
好奇心に駆られた私は、針を指先で摘んだ。それまで体をくねらせていた針は、驚いたように身を硬くした。私の指の力では、わずかに曲げることすら難しそうだ。
私は近くに置いてあった古い本を取ると、紙に針を刺した。針が通り抜けると、紙に小さな穴が開いた。針を床にそっと戻すと、針は一跳びで物陰に隠れた。
次の日、私は針に会えるか不安に思いながら、倉の奥へ入った。
そこには、いつものように針がいた。私は針を摘み上げると、昨日通した穴に、針を刺した。しかし、針は通り抜けなかった。
針は、毎日少しずつ太くなっているようだった。
それから一月が経つと、針は手で握れるほどに太くなった。しかし下の方は細く、上の方ばかり太くなっていた。
二月で、針は半球になっていた。以前は元気に飛び跳ねていたのに、今は体を引きずるように這い回っている。もしかしたら、何か病気なのではないだろうか。だが物の怪の病気など、私にはわからない。
三月が経つと、針は白い鞠になった。そして、全く動かなくなった。拾い上げると、鞠は見た目よりも重く、私は手を滑らせて落としてしまった。茶碗を落とした時のように、鞠は二つに割れ、細かい破片が飛び散った。
破片は皆、同じ形をしていた。長さは一寸ほど、太さは髪の毛ほど。私は破片を数本、摘み上げた。観察すると、それは死んだ針であることがわかった。
そのとき私は悟った。針は太くなっていたのではなく、集まっていたのだ。たった一本で寂しく踊っているように見えていたが、それは私の勘違いであった。
針は、孤独ではなかったのだ。
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まずメイが読み終わり、顔を上げた。続けて真解と真実が同時に顔を上げ、最後に謎事が顔を上げた。
全員の顔には、同じ言葉が書いてあった。
『なにこれ?』
真解はおずおずと溝呂木を見て、第一声を発した。
「えっと……これは、暗号なんですか?」
「儂もよく分からないのだがな」麦茶を一口啜る。「その暗号のナゾが解けた者は、ハルの遺した財宝が手に入るらしい、と伝わっているのだよ」
真解たちは困惑顔で、互いの顔を見やった。
暗号と言えば、代表的なのは換字式暗号である。例えば「あ」を「い」と書き、「い」を「う」と書く、などのように、50音表で一文字ずつずらして行く方法だ。この方法では、例えば「まさと」は「みしな」になる。
真解たちはそう言うパズルのような暗号を想像していたが、これはどう見てもその類ではない。
「たしかシャーロック・ホームズに」とメイ。「一見普通の文章に見える暗号文の中に、三角法を匂わすキーワードが隠されていて、そこから敷地内の財宝の隠し場所が計算で弾き出せる……というものがありました」
「三角法?」と謎事。
「三角比のことね」と真実。
〔いや、わかんねぇよ〕
謎事は突っ込みたかったが、真実が話を進めた。
「ならこの暗号文も、ハルの住んでた家のどこかを指し示してるってことね。博士、ハルの住んでた家って、どこなんですか?」
「ここだよ」
溝呂木の返事に、「えっ……」と真実は固まった。ここって、この、どう考えても築30年のこの家ですか。ハルはそんなに近代の方だったのですか。
「この家を建てる前まではハルの住んでいた家が建っていたんだが、さすがに崩壊の危険があったのでな。改築した」
「な、な……」
だん! と真実はテーブルを叩いた。
「なんてことするんですか!?」
「安心せい」
真実の勢いに気圧されることなく、冷静に溝呂木が答える。
「暗号文に『倉』と書かれておるだろう。倉はまだ、当時のまま残されている」
「でも、暗号文に倉があるからって、倉に財宝があるとは限りませんよ! 倉を起点として、どこかを指していたのかもしれないじゃないですか!」
「落ち着け、真実」
口を挟んだのは、真解だった。
「溝呂木博士。逆に聞きますが、この家には、倉以外に当時から残っている建物はありますか?」
「いや」溝呂木は首を振った。「ない」
「それじゃあ、ハルの財宝は失われてるかも……」
真実が唇を震わせるが、真解は落ち着いて首を振った。
「いや、逆に『財宝は倉にある』と考えられる」
「どうして?」
「ハルが仮に倉以外のところに財宝を隠していたのだとしたら、どこにどう隠そうとも、家を取り壊した時点で必ず見つかるはずだ。爆破でもしない限りな」
「あ……」
「もちろん、ショベルカーとかの機械で取り壊したのなら、見落とす危険もあるけど……そこは、注意してましたよね?」
やや自信なさ気に溝呂木に尋ねると、溝呂木は自信たっぷりに頷いた。
「当然。儂もその頃には既に歴史家だったし、ハルの暗号文も読んでいた。ハルの物に限らず、この家に残っていた物は全て、回収してある」
な、と真解は真実を見やる。良かったぁ、と真実は胸を撫で下ろした。
「じゃあ早速」と真実。「倉に行きましょう。博士、案内してください」
麦茶を一気に飲み干すと、立ち上がった。真解たちもそれに続く。
「どうぞ、こちらです」
溝呂木が歩き出した。
ちなみにキグロは、シャーロック・ホームズを読んだことがありません。