第4.5章 第1話:蝕まれる大地と、聖女の吐血
北の荒野、ルメラ地方。
その夜の気温は、真夏だというのに氷点下近くまで下がっていた。
異常気象。
誰の目にも明らかな異変だったが、人々はそれを深く考えようとはしなかった。
思考よりも先に、飢えと寒さが彼らを支配していたからだ。
「聖女様、ありがとうございます……!」
「ああ、温かい。パンだ、パンだぞ」
深夜二時。
聖女エレナのテントの前には、まだ長蛇の列が続いていた。
松明の揺れる明かりの中、ボロ布を纏った老婆や、母親に抱かれた子供たちが、凍える手で配給を待っている。
「さあ、どうぞ。たくさん食べて、元気を出してくださいね」
テントの入り口に立つエレナは、女神のような微笑みを浮かべていた。
透き通るような白い肌。亜麻色の髪。
彼女が枯れ木のような杖を一振りすると、何もない空間から湯気を立てるパンが現れ、人々の手に収まっていく。
「神様のお恵みです。心配しないで、明日の分もありますからね」
彼女の声は鈴を転がすように美しく、聞く者の心を溶かした。
受け取った人々は涙を流して感謝し、地面に額を擦り付けて祈りを捧げる。
その光景は、まさに地獄に降りた蜘蛛の糸、絶望の淵に咲いた一輪の花だった。
だが。
その「花」の茎が、今にも折れそうに悲鳴を上げていることに、気づく者は誰もいなかった。
「……うっ」
最後の一人にパンを渡し終え、テントの垂れ幕を下ろした瞬間。
エレナの膝から、力が抜けた。
糸の切れた操り人形のように、冷たい地面へと崩れ落ちる。
「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
呼吸ができない。
肺が酸素を拒絶しているかのように、吸っても吸っても苦しい。
視界が急速に狭まり、世界が白黒のノイズに覆われていく。
寒い。
あまりにも寒い。
外気による寒さではない。
体の内側、心臓の奥底にある熱源が、完全に消え失せた冷たさだった。
魔法とは、無から有を生む技術ではない。
等価交換。
何かを生み出すには、必ず代償が必要になる。
通常、魔法使いは大気中に漂う魔素を集めて術を行使するが、エレナが行っている「物質生成」と「広域治癒」の規模は、大気中のエネルギーだけでは到底賄えない。
足りない分は、どうするか。
自分の命を燃やすしかない。
血液を、筋肉を、神経を、魂そのものを燃料としてくべ続け、無理やり奇跡という名の炎を維持する。
それを一ヶ月、不眠不休で続けてきた。
「……ぅ、おぇっ……!!」
エレナは這いつくばり、テントの隅に置かれた真鍮のタライに顔を突っ込んだ。
胃袋が裏返るような激しい嘔吐感。
だが、吐き出したものに、未消化の食べ物は混じっていなかった。
そもそも、彼女はここ数日、水以外何も喉を通していない。
タライの底に叩きつけられたのは、鮮血だった。
赤黒い、鉄錆の臭いがする塊。
それは彼女の内臓が悲鳴を上げ、崩壊し始めている証拠だった。
「あ、はぁ……嫌だ、まだ……」
震える手で口元を拭う。
袖口の白いレースが、べっとりと赤く染まる。
彼女はふらつく足取りで立ち上がり、姿見の前に立った。
鏡の中にいたのは、十七歳の美しい聖女ではなかった。
頬は骸骨のようにこけ、眼球は落ち窪み、目の下には死人のような隈が張り付いている。
そして何より、彼女が自慢にしていた亜麻色の髪が、老婆のようなパサパサの白髪へと変色し始めていた。
化け物だ。
エレナは鏡に触れようとして、指先が紫色に変色していることに気づいた。
壊死が始まっている。
末端の血管まで血液が回らず、体が生きることを放棄しようとしているのだ。
死ぬ。
このまま眠れば、二度と目覚めることはないだろう。
本能が警鐘を鳴らしている。今すぐ逃げろと叫んでいる。
ここから逃げ出し、暖かいベッドで眠り、栄養のあるスープを飲まなければ、お前は死ぬぞと。
だが、エレナは逃げ出せなかった。
テントの外から聞こえる、寝息と祈り声が、彼女を鎖のように縛り付けていたからだ。
『聖女様がいれば生きていける』
『貴女は私たちの希望だ』
『見捨てないでください』
その言葉が、彼女の存在理由のすべてだった。
幼い頃から修道院で育ち、親の顔も知らない彼女にとって、「誰かに必要とされること」こそが、生きるための唯一の酸素だった。
もし今、私が倒れたら。
明日の朝、パンを求めて並ぶ子供たちはどうなる?
絶望し、飢え、私を恨みながら死んでいくのだろうか。
「……嫌だ」
エレナは頭を振った。
見捨てられる恐怖。無価値だと断じられる恐怖。
それは死ぬことよりも遥かに恐ろしかった。
「やらなきゃ……。明日の分を、用意しなきゃ……」
彼女は杖を握りしめた。
だが、燃料切れの体は、火花のひとつも散らせない。
乾いた雑巾を絞るように、魂の奥底を探る。
ない。
一滴も、残っていない。
私の中身は、もう空っぽの抜け殻だ。
その時、ふと、脳裏にある男の顔が浮かんだ。
先日、この村を訪れた商人の男。
仕立ての良いスーツを着て、冷たい目で私を見下ろした男。
『タダより高いものはない』
『貴女のやっていることは、経済への破壊工作だ』
あの時、私は彼を悪魔だと思った。
神聖な奉仕の精神を、汚らわしい金銭の理屈で汚そうとする敵だと。
けれど今、薄れゆく意識の中で、彼の言葉が呪いのようにリフレインする。
『貴女の命を削っているはずだ』
そうです。削っています。
でも、それが何だと言うのですか。
私の命ひとつで、数千人が救われるなら、それは尊い犠牲でしょう?
物語に出てくる聖女たちは、みなそうやって星になったのでしょう?
……でも、痛い。
寒い。
怖い。
尊い犠牲とは、こんなにも惨めで、孤独で、痛々しいものだったのですか。
エレナはその場に崩れ落ちた。
冷たい土の感触が、頬に伝わる。
意識が闇に溶けていく。
ああ、神様。どうか、私を連れて行かないで。
まだ、誰も救えていないのです。
その時だった。
ドクン。
心臓の鼓動ではない。
もっと低く、重く、地響きのような振動が、頬をつけた地面から伝わってきた。
「……え?」
エレナは重い瞼を開けた。
真っ暗なテントの中。
地面が、微かに発光しているように見えた。
いや、光ではない。熱だ。
凍りついた彼女の体を焦がすような、圧倒的な熱量が、足元の土のすぐ下を流れている。
大地の血管。
星の胎動。
教会の禁書庫で読んだことがある。
この世界には、網の目のようにエネルギーの奔流が巡っていると。
数億年かけて蓄積された、星そのものの生命力。
『……ここにある』
声が聞こえたわけではない。
ただ、本能が理解した。
そこにあるのは、無限の薪だ。
私のちっぽけな命など比較にならない、巨大で、無尽蔵のエネルギー。
禁忌であることは知っていた。
大地から直接力を吸い上げれば、その土地の生態系が狂い、土が死ぬ。
それは未来を食いつぶす行為だ。
商人の男が言っていた「破壊」そのものだ。
けれど。
今のエレナにとって、それは毒薬ではなく、甘い蜜にしか見えなかった。
背に腹は代えられない。
未来の土地がどうなろうと、今、目の前の子供たちが飢え死にするよりはマシだ。
そう、これは緊急避難。
神様だって、きっと許してくれる。
「……ごめんなさい。少しだけ……少しだけ、借ります」
エレナは、這いつくばったまま、地面に両手の爪を突き立てた。
爪が割れ、指先から血が滲む。
泥の中に指を沈める。
より深く。より熱い場所へ。
そして、彼女は渇ききった根が水を求めるように、星の命を吸い上げた。
ドクンッ!!
「あ……あっ、あぁ……ッ!!!」
エレナの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
激痛ではなかった。
快楽だった。
脳髄が焼き切れるほどの、暴力的な快感。
指先から流れ込んできた奔流は、瞬く間に彼女の血管を駆け巡り、枯渇していた魂の器を強引に満たした。
寒気が吹き飛ぶ。
痛みが消える。
鉛のように重かった手足に、力がみなぎる。
それは、まるで全能の神になったような感覚だった。
太古のエネルギーは、濃密で、甘く、そして恐ろしいほどに強大だった。
今まで自分の命を削って作っていた火花が、蝋燭の火だとしたら、今手に入れたのは太陽の欠片だ。
「すごい……! 温かい……!」
エレナは立ち上がった。
ふらつきは消えていた。
鏡を見る。
青白かった肌に赤みが差し、瞳は松明のように爛々と輝いていた。
まるで、麻薬を打った直後のように。
「これなら……これなら、いくらでも作れる!」
エレナは杖を振り上げた。
詠唱などいらない。
溢れ出るエネルギーを、ただ叩きつければいい。
ボコッ。ボコッ。ボコボコボコッ!
空間が歪み、パンが溢れ出す。
十個、百個、千個。
止まらない。
山のように積み上がり、テントの天井に届くほどの食料が、瞬く間に生成されていく。
「あはっ……! あははははっ!」
エレナは笑った。
涙が溢れた。
これで、誰も死ななくて済む。
誰も私を失望させない。
私は、本物の聖女になれたのだ。
彼女は気づかなかった。
あるいは、溢れ出る多幸感の中で、無意識に目を逸らした。
テントの隅、花瓶に生けられていた野花が、一瞬で茶色く枯れ果て、崩れ落ちたことを。
地面を這っていた小さな虫たちが、苦しむように丸まって死滅したことを。
そして、彼女が指を突き立てた地面を中心に、黒く肥沃だった土が、水分と養分をすべて奪われ、サラサラと崩れる灰色の砂へと変色し始めていることを。
テントの外では、いつの間にか夜風が止んでいた。
不気味なほどの静寂。
それは、ルメラ地方の大地が上げた、無言の断末魔だった。
翌朝。
広場に集まった人々は、山のように積まれたパンを見て歓声を上げた。
「奇跡だ!」と叫び、聖女を称えた。
エレナは、その歓声をテントの中で聞きながら、鏡に向かってニッコリと笑った。
口元には、昨夜の吐血の跡がまだ残っている。
だが、その瞳孔は開ききり、どこか焦点が合っていなかった。
タダより高いものはない。
商人の警告は、正しかった。
彼女は今、自分の命の代わりに、もっと取り返しのつかない「代金」を支払い始めたのだ。
しかし、その請求書が届くのは、もう少し先の話。
今はただ、狂った聖女の笑顔だけが、凍りついた大地に咲いていた。




