第6話:魔王との密約
王都の城壁前で、5万の魔王軍が「食の暴力」によって無力化されている頃。
私は空間転移ゲートを潜り抜け、魔界の深奥、魔王城の「玉座の間」に足を踏み入れた。
冷たい石畳。天井まで届く巨大な円柱。
その最奥にある黒曜石の玉座に、彼女は座っていた。
漆黒のドレスに身を包み、ねじれた双角を生やした絶世の美女。
第13代魔王、セレスティア・ヴァン・ディアボロス。
彼女は、侵入者である私を見ても眉一つ動かさず、ただ圧倒的な殺気を放っていた。
「……私の可愛い部下たちを、随分と手厚く『餌付け』してくれたようね。人間」
静かな声だった。だが、その背後には空間が歪むほどの魔力が渦巻いている。
「お初にお目にかかります、魔王陛下。レオナルド商会代表、レオナルドです。弊社のケータリングサービス、お口に合いませんでしたか?」
「ふざけないで」
ドンッ!
彼女が指先を僅かに動かした瞬間、私の足元の石畳が爆ぜた。
防御結界を展開していなければ、足が吹き飛んでいただろう。
「誇り高き魔族の戦士を、家畜のように餌で釣るとは。……死をもって償いなさい」
セレスティアがゆっくりと立ち上がる。
その瞳には、侮蔑と怒りの炎が燃え盛っていた。
交渉の難易度は「Sランク」。想定通りだ。
「殺すのは構いませんが、その前に『提案』を聞いていただきたい」
私はスーツの内ポケットから、一冊のファイルを丁寧に取り出し、彼女の足元へ滑らせた。
「なんだ、これは」
「買収提案書です」
私はネクタイを整え、直立不動で告げた。
「単刀直入に申し上げます。弊社、レオナルド商会は、魔王軍および魔界全域を『M&A(合併・買収)』したい」
一瞬、セレスティアの動きが止まった。
言葉の意味を理解するのに数秒を要したようだ。
「……ばい、しゅう……? 貴様、私の国を……魔族を、金で買うと言ったのか?」
「左様です。正確には『救済型M&A』ですが」
「巫山戯るなァァッ!!」
セレスティアの咆哮が玉座の間を揺るがした。
黒い雷撃が天井を突き破る。
「我らは誇り高き夜の眷属! たとえ飢えようとも、人間如きに魂を売り渡すなどあり得ない! 奴隷になるくらいなら、戦場で華々しく散る道を選ぶ!」
「その『華々しく散る』という思考停止が、今の経営危機の原因です」
私は彼女の激昂を、冷徹な一言で切り裂いた。
「な……?」
「私が事前に行った資産査定によれば、魔界の経済はすでに死んでいる」
私は空中にホログラムを展開した。
そこに映し出されたのは、魔界の惨状を示す真っ赤なグラフだ。
「不毛な大地による食料自給率の低下。それを補うための無理な人間界侵攻。だが、戦争コスト《CPA》が高すぎて、略奪で得られる利益を上回っている。……いわゆる『自転車操業』だ。このままでは、あと半年で魔界は餓死者で溢れかえる」
「そ、それは……」
セレスティアの視線が泳ぐ。
図星なのだ。彼女もまた、為政者として数字からは逃げられない。
「あなたは『誇り』と言った。だが陛下、部下を飢えさせ、子供たちに泥水をすすらせるのが、王の誇りですか?」
「っ……!」
「玉座にしがみつき、『伝統』という名のガラクタを守るために、民の未来を担保に入れている。それを無能と言わずして何と言う」
「黙れェェッ!」
セレスティアが魔剣を召喚し、私の喉元に突きつけた。
切っ先が皮膚に触れ、血が滲む。
だが、彼女の手は震えていた。
「貴様に……我らの何がわかる……! 我々は、何百年もそうやって生きてきた! 戦うことしかできない種族なのだ! それを、商人の理屈で……!」
彼女の悲痛な叫び。
それは、変わることへの恐怖だ。
今まで信じてきた「強さこそ正義」という価値観が、私の提示する「経済こそ正義」という価値観に侵食されることへの、根源的な拒絶。
私は喉元の剣を無視して、一歩踏み出した。
「戦うことしかできない? 違いますね。あなた方は『戦う以外の稼ぎ方』を知らないだけだ」
「……なに?」
「オーク族の腕力は土木建築で輝く。ガーゴイルの飛行能力は物流革命を起こす。サキュバスの対話スキルは最高の接客術になる。……私は、あなた方がゴミ屑のように捨てている『才能』を、正当な価格で買い取ろうとしているのです」
私は彼女の足元にあるファイルを指差した。
「そこには、買収後の『事業計画《PMI》』が記されています。奴隷契約ではありません。全魔族への給与保証、週休二日制、そして……人間界と同じ水準の『食料供給』を約束するものです」
「……」
「部下たちは今、城壁の前で、人生で初めて『満腹』を知っていますよ。彼らからその肉を取り上げ、『誇りのために死ね』と命令できますか?」
セレスティアは言葉を失った。
剣を持つ手がだらりと下がる。
彼女の脳裏には今、ステーキを頬張って笑顔を見せる部下たちの顔が浮かんでいるはずだ。
長い沈黙。
彼女は苦しげに顔を歪め、玉座の手すりを強く握りしめた。
「……信用できない」
絞り出すような声だった。
「人間は、ずっと我らを迫害してきた。契約書など、紙切れ一枚でどうにでもなる。利用するだけ利用して、用済みになれば捨てる気でしょう?」
「信用など不要です。必要なのは『利害の一致』だけ」
私は懐から、一枚のカードを取り出した。
それは、商会の全資産にアクセスできる「ブラックカード」だ。
「このカードを『人質』として預けます。もし私が契約を履行しなければ、あなたは魔界にいながらにして、私の全財産を消滅させることができる」
「……自分の命より、金を人質にするの?」
「商人にとって、破産は死よりも重い。これで信用していただけますか?」
セレスティアは呆気にとられた顔で私を見た。
そして、足元のファイルをゆっくりと拾い上げる。
その指先は、まだ震えている。
数千年の歴史を捨てるか、民の命を取るか。
その天秤は、あまりにも重い。
「……時間をちょうだい」
彼女は力なく玉座に座り込んだ。
「一晩だけ考えさせて。……即答は、できない」
拒絶ではない。保留だ。
頑なだった城門が、わずかに開いた証拠だ。
「承知しました。明日の朝、改めて伺います」
私は優雅に一礼し、踵を返した。
去り際に、一言だけ残す。
「ああ、陛下。ファイルに挟んである『役員報酬』の欄も見ておいてください。……あなたの好きな甘味、食べ放題の権利もついていますから」
セレスティアの肩がピクリと跳ねたのを横目に見ながら、私は転移ゲートへと消えた。
交渉は決裂しなかった。
だが、まだ成立もしていない。
彼女の「王としてのプライド」を、どうやって「企業の一員としてのプライド」に書き換えるか。
最後の一押し《クロージング》が必要だ。




