第4.5章 第2話:元勇者の葛藤と、傷だらけのヘルメット
北の荒野、ルメラ地方。
朝が来た。
だが、鶏の鳴き声も、職人が鉄を打つ音も、商人の呼び込みも聞こえない。
あるのは、数千人が一斉に起き出し、広場へ向かってゾロゾロと歩く、衣擦れの音だけだ。
「……アレクセイ。起きなさい、もう配給の時間だよ」
母親の声で、アレクセイは目を覚ました。
万年床の煎餅布団。湿気った藁の匂い。
かつての実家の天井だ。
だが、彼は反射的に飛び起き、枕元の時計を探そうとした。
「遅刻だッ! ……あ?」
時計はない。
そもそも、遅刻などという概念はこの村にはもう存在しない。
現場もない。工期もない。上司の怒号もない。
あるのは、聖女エレナがパンを出す時間を待つだけの、無限の暇だけだ。
「ああ……そうか。俺、辞めたんだったな」
アレクセイは力なく呟き、顔を洗った。
水桶の水は濁っていた。
井戸のポンプが故障しているらしいが、誰も直そうとしない。
「聖女様が水を出してくれるからいい」と言って、放置されているのだ。
「早くしておくれ。いい場所を取らないと、温かいパンがもらえないよ」
母親が急かす。
彼女は痩せ細っていたが、目は異様なほど輝いていた。
息子が帰ってきたことへの喜びと、聖女への信仰心。
その二つが入り混じった笑顔は、アレクセイの胸をキリキリと締め付けた。
彼は無言で家を出た。
着る服は、ボロボロの平服だ。
かつて着ていた、レオナルド建設のロゴが入った作業着は、母親に「悪魔の服だ」と言われて押入れの奥に封印されていた。
広場へ向かう道すがら、アレクセイの足が止まった。
「……おい、なんだこれ」
村のメインストリートである石畳の道。
その中央に、直径一メートルほどの大きな穴が開いていた。
昨夜の雨で地盤が緩み、陥没したのだろう。
子供や老人が落ちれば大怪我をする危険な穴だ。
「危ねえな。……カラーコーン立てて、仮設の足場組まねえと」
アレクセイは職業病的に周囲を見回した。
だが、安全標識もなければ、柵もない。
村人たちは、穴を避けて歩くだけで、誰一人として埋めようとしなかった。
「トマ! お前、これ直さないのかよ!」
アレクセイは、前を歩いていた幼馴染の肩を掴んだ。
トマは、かつては親父さんの跡を継いで鍛冶屋をやっていた男だ。
道具の扱いには慣れているはずだ。
「あぁ? なんで俺が?」
トマは面倒くさそうにあくびをした。
「そんなことして何になるんだよ。金ももらえねえのに、汗かいて損するだけだろ」
「損って……誰かが怪我したらどうするんだ!」
「祈ればいいじゃん。聖女様が治してくれるし」
トマは鼻をほじりながら言った。
「お前も都会の毒が抜けてねえな。そんなことより、早く並ぼうぜ。今日のパンはチョコレート味らしいぞ」
トマが去っていく。
アレクセイはその場に立ち尽くした。
祈れば治る。
だから、危険を放置する。
安全管理など必要ない。
メンテナンスも必要ない。
なぜなら、壊れても怪我をしても、タダで元通りになるからだ。
「……違う」
アレクセイの中で、何かが拒絶反応を起こした。
それは違う。
道路というのは、ただの通り道じゃない。
そこで暮らす人々の命を運ぶ血管だ。
それを維持管理するのは、そこに住む人間の責任であり、誇りだったはずだ。
「レオなら……あいつなら、絶対に見過ごさねえ」
あいつなら、即座に測量し、資材を手配し、三時間で埋め戻すだろう。
そして「通行人の安全確保ヨシ!」と指差し確認をするだろう。
それが、プロの仕事だ。
だが、今の俺はなんだ?
ただの無職だ。
母親を悲しませたくなくて、仕事を捨てた。
その結果が、この穴の前で立ち尽くすだけの、無力な男だ。
アレクセイは拳を握りしめ、逃げるように広場へと向かった。
◇
その日の夜。
配給されたパンを食べ終え、母親が寝静まった頃。
アレクセイは、こっそりと押入れを開けた。
「……ごめんよ、母ちゃん」
彼は、奥に隠されていたバッグを引っ張り出した。
中に入っていたのは、黄色いヘルメットと、安全靴。
そして、使い込まれた工具ベルトだ。
レオナルド建設の支給品。
泥と油にまみれ、無数の傷がついている。
だが、その傷の一つ一つが、彼にとっては勲章だった。
南大陸の密林を切り拓いた時の傷。
魔王城の瓦礫を撤去した時の傷。
大洪水を防ぐために、徹夜で堤防を築いた時の傷。
「……汚ねえな」
アレクセイは、手ぬぐいでヘルメットを拭いた。
キュッ、キュッ、と音がする。
その音だけが、彼を正気に戻してくれた。
ここでは誰も働かない。
誰も汗をかかない。
手は綺麗で、服も汚れない。
聖女の魔法は、すべてを清潔に、無菌状態に保ってくれる。
けれど、アレクセイは知っていた。
世界を動かしているのは、綺麗な魔法じゃない。
誰かの汚れた手だ。
泥にまみれて土台を支え、油にまみれて歯車を回す、名もなき労働者たちの手だ。
「俺は……こっち側の人間なんだよな」
彼はヘルメットの感触を確かめるように撫でた。
母親と一緒に暮らすのは幸せだ。
パンも美味い。
喧嘩もない。
でも、魂が腐っていく音がする。
「誰かの役に立っている」という実感がなければ、男は死ぬのだ。
その時。
外から不穏な風の音が聞こえた。
そして、微かな地響き。
「……?」
アレクセイは窓を開けた。
村の広場の方角だ。
いつもなら静まり返っているはずの深夜に、ざわめきが聞こえる。
異変。
現場監督としての勘が、警報を鳴らした。
彼は迷わず、ヘルメットを被った。
カチリ、と顎紐を締める。
その瞬間、彼の背筋に一本の鋼鉄が通った。
「行くか」
安全靴に足をねじ込み、工具ベルトを腰に巻く。
母親に見つかれば、また泣かれるかもしれない。
「悪魔の道具だ」と罵られるかもしれない。
それでも、彼は行かなければならなかった。
◇
翌朝。
広場は、昨日までの「楽園」とは別世界になっていた。
「寒い……」
「パンはまだかよ……」
気温が急激に下がっていた。
そして、聖女エレナが現れない。
いつもなら朝日と共に現れ、笑顔で奇跡を見せてくれるはずの彼女が、テントから出てこないのだ。
「おい、どうなってるんだ!」
「説明しろ!」
村人たちの苛立ちが募る。
アレクセイは、群衆の最後尾で様子を伺っていた。
隣にいる母親も、不安そうに身を震わせている。
「聖女様、具合でも悪いのかしら……」
「……母ちゃん。下がっててくれ」
アレクセイは母親を庇うように前に出た。
空気が悪い。
爆発寸前のガスのような、危険な臭いがする。
やがて、テントの垂れ幕が開き、エレナが姿を現した。
だが、その姿を見た瞬間、広場が凍りついた。
ボロボロだった。
髪は白く抜け落ち、肌は土気色。
立っているのがやっとという状態で、彼女は杖を振るった。
ブシュッ。
杖の先から出たのは、光り輝くパンではなかった。
ドロドロとした、黒い汚泥のような液体だった。
「……え?」
最前列にいた子供が、泥を浴びて呆然とする。
静寂。
そして、爆発。
「ふざけるな! 俺のパンは!」
「隠してるんだろ! 出せよ!」
飢えた獣たちの咆哮。
数千人の人間が、一斉に理性というタガを外し、聖女に向かって殺到した。
「やめろッ!!」
アレクセイは叫び、人波をかき分けて前に出ようとした。
だが、多勢に無勢だ。
飢餓が生むエネルギーは、どんな魔物よりも凶暴だった。
「どけよアレクセイ! お前、隠し持ってるんだろ!」
幼馴染のトマが、血走った目で殴りかかってきた。
その手には、石塊が握られている。
「トマ!?」
「よこせ! 俺は腹が減って死にそうなんだ!」
ゴッ!
鈍い音がして、アレクセイは弾き飛ばされた。
だが、痛みはなかった。
黄色いヘルメットが、トマの一撃を受け止めていたからだ。
「……トマ。お前、そんないいスイングできたんだな」
アレクセイは、地面に転がったまま笑った。
かつて一緒に鉄を打っていた頃の、力強いトマの腕。
それが今、友を傷つけるために使われている。
これが、楽園の正体か。
働かず、考えず、ただ与えられるだけの生活は、人間から尊厳を奪い、獣に変えてしまう。
レオが言っていた通りだ。
『タダより高いものはない』
その代償を、今、全員で払わされているのだ。
「……レオ。お前、やっぱすげえよ」
アレクセイは立ち上がった。
ヘルメットの顎紐を締め直す。
視界がクリアになる。
もう、迷いはない。
俺は村人じゃない。
俺は、レオナルド建設・土木事業部長、アレクセイだ。
「おい! そこのお前ら! 将棋倒しになるぞ! 下がれ!」
彼は腹の底から声を張り上げた。
戦場の指揮官の声ではない。
騒音まみれの工事現場で鍛え上げた、現場監督の通る声だ。
「女子供を中央へ! 男は外周を固めろ! パニックを起こすな!」
その声に、何人かがハッとして動きを止めた。
秩序。
崩壊しかけた現場に必要なのは、明確な指示系統だ。
その時だった。
地響きと共に、巨大なドリル戦車が地面を突き破って現れたのは。
『よう、腹ペコ共!! 餌の時間だぜぇぇぇッ!!』
オークのガルドだ。
黒鉄の車体。山積みの小麦。
そして、タラップから降りてくる、冷徹なスーツ姿の男。
レオナルド。
かつてのボス。
俺が裏切り、見捨てたはずの男。
彼は、暴徒と化した民衆を見下ろし、冷たく言い放った。
『金がないなら、未来を売れ』
『働いて、稼いで、俺に借金を返せ』
それは、悪魔の契約だった。
だが、アレクセイには、それが福音に聞こえた。
働くこと。
誰かに必要とされること。
対価を得て、自分の足で立つこと。
それが許される世界が、帰ってきたのだ。
レオが、懐から社員証を取り出し、放り投げる。
アレクセイはそれを空中で掴み取った。
プラスチックの硬い感触。
首にかけると、それは鎖のように重く、そして何よりも心地よかった。
「……了解だ、クソ上司!!」
アレクセイは叫んだ。
涙が溢れた。
もう二度と、このヘルメットは脱がない。
たとえ母親に嫌われても、世界中から後ろ指を指されても。
俺は、泥にまみれて働く、世界一誇り高い「社畜」なのだから。
「総員、配置につけ! 荷下ろしだ! リフト持ってこい!」
彼の号令が、荒廃した広場に響き渡る。
それは、ルメラ地方の復興を告げる、最初のハンマーの音だった。




