第5章 第5話:市場への「教育的指導」と、沈黙する工場
帝都の貧民街、第十三地区。
深夜二時。
静寂を破ったのは、赤ん坊の泣き声ではなく、爆発音と、焼け焦げる臭いだった。
「火事だ! 火事だぞ!」
「水を持ってこい!」
木造アパートの二階から、赤い炎が噴き出している。
住民たちがバケツリレーで消火にあたるが、火の勢いは衰えない。
原因は明白だった。
台所に残された、黒くひしゃげた鉄の塊。
ゴライアス商会製の魔導コンロだ。
深夜、ミルクを温めるために母親がスイッチを入れた瞬間、制御不能になった魔力が逆流し、爆発したのだ。
「ああ、私の家が……」
「買ったばかりなのに……」
煤だらけになった住民たちが、呆然と燃え落ちる我が家を見つめる。
幸い死者は出なかったが、彼らの財産は灰になった。
翌朝。
この火災を報じる新聞記事は、驚くほど小さなものだった。
『使用者の不注意によるボヤ騒ぎ』
『濡れた手で操作したことが原因か』
記事の隣には、ゴライアス商会の全面広告が掲載されていた。
『安全安心のゴライアス! 累計販売台数百万台突破!』
帝都の警察署長室では、バルバロスが署長と握手を交わしていた。
机の上には、分厚い封筒が置かれている。
「いやあ、署長。ご迷惑をおかけしました」
「とんでもない。……最近の庶民は、機械の使い方も知らん馬鹿ばかりで困りますな」
「全くだ。安く提供してやっているのに、感謝するどころか文句ばかりだ」
バルバロスは葉巻をくゆらせた。
金さえあれば、事実は書き換えられる。
ボヤ騒ぎなど、ゴライアスという巨大な船にとっては、さざ波にもならない。
民衆は忘れっぽい。
明日の特売チラシを見れば、今日の火事のことなど綺麗さっぱり忘れて、また行列を作るだろう。
「さて、次はもっとデカい花火を打ち上げるか」
バルバロスは署を後にし、黒塗りの馬車に乗り込んだ。
向かう先は、帝都の一等地にそびえ立つ青い塔。
レオナルド商会本社ビルだ。
◇
「お帰りください。アポイントのない方は通せません」
受付嬢が気丈に対応するが、バルバロスは聞く耳を持たなかった。
彼は護衛の男たちに受付を押し退けさせ、直通エレベーターに乗り込んだ。
土足で踏み入る聖域。
最上階の会長室のドアが、ノックもなしに開かれる。
「よう、元気かね? 天才君」
バルバロスは、部屋の中央にあるソファにドカと座り込み、靴のままテーブルに足を乗せた。
執務机に向かっていたレオナルドは、ペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。
その表情は凍りついたように無機質だ。
「……何の用だ、バルバロス」
「見舞いに来てやったんだよ。……聞いたぞ? 銀行から融資を断られたそうじゃないか」
バルバロスはニヤニヤと笑った。
「株価は大暴落。在庫の山。社員の給料も遅配寸前。……もう終わりだよ、レオナルド商会は」
「ご心配には及ばない。……掃除機でもかけに来たのか?」
「強がりはよせ。……提案がある」
バルバロスは、懐から一枚の契約書を取り出し、テーブルの上に放った。
紙切れ一枚。
だが、そこに書かれた内容は、レオナルドのプライドを粉々に砕くものだった。
『事業譲渡契約書』。
「ウチが買い取ってやるよ。……お前の会社を」
「……なんだと?」
「勘違いするなよ。欲しいのはお前の技術力じゃない。……『ブランド』だ」
バルバロスは葉巻の煙を吐き出した。
「ゴライアスの商品は売れているが、どうもイメージが軽い。そこでだ。お前の会社の青いロゴマークを、ウチの商品に貼り付けたいんだよ」
レオナルドの眉がピクリと動く。
「中身はウチの安物。外側には信頼のレオナルドマーク。……最高だろ? 客は安心して買うし、俺たちはもっと儲かる。お前も借金を返して楽隠居できる。三方良しだ」
沈黙。
部屋の空気が、張り詰めた糸のように軋む。
シルヴィが怒りで震え出し、何かを言いかけようとするのを、レオナルドは手で制した。
「……断る」
「あぁ? 金が足りないのか? なら色をつけてやってもいいぞ」
「金の問題ではない」
レオナルドは立ち上がり、バルバロスの前まで歩み寄った。
そして、テーブルの上の契約書を手に取り、目の前でゆっくりと破り捨てた。
ビリ、ビリ、ビリ。
紙片が雪のように舞い落ちる。
「俺のロゴは、品質への保証書だ。……お前のゴミ屑に貼り付けて、客を騙すための道具ではない」
「……交渉決裂か」
バルバロスの顔から笑みが消えた。
「残念だよ。……なら、潰れるのを待ってから、二束三文で買い叩くだけだ。鉄道も、工場も、お前のそのプライドもな」
「待て」
帰ろうとしたバルバロスの背中に、レオナルドが声をかけた。
「潰れるかどうか、賭けをしないか」
「賭け?」
「大陸横断鉄道。……どちらが優れているか、白黒つけようじゃないか」
レオナルドは、破り捨てた契約書の残骸を踏みつけ、不敵に笑った。
「来週の日曜日。帝都から港町まで、全速力で往復する耐久レースを行う。……俺が勝てば、お前の会社の鉄道事業、全路線と全車両を俺に譲渡しろ」
「ハッ! 馬鹿か? なんで俺がそんなリスクを……」
「負けたら」
レオナルドは言葉を継いだ。
「レオナルド商会の全てをやる。……ブランドも、特許も、俺自身の身柄もだ。一生、お前の靴磨きでも何でもしてやる」
バルバロスは足を止めた。
喉が鳴る音が聞こえた。
レオナルド商会の全て。
それは、彼が喉から手が出るほど欲しかった、絶対的な権威と技術の源泉だ。
それが、たった一度のレースで手に入る。
「……正気か? ウチのゴライアス号は、お前の列車より速いぞ? 試運転のデータを見ただろ?」
「速いな。……瞬間最大風速だけならな」
「いいだろう。乗ってやる」
バルバロスは振り返り、獰猛な笑みを浮かべた。
「公開処刑だ。……衆人環視の中で、天才が地に落ちる様を見せてやる。契約書を準備しておけ!」
バルバロスが出て行く。
ドアが閉まった瞬間、シルヴィが崩れ落ちるように膝をついた。
「会長……! 何を考えているんですか!? 全てを賭けるなんて……!」
「……勝つためだ」
レオナルドはデスクに戻り、通信機のスイッチを入れた。
「シルヴィ。全工場の責任者につなげ。……それと、物流のガルド、開発のアレクセイもだ」
彼の声は、今まで聞いたことがないほど冷たく、そして鋭利だった。
これは賭けではない。
狩りだ。
獲物を確実に仕留めるための、罠の設置だ。
◇
数分後。
モニター越しに、世界各地の工場長や幹部たちが顔を揃えた。
皆、疲弊しきっている。
在庫の山と、減り続ける注文に、心を折られかけている。
「総員、聞け」
レオナルドが告げた。
「本日、只今をもって、レオナルド商会の全製造ラインを停止する」
『……は?』
モニターの向こうで、誰かが素っ頓狂な声を上げた。
アレクセイも、ガルドも、言葉を失っている。
「か、会長? 減産ではなく、停止ですか? 一時的な?」
「いや。無期限だ」
レオナルドは淡々と続けた。
「家電、魔道具、建材、全ての生産をストップしろ。出荷も停止だ。倉庫にある在庫も、一切市場に出すな。鍵をかけて封印しろ」
『な、何を言ってるんですか! そんなことをしたら、売上がゼロになります! 倒産しますよ!』
工場長たちが悲鳴を上げる。
当然だ。
商売人にとって、店を閉めることは死を意味する。
「金ならある。……俺の個人資産と、本社ビルを担保に借り入れを行う。従業員の給料は半年分保証する」
「目的はなんですか、レオ」
アレクセイが低い声で問うた。
彼は気づいている。
レオナルドが、単なるヤケクソでこんなことを言う男ではないことを。
「……教育だ」
レオナルドは言った。
「市場への、教育的指導を行う」
彼は立ち上がり、世界地図を指差した。
「今、世界はゴライアスの安物に酔いしれている。……安くても動く。すぐ壊れても買い換えればいい。そんな安易な考えが蔓延している。俺たちがどれだけ品質を叫んでも、腹一杯の彼らには届かない」
「だから……兵糧攻めですか」
「そうだ。……世界から『本物』を消す。ゴライアスの製品しか買えない状況を、意図的に作り出す」
レオナルドの瞳に、狂気じみた光が宿る。
「一週間だ。……一週間、本物が供給されない世界で、彼らに生活してもらう。壊れる掃除機。爆発するコンロ。冷えない冷蔵庫。……そのストレスと恐怖を、骨の髄まで味わってもらう」
それは、劇薬だった。
自らの首を絞めると同時に、世界の首も絞める。
レオナルド製品というインフラに依存していた世界から、突然それを奪い取る。
一種のテロリズムに近い行為だ。
「その間に、我々は何をするんですか?」
シルヴィが震える声で尋ねる。
「全リソースを、鉄道に集中させる」
レオナルドは宣言した。
「工場を止めて余った魔力、人員、そして技術者の情熱。……その全てを『オブシディアン』の改造に注ぎ込め。アレクセイ、お前の好きなようにやれ。予算の上限はない。世界中の最高級素材を買い占めても構わん」
「……へっ、マジかよ」
アレクセイの顔に、生気が戻った。
工場長たちの目にも、光が宿る。
守るだけの戦いは終わりだ。
ここからは、持てる全てを一点に込めて放つ、乾坤一擲の反撃戦だ。
「分かったな。……これはストライキではない。戦争だ。安物という疫病に対する、徹底的な防疫活動だ」
『了解!!』
モニター越しの唱和が響く。
その声には、久しぶりに覇気が満ちていた。
◇
翌日。
世界は静まり返った。
レオナルド商会の工場から、煙が消えた。
直営店のシャッターは下ろされ、『臨時休業』の張り紙がなされた。
トラックは走らず、修理受付の電話も繋がらない。
「えっ、休み? 困るよ、洗濯機が壊れたのに!」
「電球が切れたんだ! レオナルド製じゃないと合わないんだよ!」
市民たちは最初、困惑した。
だが、すぐに楽観した。
「まあいい、ゴライアスの店に行こう」「あっちの方が安いしな」。
だが、その楽観は、三日と持たなかった。
「おい、この電球、つけて一時間で切れたぞ!」
「ゴライアスの修理センター、全然電話に出ない!」
「ああっ! 洗濯機から水が漏れて、床が水浸しよ!」
悲鳴。
怒号。
混乱。
レオナルド製品が支えていた「当たり前の日常」が崩壊し始めた。
代替品として買ったゴライアス製品は、あまりにも脆く、あまりにも不誠実だった。
直そうにも部品がない。
文句を言おうにも窓口がない。
安さの裏にあった「不便」と「リスク」が、牙を剥いて襲いかかってきたのだ。
あるレストランでは、ゴライアス製のオーブンが故障し、予約客全員を断る羽目になった。
ある病院では、空調が停止し、入院患者が熱中症になりかけた。
ある家庭では、夜中にファンヒーターが異音を発し、恐怖で眠れない夜を過ごした。
「……レオナルドは? レオナルドの店はいつ開くんだ!」
人々はシャッターを叩いた。
だが、答えはない。
そこにあるのは、冷徹な沈黙だけ。
その沈黙こそが、レオナルドからのメッセージだった。
『失って初めて分かるだろう。……貴方たちが何を捨てたのかを』
そして、運命の日曜日が近づく。
帝都中央駅。
そこは、単なるレース場ではない。
不満と不安、そして僅かな希望を抱いた数万の民衆が詰めかける、巨大な審判の場となろうとしていた。
工場の奥深く。
アレクセイたちは、不眠不休で鉄を打っていた。
世界中から集められた最高純度のミスリル。
ドワーフの国から取り寄せた耐熱セラミック。
それらが、技術者たちの手によって、一つの怪物へと組み上げられていく。
「……凄いな」
ガルドが、完成間近の車両を見て息を飲んだ。
以前の優雅な流線型ではない。
無骨で、筋肉質で、そして圧倒的な「圧」を放つ、漆黒の塊。
それは、豪華列車ではない。
戦うために生まれた、鉄の戦車だった。
「名前はどうする? オブシディアン・改か?」
「いや」
レオナルドは、煤で汚れた顔を拭い、静かに言った。
「『プロメテウス』だ」
人間に火を与え、文明をもたらした巨人。
そして、その代償として神に罰せられ、岩に縛り付けられた受難者。
今の彼らに、これほど相応しい名はなかった。
「火を灯せ。……世界を照らす、本物の火を」
ボイラーに火が入る。
ドクン。
地響きのような鼓動が、静まり返った工場を揺らした。




