第4話:勇者の再就職活動
「おい、そこの新人! 手が止まってるぞ!」
怒声とともに、太い鞭が地面を叩いた。
乾いた音が鼓膜を震わせ、私はビクリと肩を跳ねさせた。
「あ、ああ……わかってるよ。今やるよ……」
「『わかってるよ』じゃねえ! 『はい、親方!』だろが! 言葉遣いも知らねえのか!」
ドカッ、と背中を蹴り飛ばされる。
私は泥水の中に無様に転がった。
冷たくて臭い泥が口の中に入る。吐き出そうとすると、ジャリジャリとした砂の感触が舌に残った。
ここは王都の最下層、スラム街に隣接する「地下水路拡張工事」の現場だ。
悪臭漂う汚水と、ネズミが走り回る暗闇。
かつてSランク勇者として名を馳せた私、アレクセイがいるべき場所ではない。
「くそっ……なんで俺がこんな……」
震える手で膝をつき、立ち上がる。
背負子に積まれた石材が、鉛のように肩に食い込む。
重い。
以前なら、こんな石材など指一本で持ち上げられたはずだ。
だが今の私には、身体強化のバフもなければ、疲れを癒やす高級ポーションもない。
ただの生身の肉体には、労働の過酷さがダイレクトに響く。
「アレクセイ様……もう無理ですわ……」
背後で弱々しい声がした。
聖女ミリアだ。
かつて絹のような金髪をなびかせていた彼女は今、髪を泥で固め、ボロボロの麻袋のような服を着ている。
自慢の美貌は見る影もなく、肌は荒れ、目の下には深いクマが刻まれていた。
「爪が……私の綺麗な爪が割れてしまいましたの……治癒魔法を使おうにも、魔力が……」
「泣き言を言うな! 俺だって辛いんだ!」
私は彼女に当たり散らすことしかできなかった。
横では、重戦士だったガンツがツルハシを振るっているが、その動きは老人よりも遅い。
筋肉はげっそりと削げ落ち、かつての威圧感は皆無だ。
すべては、あの日から狂った。
レオナルドに装備を剥奪され、商会から巨額の損害賠償を請求された日だ。
実家の領地は差し押さえられ、ギルドの登録は抹消され、宿屋すら追い出された。
生きるためには、日銭を稼ぐしかない。
だが、ブラックリスト入りの我々を雇う店などなかった。
唯一潜り込めたのが、身元不問、日給わずか銅貨十枚の、この過酷な土木現場だけだったのだ。
「……全部、あいつのせいだ」
石材を運びながら、私はギリと奥歯を噛んだ。
「レオの野郎……俺たちがこんなに苦しんでるってのに、自分だけぬくぬくと……」
そうだ、あいつが悪い。
俺たちを見捨てて、勝手に契約を破棄した裏切り者だ。
本来なら、この重い荷物はあいつが運ぶはずのものだった。
俺は剣を振るうのが仕事で、荷運びなんていう底辺の仕事は、あいつのような地味な男の役割だったはずなんだ。
「おい、休憩だ! 飯にするぞ!」
親方──オークの現場監督が大声を上げた。
その言葉に、作業員たちがゾンビのように群がる。
昼食。
それが今の私にとって、唯一の楽しみだった。
配給されるのは、具のない薄いスープと、カビ臭いパンだけだが、空腹の限界を超えた胃袋にはご馳走だった。
列に並び、配給を受け取る。
泥だらけの手でパンを掴み、スープをすする。
「……うめぇ」
思わず涙が出そうになった。
情けない。
王宮のフルコースを食べていたこの舌が、こんな家畜の餌のような食事に喜んでいるなんて。
その時だった。
現場の入り口から、巨大な魔導トラックが入ってきた。
最新式のサスペンションを備え、車体はピカピカに磨き上げられている。
荷台には山のような資材と、作業員への差し入れらしき木箱が積まれていた。
「おお! 来たか! 『本社』からの補給便だ!」
オークの親方が嬉しそうに駆け寄っていく。
トラックから降りてきたのは、パリッとした制服を着たエルフの配達員だった。
「お疲れ様です。こちら、今週分の追加資材と、福利厚生の『特製スタミナ弁当』になります」
「ありがてぇ! いやあ、さすが大企業様は違うな! 下請けの俺たちにもこんなによくしてくれるなんて!」
「社長の方針ですから。『現場のモチベーションこそが品質を生む』と」
エルフの配達員は爽やかに笑い、親方に伝票を渡した。
弁当?
私の耳がピクリと反応した。
特製スタミナ弁当だと?
周囲の正規雇用の作業員たちが、歓声を上げてトラックに集まっていく。
漂ってくる匂い。
焼きたての肉の香り。スパイスの効いたソース。新鮮な野菜。
「くっ……!」
私は思わず立ち上がっていた。
我々の手元にあるのは、泥水のようなスープだけ。
あっちの連中が食べているのは、極上の弁当。
なんだこの格差は。
ふと、トラックのボディに描かれたロゴマークが目に入った。
黄金の天秤と、翼の意匠。
そして、流麗な文字で書かれた社名。
『レオナルド商会・土木建築部門』
「……は?」
思考が停止した。
パンが手から滑り落ち、泥の中に沈む。
「レ、レオナルド商会……? ここ、あいつの会社なのか……?」
呆然とする私の耳に、親方の声が聞こえてきた。
「おい、そこの日雇い連中! お前らの飯はそっちの泥水だ! その豪華な弁当はな、うちの『正社員』様用なんだよ!」
親方はトラックのロゴを誇らしげに叩いた。
「この現場はな、今をときめくレオナルド商会の一次下請けなんだ! レオナルド社長の慈悲で仕事をもらってるんだぞ! ありがたく思え!」
ガンッ!
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
俺が……働いているこの地獄のような現場が。
レオの会社の、そのまた下請け?
俺は今、あいつの金で雇われ、あいつの利益のために石を運んでいるのか?
「嘘だ……嘘だろ……」
ミリアが青ざめた顔で口元を押さえる。
ガンツが力なく座り込む。
トラックのエルフが、チラリとこちらを見た気がした。
その目は、路傍の石を見るような、あるいは哀れな野良犬を見るような、無関心な冷たさを帯びていた。
「さあ、休憩終わりだ! 働け働け! お前らの日当は、レオナルド様が出してくださってるんだぞ!」
親方の鞭が再び唸る。
私は反射的に身体を縮こまらせ、石材を背負った。
屈辱で目の前が真っ赤になる。
だが、足は動いた。
動かなければ、明日のパンすら手に入らないからだ。
「くそっ……くそおおおおっ!」
私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、石を運んだ。
かつて魔王を倒すと誓った聖剣の使い手は今、元部下が経営する会社の末端で、ただの消耗品として使い潰されていた。
その遥か上空、王都の一等地にそびえるビルを見上げながら、私は絶望的な敗北感を噛み締めることしかできなかった。




