第7話:調印式と、魔王軍のホワイト企業化
翌朝。魔界の空は、いつになく澄み渡っていた。
魔王セレスティアは、城のバルコニーから眼下を見下ろしていた。
そこには、5万の軍勢が野営している。
いつもなら、漂うのは血と鉄錆の臭い、そして殺気だった。
だが今朝は違う。
焚き火で沸かすコーヒーの香ばしい匂いと、兵士たちの穏やかな寝息だけが満ちている。
「……あんなに安らかな顔、初めて見たわ」
彼女がポツリと漏らす。
オークの兵士が、夢の中で笑っている。
ガーゴイルが、翼を畳んで丸まっている。
彼らは「明日の死」に怯えることなく、ただ満腹の幸せの中で眠っているのだ。
「私が守りたかった『誇り』とは、彼らを死なせることだったのかしら」
自問自答。
答えは、眼下の光景がすでに出していた。
「おはようございます、魔王陛下。良い朝ですね」
背後から声がかかる。
レオナルドだ。
彼は昨日と同じく、一点の汚れもないスーツ姿で立っていた。
「……早いのね。人間はもっと寝坊だと思っていたわ」
「Time is money《時は金なり》ですから。……それで、お答えは?」
セレスティアはゆっくりと振り返った。
その表情に、昨夜の迷いはもうない。あるのは、一国の主としての──いや、新たな組織のリーダーとしての決意だ。
「契約するわ。ただし、条件がある」
「お聞かせ願いましょう」
「私の部下たちを、決して『奴隷』として扱わないこと。彼らの尊厳を守り、能力を正当に評価すること。……それが守られない場合、私は即座に契約を破棄し、全力であなたを殺す」
彼女の瞳が、魔力を帯びて赤く輝く。
脅しではない。魂の誓いだ。
私は満足げに頷き、恭しく一礼した。
「御意に。ブラック企業は私の最も嫌うものです。弊社は『法令遵守』を第一に掲げておりますので」
私はデスクの上に、最終版の契約書を広げた。
セレスティアが万年筆を取る。
その手は、もう震えていなかった。
サラサラサラ……。
インクが紙に染み込む音が、静寂な部屋に響く。
最後の署名が終わった瞬間、契約書が淡い光を放ち、魔力的な拘束力が確定した。
「交渉成立です。ようこそ、レオナルド商会へ」
私は右手を差し出した。
セレスティアは一瞬ためらった後、その手を強く握り返した。
華奢だが、力強い握手だった。
「……よろしく頼むわ、ボス。私の国を、黒字にして見せなさい」
「お任せを。では直ちに、業務を開始します」
私はインカムのスイッチを入れた。
「全軍に通達! これより『PMIフェーズ1:組織再編』を実行する! 各部隊長は広場へ集合! 新しい『装備』を支給する!」
◇
数時間後。
王都の城壁の上では、元国王とパンツ一丁の騎士たちが、震えながら北の空を見つめていた。
「く、来るぞ……! 魔王軍だ!」
「レオナルドの奴、交渉に失敗したんじゃないか!?」
「ひぃぃっ! 殺されるぅぅ!」
地平線の彼方から、土煙が上がっている。
5万の軍勢が、王都へ向かって進軍を開始したのだ。
地響きが城壁を揺らす。
だが。
距離が縮まるにつれ、見張り台の兵士が双眼鏡を覗き込み、首を傾げた。
「……あ、あれ? なんか変だぞ」
「何がだ! 武器を持ってるか!?」
「いや……武器じゃなくて……シャベルとツルハシを持っています。それに、なんか服が……」
兵士の報告通り、近づいてきた魔王軍の姿は、異様の一言だった。
先頭を行くオーク部隊。
彼らは粗末な腰布ではなく、真新しい「青色のつなぎ(作業服)」を着ていた。
頭には黄色いヘルメット。背中には『レオナルド建設』の文字。
手には巨大な斧ではなく、工事用のドリルやスコップが握られている。
続くガーゴイル部隊。
彼らは背中に四角いリュックサックを背負い、お揃いの緑色のキャップを被っていた。
リュックには『レオナルド急便』のロゴ。
さらにその後方。
サキュバスやダークエルフの女性部隊は、パリッとしたタイトスカートの事務服に身を包み、手には剣ではなく「バインダー」を持っていた。
「な、なんじゃあれは……!?」
元国王が目を剥く。
軍隊ではない。
それは、巨大な「出勤風景」だった。
城門の前で、軍勢がピタリと止まる。
先頭に立つ巨大なオーク将軍(作業服のサイズは特注の10L)が、拡声器を持って叫んだ。
『えー、本日付でレオナルド商会・土木事業部に配属されました、現場監督のガルドです! これより、王都周辺のインフラ整備工事を開始します! 近隣住民の皆様には騒音等でご迷惑をおかけしますが、ご協力よろしくお願いしまーす!』
「……は?」
騎士たちがポカンと口を開ける。
オーク将軍は続けて、部下たちに指示を飛ばした。
『おい野郎ども! まずは城壁の補修だ! 安全第一でいくぞ! 昼休憩の焼肉定食のために働くんだ!』
『『『オオオオオオッ!!(御意!)』』』
5万のオークたちが、一斉に散らばり、作業を開始した。
その手際は神がかっていた。
怪力任せに巨大な岩を運び、崩れかけた城壁を積み直す。
人間なら10人で1日かかる作業を、彼らは1人で、わずか3分で終えていく。
空ではガーゴイルたちが編隊を組み、遠くの山から資材を空輸してくる。
地上ではサキュバスたちが、現場の交通整理を行いながら、呆然とする住民たちに愛想よくチラシを配っている。
『リフォームならレオナルド建設へ! 魔界の技術で即日完工!』
「ば、馬鹿な……魔王軍が……働いている……?」
元国王はその場にへたり込んだ。
侵略による破壊ではない。
圧倒的な「生産活動」による制圧。
それは暴力よりも遥かに強烈に、人間のプライドをへし折る光景だった。
私はセレスティアと共に、オープンカー仕様の魔導車で現場に到着した。
セレスティアは、黒いドレスの上に、私が用意した「社長秘書」のようなブレザーを羽織っている。意外と似合っていた。
「……驚いたわ。あいつらが、こんなに楽しそうに石を積むなんて」
「言ったでしょう。適材適所だと」
私は車を降り、元国王の前に立った。
「どうです、陛下。これが我が社の新しい『社員』たちです。王都の復興は、彼らを使えば1ヶ月で終わりますよ。……もちろん、代金は請求しますが」
「ぐ、ぬぬぬ……」
元国王は呻くことしかできない。
魔王軍を味方につけた私に、もはや逆らう手段など存在しないのだ。
「さて、次は人事発令だ」
私はタブレットを取り出した。
「王都の復興には、細かい雑用係も必要です。特に、魔族の監督の下で、人間側の労働者を手配する『現場リーダー』が欲しい」
私はニヤリと笑った。
その役職にふさわしい、泥にまみれた経験を持つ「元・勇者」の顔が浮かんだからだ。
「セレスティア支社長。あなたに最初の部下を紹介しましょう」
「あら、誰かしら? 優秀な人間?」
「ええ、とても。……かつて私を追放した、勇者アレクセイという男です。彼には是非、オーク監督の下で『新人研修』を受けてもらいましょう」
私の言葉に、セレスティアはゾッとするような美しい笑みを浮かべた。
「面白そうね。たっぷりと『ご指導』してあげるわ」
こうして、魔王軍の脅威は去った。
代わりに訪れたのは、レオナルド商会による経済支配と、元勇者にとっての本当の地獄だった。




