第5.5章 第1話:ハンス視点 ~黄金の檻と、震える図面~
その夜、帝都の雨は冷たかった。
石畳を叩く雨音が、心臓の鼓動を隠してくれるような気がして、ハンスはコートの襟を立てた。
懐に入れた封筒が、鉛のように重い。
中に入っているのは、金ではない。
レオナルド商会開発部、極秘ファイル『オブシディアン・初期設計案』の写しだ。
震える手が、濡れた街灯の光に照らされる。
やってしまった。
もう後戻りはできない。
自分は今、恩義ある師匠を、仲間を、そして技術者としての誇りを売り渡そうとしている。
「……リサのためだ」
ハンスは、呪文のようにその名を呟いた。
六歳になる一人娘、リサ。
彼女は生まれつき肺が弱かった。
ここ数ヶ月、発作が頻発している。
医者は言った。「帝都の空気は彼女には毒です。空気の綺麗な高原のサナトリウムに入院させ、特効薬を使い続ければ助かりますが……」
提示された金額は、ハンスの年収の十年分だった。
レオナルド商会の給料は悪くない。むしろ業界水準より高い。
だが、アレクセイ部長の下で働く技術者たちは、稼いだ金のほとんどを専門書や新しい工具、あるいは個人的な実験に注ぎ込んでしまう。
ハンスもそうだった。
「いつか自分も、部長のような凄い発明をするんだ」
そう夢見て、家庭を顧みず、貯金もせず、技術に没頭してきた。
そのツケが、最悪の形で回ってきたのだ。
「……ハンス君、だね?」
待ち合わせ場所の裏路地に、一台の黒塗りの馬車が停まっていた。
窓が開き、派手な指輪をつけた男が顔を覗かせる。
ゴライアス商会会長、バルバロスだ。
甘ったるい香水の匂いが、雨の匂いに混じる。
「は、はい……」
「ブツは?」
ハンスは懐の封筒を差し出した。
バルバロスはそれを引ったくるように奪い取り、中身を確認する。
ニヤリと、金歯が光った。
「素晴らしい。……さすがはレオナルドの懐刀だ。これさえあれば、開発期間を一気に短縮できる」
バルバロスは指を鳴らした。
従者が、革の鞄をハンスの足元に放り投げた。
ドサッ。
重い音。
中身を見るまでもない。金貨の重みだ。
契約金だけで、リサの入院費を払って余りある。
「明日からウチに来なさい。……給料は今の三倍だ。君には『開発主任』のポストを用意してある」
「……三倍」
「そうだ。レオナルドのような堅苦しい職場とは違うぞ。……もっと自由に、もっと楽に稼げる」
ハンスは鞄を拾い上げた。
重い。
それは、魂を売った重さだった。
彼はレオナルド商会の社章を外し、雨に濡れた石畳に落とした。
カラン、という小さな音が、彼の良心が死んだ音のように聞こえた。
◇
翌日から、ハンスの世界は一変した。
ゴライアス商会の工場。
そこは、レオナルド商会のラボとは対極にある場所だった。
「おい、そこのゴブリン! 手が遅いぞ!」
「ああっ! 部品を落としたら拾って使え! 勿体無いだろうが!」
怒号。
油の腐った臭い。
そして、整理整頓されていない混沌とした作業場。
レオナルド商会では「神は細部に宿る」と教えられ、塵一つない環境で0.01ミリの精度を追求していた。
だがここでは、そんな美学は存在しない。
「ハンス主任。この設計図ですが……コストがかかりすぎます」
部下の男が、ハンスの描いた図面を持って不満げに言った。
彼らは技術者ではない。
昨日まで農夫や大工をしていた素人を、安く雇ってきているだけだ。
「何を言ってるんだ。これでも最低限の安全マージンだぞ。……ボイラーの壁厚をこれ以上薄くしたら、熱膨張に耐えられない」
「でも会長が『鉄板を半分にしろ』って言ってますよ。軽くなるし、材料費も浮くからって」
「馬鹿な! そんなことをしたら走る爆弾だ!」
ハンスは会長室に怒鳴り込んだ。
バルバロスは、葉巻を吸いながら、足を机に乗せていた。
「会長! 現場の判断を無視しないでください! あの設計では強度が足りません!」
「ハンス君。……君は真面目すぎるな」
バルバロスは煙を吐き出した。
「いいか? 我々が作っているのは『商品』だ。芸術品じゃない。……客は中身なんて見ないんだよ。外側がピカピカで、安くて、動けばそれでいい」
「ですが、事故が起きたら……」
「そのための『保険』だよ。……それに、君にはたっぷりと金を払っているだろう? リサちゃんの病状は良くなったと聞いたぞ?」
ハンスは言葉を失った。
痛いところを突かれた。
娘は、ゴライアスの金のおかげで、空調の効いた個室に移り、最高級の薬を使えるようになった。
昨日の見舞いで、久しぶりに娘の笑顔を見た。
「パパ、ありがとう。パパは世界一のエンジニアだね」
その言葉が、胸に棘のように刺さっている。
「……分かりました」
ハンスは俯いた。
反論できなかった。
この生活を失うわけにはいかない。
娘の命を人質に取られているのと同じだ。
彼は工場に戻り、自らの手で設計図を修正した。
ボイラーの厚みを半分に。
高価なミスリル合金を、安価な鋳鉄に。
安全弁の数を三つから一つに。
ペンを走らせるたびに、技術者としての自分が死んでいく音がした。
これは設計ではない。
殺人の計画書だ。
◇
そして、運命の開通式。
帝都中央駅の壇上で、ハンスはバルバロスの隣に立っていた。
スポットライトが眩しい。
観衆の歓声が、耳鳴りのように響く。
目の前には、レオナルドとアレクセイがいた。
かつての上司。
尊敬していた師匠。
アレクセイは、ハンスを見て絶句していた。
「なんでだ、ハンス! お前、言ってたじゃねえか! 『いつか自分の手で、世界一の列車を作りたい』って!」
アレクセイの叫びが、心臓を抉る。
そうだ。
かつて、酒を飲みながら語り合った夢。
「俺たちは世界を変えるんだ」「レオ会長の背中を追うんだ」。
あの熱気は、どこへ行ってしまったのか。
「……夢じゃ、飯は食えないんです」
ハンスは、自分に言い聞かせるように叫んだ。
「部長たちは天才です。……でも、俺は凡人なんです!」
それは本心だった。
毎日、アレクセイの圧倒的な才能を見せつけられ、レオナルドの神がかり的な発想に振り回される日々。
必死に食らいついても、彼らの足元にも及ばない自分。
劣等感。
嫉妬。
そして、生活の苦しさ。
それらが複雑に絡み合い、ハンスをここへ立たせていた。
「金がなきゃ、誇りなんて守れないんですよ!」
嘘だ。
金があっても、誇りは守れなかった。
今、彼のポケットに入っている高額の給与明細は、まるで汚物のように感じられた。
アレクセイの悲しそうな目。
レオナルドの冷徹な、しかしどこか憐れむような目。
「その列車に乗るな」という警告。
ハンスは逃げ出したかった。
だが、バルバロスが肩を組んでくる。
「いい演説だったよ、ハンス君。……さあ、乗りたまえ。君が作った最高傑作だ」
逃げ場はない。
彼は、自ら設計した処刑台へと足を運んだ。
◇
レース当日。
ゴライアス号の機関室は、サウナのような熱気に包まれていた。
壁には断熱材が入っていない。
外部の騒音と、エンジンの轟音が直接響いてくる。
「……水温、上昇中。油圧、低下」
ハンスは機械的に報告した。
隣には、バルバロスがいる。
彼は興奮剤でも打っているのか、異常なほどハイテンションだった。
「遅い! 遅いぞハンス! あの黒い亀に追いつかれるぞ!」
「無理です! これ以上出力を上げたらボイラーが持ちません!」
「うるさい! ……これを使え!」
バルバロスが差し出したのは、蛍光色の液体が入った瓶だった。
ニトロ。
ハンスの顔色が青ざめる。
「馬鹿な……! それは爆薬です! 内燃機関に入れるものじゃありません!」
「知ったことか! 燃えれば一緒だ! ……入れろ! 命令だ!」
「嫌です! 死にたくない!」
ハンスは拒絶した。
娘がいる。
まだ死ねない。
こんな鉄屑の中で、愚かな欲望の犠牲になってたまるか。
「……そうか。なら、クビだ」
バルバロスは冷たく言い放ち、ハンスを蹴り飛ばした。
そして、自ら瓶の栓を抜き、炉の中に投げ込んだ。
カッ!!
閃光。
衝撃。
ハンスは床に叩きつけられた。
世界が白く染まる。
暴走。
制御不能。
身体がシートに押し付けられるG。
これは加速ではない。爆発の連続だ。
「あはははは! 見ろ! 速い! 最速だ!」
バルバロスが狂笑する。
ハンスは這いつくばりながら、圧力計を見た。
針が振り切れている。
金属の悲鳴が聞こえる。
リベットが飛び、パイプが裂ける音。
自分が「コストカット」した箇所から、次々と崩壊が始まっている。
(……ごめん、リサ)
ハンスは目を閉じた。
パパは、間違ったものを作ってしまった。
世界一のエンジニアになるはずだったのに。
最後は、世界一愚かな列車の中で死ぬんだ。
その時だった。
横から、静寂が訪れた。
フォン……。
不思議な音だった。
地獄の釜の底で聞こえる、天上の音楽のような。
目を開けると、窓の外に漆黒の影があった。
『プロメテウス』。
揺れていない。
まるで時間が止まったかのように、静かに並走している。
そして、男が入ってきた。
炎を突き破り、煤だらけになって。
アレクセイだ。
「……部長?」
「生きてるな! この野郎!」
拳が飛んできた。
痛み。
そして、熱さ。
それは炎の熱さではなく、血の通った人間の、怒りと愛情の熱さだった。
「なんで……なんで助けに来たんですか……」
ハンスは泣いた。
裏切り者だぞ。
図面を盗んだ泥棒だぞ。
見捨ててくれればよかったのに。
「うるせえ! 立つんだよ!」
アレクセイに担がれ、ハンスは燃える機関室を後にした。
背中で、バルバロスの絶叫が聞こえた気がした。
かつて自分を甘い言葉で誘惑した悪魔は、自ら作り出した地獄の炎に焼かれていった。
◇
レースが終わった後の、駅の裏手。
ハンスは、泥と油にまみれて座り込んでいた。
遠くで、レオナルド商会の勝利を祝う歓声が聞こえる。
自分はあそこに加わる資格はない。
「……ほらよ」
アレクセイが、缶コーヒーを投げてきた。
冷たいコーヒーが、火照った喉に沁みる。
「……リサちゃんのこと、聞いたぞ」
アレクセイが隣に座り込む。
タバコに火をつけ、紫煙をくゆらせる。
「なんで言わなかった。……レオ会長はケチだが、冷血漢じゃねえ。事情を話せば、金ぐらい貸してくれたはずだ」
「……言えませんでした」
ハンスは膝を抱えた。
「俺は、部長たちに追いつきたかったんです。……金が欲しかっただけじゃない。レオナルド商会という看板がなくても、自分の力で凄いものが作れるって、証明したかったんです」
「馬鹿だなぁ、お前は」
アレクセイは苦笑した。
「俺だって一人じゃ何も作れねえよ。……レオの無茶振りがあって、ガルドの怪力があって、お前みたいな細かい計算ができる奴がいて……やっと一つのものができるんだ」
アレクセイは、ハンスの肩を叩いた。
「ゴライアス号のエンジン。……配管の取り回しだけは、悪くなかったぞ。お前らしい、几帳面な仕事だった」
ハンスの目から、涙が溢れた。
否定されると思っていた。
だが、アレクセイは見てくれていた。
瓦礫の山となったゴライアス号の中に、わずかに残っていたハンスの「技術者としての良心」を。
「……会長が言ってた。『清掃費は高くつくぞ』ってな」
アレクセイは立ち上がった。
「給料から天引きだ。……一生かかっても返しきれねえ額だぞ。覚悟しとけ」
「……え?」
ハンスは顔を上げた。
アレクセイはニカっと笑い、手を差し出した。
「戻ってこい、ハンス。……今度は、人が死なない、最高の列車を作るぞ」
ハンスはその手を見つめた。
油汚れと、傷だらけの手。
金貨よりも、宝石よりも価値のある、職人の手。
「……はい!」
ハンスはその手を掴んだ。
力強く握り返される感触。
懐に入れていたゴライアス商会の高額な給与明細は、いつの間にか泥水の中に落ちて、文字が滲んで読めなくなっていた。
もういらない。
彼に必要なのは、金ではない。
誇りを取り戻すための、終わりのない仕事だけだ。
「ただいま戻りました、部長」
「おう。……まずは風呂に入ってこい。臭くてかなわん」
雨上がりの空に、虹がかかっていた。
それは、ハンスが見たどんな景色よりも美しく、そして厳しい、技術者としての第二の人生の始まりを告げていた。




