第5章 第2話:赤き津波と、沈黙する法廷
一夜にして、帝都の色彩が変わった。
それは比喩ではなく、物理的な現象だった。
朝霧が晴れると同時に、目抜き通りの景色が一変していたのだ。
建物の壁、街灯、広場の掲示板。
ありとあらゆる場所に、毒々しいほど鮮やかな「赤色」のポスターが貼られていた。
『革命的価格! 魔導生活をすべての家に!』
『レオナルドはもう古い! これからはゴライアスの時代!』
『驚愕の全品70パーセントオフ!』
赤、赤、赤。
視界を埋め尽くす赤色は、まるで都市そのものが動脈から血を噴き出しているかのような、生理的な不快感と興奮を煽る色だった。
「なんだ、これは……」
出勤途中のサラリーマンが足を止める。
主婦たちが買い物籠を抱えてざわめく。
その視線の先、かつては老舗の呉服屋があった一等地に、巨大な新店舗がオープンしていた。
建物の外装は、ペンキ塗りたての赤。
入り口では、派手な衣装を着たチンドン屋が鐘を鳴らし、ビラを撒いている。
『さあさあ、開店だよ! 開店記念セールだ!』
『掃除機、洗濯機、冷蔵庫! 本家の三分の一の値段だよ!』
『早い者勝ち! 売り切れ御免!』
ゴライアス商会、帝都第一号店。
その扉が開かれた瞬間、群衆が雪崩を打って押し寄せた。
まるで堰を切った濁流のように、人々が店内へと吸い込まれていく。
彼らの目は血走り、我先にと商品を掴み取っていく。
「おい、押すな!」
「その扇風機は私が先に取ったのよ!」
「安い! 本当に安いぞ!」
狂乱。
そこには、品質を吟味する冷静さも、店員との会話を楽しむ優雅さもない。
あるのは、ただ「安物を手に入れたい」という、剥き出しの欲望だけだった。
それを、通りの向かいにあるレオナルド商会直営店のウィンドウ越しに、一人の店長が呆然と見つめていた。
彼の店は、閑古鳥が鳴く静けさに包まれている。
磨き上げられた床。整然と陳列された青いロゴの製品たち。
それらは、美術館の展示品のように美しかったが、誰の手にも触れられず、ただ冷たく輝いているだけだった。
「……嘘だろ」
店長は呟いた。
昨日まで、自分の店は客で溢れていた。
「やっぱりレオナルド製だね」「少し高くても安心を買うよ」と、客たちは笑顔で金貨を支払ってくれたはずだ。
だが今、その客たちが、目の前で赤い店へと吸い込まれていく。
まるで、裏切られた恋人を見せつけられているような屈辱。
帝都だけではない。
港町でも、炭鉱の町でも、農村でも。
同じ現象が、世界規模で同時多発的に起きていた。
それはまさに、青き海を飲み込む、赤き津波の到来だった。
◇
レオナルド商会本社、大会議室。
重苦しい沈黙が支配していた。
円卓を囲む幹部たちの顔色は、一様に優れない。
「……報告します」
販売部長が、震える手で資料を読み上げた。
「直近一週間の売上高……全部門平均で、マイナス四十パーセント。特に小型家電は壊滅的で、マイナス六十五パーセントを記録しました」
会議室に、ため息とも悲鳴ともつかない音が漏れる。
半分以下。
企業の存続に関わる数字だ。
「在庫が倉庫に入りきりません。工場からは次々と新製品が送られてきますが、出荷先がないのです」
物流担当のガルドが、太い腕を組んで唸った。
「俺の部下たちも暇を持て余してる。トラックが駐車場で昼寝してる状態だ。……会長、値下げはできねえのか? 奴らに合わせて、ウチも半額にすりゃあ……」
「馬鹿を言うな!」
怒声を上げたのは、アレクセイだった。
彼は血走った目でガルドを睨みつけた。
「半額だと? 原価割れだぞ! ウチの製品に使ってるミスリルや魔石は、最高級品なんだ。奴らみたいなゴミ屑と一緒にすんな!」
「だがよぉ! 背に腹は代えられねえだろ! このままじゃ会社が干上がっちまう!」
「なら干上がればいい! プライドを捨ててまで生き延びて何になる!」
「なんだとコラァッ!」
ガルドが椅子を蹴って立ち上がる。アレクセイもスパナを握りしめる。
現場の焦りが、幹部同士の亀裂を生んでいた。
「……座れ」
冷徹な声が響いた。
上座に座るレオナルドだ。
彼は一度も資料に目を落としていない。
数字など見る必要はない。街の空気を見れば、状況は明白だからだ。
「値下げはしない。……品質を落として価格競争に乗れば、それはゴライアスの土俵に上がることになる。泥仕合は奴らの得意分野だ」
レオナルドは静かに言った。
だが、その指先は、万年筆の軸が歪むほど強く握りしめられている。
「シルヴィ。法務部の動きは?」
「はい。……本日午後、帝国高等裁判所にて第一回審理が行われます。意匠権侵害および不正競争防止法違反での提訴です」
「勝算は?」
「……五分五分、といったところです」
「五分だと?」
レオナルドの眉がピクリと動く。
「奴らは我々の設計図を盗み、外見を模倣し、粗悪品をばら撒いている。証拠は揃っているはずだ」
「それが……向こうの弁護士が、かなり手強いのです。法の抜け穴を知り尽くした古狸で……」
シルヴィが言い淀む。
レオナルドは立ち上がった。
「行くぞ。……法が正義を守るのか、それとも悪を助長するのか。この目で確かめてやる」
◇
帝国高等裁判所。
荘厳な石造りの法廷は、独特の湿気とカビの臭いがした。
何百年もの間、変わらぬ判例と伝統を守り続けてきた、保守の権化のような場所だ。
原告席にはレオナルドとシルヴィ。
そして被告席には、派手なスーツを着た男――ゴライアス商会会長、バルバロスが座っていた。
彼はレオナルドと目が合うと、ニヤリと金歯を見せて笑った。
その隣には、帝国の法曹界で有名な老弁護士が、分厚い六法全書を積み上げている。
「静粛に! これより審理を始める!」
裁判官が入廷し、木槌を叩く。
白髪の老裁判官だ。
彼は魔導技術になど興味がないのか、面倒くさそうに眼鏡の位置を直した。
「原告の主張は、被告の商品が原告の模倣であり、消費者を誤認させているというものだが……。被告、反論は?」
バルバロスの弁護士が、ゆっくりと立ち上がった。
「裁判長。原告の主張は言いがかりに過ぎません。……ご覧ください」
弁護士は、証拠品として提出された二つのコンロ――レオナルド製の青いコンロと、ゴライアス製の赤いコンロを持ち上げた。
「確かに、似ています。コンロとは四角いものであり、火が出るものですから、似るのは当然です。……しかし、ここをご覧ください。ボタンの配置が三センチずれています。角の丸みも違います。そして何より、色が違います」
「……ふむ」
裁判官が頷く。
「原告のコンロは青。被告は赤。……確かに、見間違えることはないな」
「その通りです! しかも、我が社の製品は内部構造も独自に『改良』しております。原告の製品にあるような、複雑で高価な回路を廃止し、シンプルで安価な構造を実現しました。これは模倣ではなく、イノベーションです!」
「異議あり!」
レオナルド側の弁護士が叫ぶ。
「それは改良ではなく改悪です! 安全装置を外しただけの欠陥品だ!」
「欠陥? 異なことを仰る。現に火はつきますし、湯も沸きます。消費者はその機能を求めて購入しているのです。……裁判長、これは大企業による、新興企業への不当な圧力です。彼らは自分たちの高い商品が売れないからといって、安くて良い商品を提供する我々を潰そうとしているのです!」
バルバロス側の弁護士は、芝居がかった身振りで陪審員席に訴えかけた。
陪審員たちは、庶民から選ばれた人々だ。
彼らは頷いていた。
「そうだそうだ」「安いのは正義だ」という空気が法廷を支配していく。
レオナルドは、奥歯を噛み締めた。
技術論が通じない。
ここでは「安全」という目に見えない価値よりも、「色が違う」「安い」という分かりやすい事実だけが重視される。
法は、過去の判例(前例)しか見ない。
技術革新のスピードに、法律が追いついていないのだ。
「……原告、レオナルド・ダ・ヴィンチ。発言を許可する」
裁判長に促され、レオナルドは証言台に立った。
彼はバルバロスを見据え、静かに口を開いた。
「裁判長。……あなたが乗る馬車が、車輪のピンを木製に変えて、価格を半分にしたとしたら、あなたはそれを買いますか?」
「……なに?」
「被告がやっているのはそういうことです。見た目が馬車ならそれでいい、走ればそれでいいという理屈で、死のリスクを客に売りつけている」
レオナルドは、赤いコンロを指差した。
「これは家電ではない。時限爆弾だ。……もしこれが爆発し、子供が火傷を負ったら、誰が責任を取るのですか?」
法廷が静まり返る。
正論だ。
だが、その静寂を破ったのは、バルバロスの嘲笑だった。
「爆発? ハハハ! 妄想もいい加減にしたまえ」
バルバロスは立ち上がり、両手を広げた。
「我が社は既に十万台を販売したが、大きな事故など起きていない。……たまにボヤが出ることはあるが、それは客の使い方が悪いからだ。説明書にも『長時間使うな』と書いてある」
「小さな文字でな」
「読まない方が悪い。……裁判長、彼は技術者の理想論を押し付けているだけです。貧しい人々は、多少のリスクがあっても、今日のご飯を炊くための安いコンロを求めているのです! 彼がやっていることは、貧者から文明の利器を取り上げる行為だ!」
バルバロスの言葉に、傍聴席から拍手が起きた。
ポピュリズム。
大衆迎合。
正しさよりも、分かりやすさが勝つ瞬間。
「……判決を言い渡す」
裁判長が木槌を構えた。
レオナルドは目を閉じた。
結果は、聞くまでもなかった。
「原告の請求を棄却する。……被告の製品におけるデザインおよび構造の差異は認められ、特許侵害には当たらない。また、価格競争は市場の健全な原理であり、これを阻害することは許されない」
カンッ!
乾いた音が、レオナルド商会の敗北を告げた。
シルヴィが顔を覆う。
バルバロスが勝ち誇った顔で、レオナルドに近づいてきた。
「残念だったな、天才君」
彼はレオナルドの耳元で囁いた。
「時代が変わったんだよ。……良いものを長く使う時代は終わった。これからは、安物を使い捨てて、次々に買い換える時代だ。その方が金が回る。経済が回る。……俺の方が、よっぽど現代的な商人だと思わないか?」
「……お前は商売をしているんじゃない」
レオナルドは、氷のような眼差しでバルバロスを射抜いた。
「お前は、未来を食い潰しているだけだ。……焼畑農業と同じだ。客の信用という土壌を焼き尽くし、ペンペン草も生えない荒野に変えようとしている」
「ハッ、負け犬の遠吠えだな。……せいぜい、青い在庫の山に埋もれて死ぬといい」
バルバロスは高笑いを残して去っていった。
法廷に残されたのは、正義を否定されたレオナルドと、失望に沈む部下たちだけだった。
◇
その夜。
レオナルドは一人、執務室にいた。
電気は点けていない。
眼下に広がる帝都の夜景だけが、部屋を淡く照らしている。
電話が鳴り止まない。
銀行からの融資引き揚げの連絡。
株主からの突き上げ。
工場長からの操業停止の相談。
全てが崩れ去っていく音が聞こえるようだった。
「……クソッ」
レオナルドは、デスクの上のコンロの模型を壁に投げつけた。
ガシャッ!
破片が飛び散る。
冷静沈着な彼が見せた、初めての感情の爆発だった。
悔しい。
金が減るのが悔しいのではない。
自分の信じた「技術」が、「正義」が、あんな安っぽいメッキの偽物に負けたことが、どうしても許せなかった。
大衆は馬鹿なのか?
なぜ分からない?
なぜ、自分の命を安売りする?
「……レオ」
ドアが開き、アレクセイが入ってきた。
彼の手には、二本の安酒の瓶が握られている。
ノックもせずに社長室に入る無礼。
だが、今のレオナルドには、その無礼さが心地よかった。
「……飲むか?」
「ああ」
二人は、高級なソファではなく、床に直接座り込んだ。
グラスなどない。ラッパ飲みだ。
強いアルコールが、喉を焼く。
「……工場のみんな、元気がねえよ」
アレクセイがポツリと言った。
「一生懸命作ったものが売れない。隣のラインじゃ、ゴライアスの製品が飛ぶように売れてるって噂話ばかりだ。……何人か、辞表を持ってきた奴もいる」
「引き止められなかったのか?」
「無理だ。……ゴライアスに行けば給料が倍になるんだとさ。家族を養うためには仕方ねえって泣かれたら、止める権利なんて俺にはねえよ」
アレクセイは瓶を傾け、大きくあおった。
「なぁ、レオ。……俺たちのやり方は、間違ってたのか? 高すぎたのか? もっと手を抜いて、適当なもんを作ればよかったのか?」
技術者の弱音。
あの強気なアレクセイが、自信を喪失している。
それが何よりも、レオナルドの胸を痛ませた。
「……違う」
レオナルドは言った。
自分に言い聞かせるように、強く。
「間違っているのは世界の方だ。……だが、世界が間違っているなら、それを正すのが商人の仕事だ」
彼は立ち上がり、窓ガラスに手をついた。
ガラスの向こう、赤く染まった街並み。
その中心に、一筋の細い、しかし強靭な鉄の道が見える。
鉄道だ。
まだ開通していない、闇の中を走る黒いレール。
「アレクセイ。……小物はくれてやる」
「あ?」
「掃除機も、洗濯機も、コンロも……全部ゴライアスにくれてやれ。そんな泥仕合につきあっている暇はない」
レオナルドは振り返った。
その目は、酒のせいではなく、狂気じみた決意で充血していた。
「場所を変えるぞ。……奴らが泳げないほどの深海へ。あるいは、奴らが息もできないほどの高みへ」
「……鉄道か」
「そうだ。大陸横断鉄道『オブシディアン』。……これだけは、奴らの安っぽいコピー技術では絶対に再現できない。俺たちの魂の結晶だ」
レオナルドは、壁に貼られた巨大な路線図を指差した。
それは、世界の大陸を横断し、物流と人の流れを根底から覆す、壮大な計画図だ。
「この一点に、会社の全ての残り時間を賭ける。……資金も、人材も、技術も、全部だ。失敗すれば倒産。成功すれば世界制覇」
「……丁半博打ってわけか」
アレクセイはニヤリと笑った。
その笑顔から、迷いが消えていた。
そうだ。ちまちました値下げ競争なんて、俺たちの柄じゃねえ。
ドデカい花火を打ち上げるか、散るか。
それぐらいの方が清々しい。
「いいぜ、乗った。……最期の瞬間まで、付き合ってやるよ、社長」
「ああ。頼むぞ、現場監督」
二人は瓶をぶつけ合った。
カチン、という硬い音が、反撃のゴングのように響いた。
だが、彼らはまだ甘かった。
ゴライアスという怪物が、単なる模倣者ではなく、もっと悪質で、もっと狡猾な捕食者であることを、読みきれていなかった。
彼らが最後の希望とした「聖域」――鉄道さえも、既に毒牙にかかっていることを、翌朝の新聞で知ることになる。
赤き津波は、留まることを知らない。
次に飲み込まれるのは、彼らの最後の砦だった。




