第4章 最終話:煙突の煙と、聖女の「初任給」
一ヶ月後。
北の空を覆っていた鉛色の雲は消え、代わりに灰色と黒の混じった「煤煙」が空を覆っていた。
カン! カン! カン!
朝も早よから、ハンマーが鉄を叩く音が響き渡る。
かつて静寂に包まれていたルメラ地方は今、レオナルド商会直轄の「一大工業地帯」へと変貌を遂げていた。
魔界から輸入した資材、オーク族の重機、そしてドワーフの技術指導。
それらが、死にかけていたこの地に、暴力的なまでの活力を注入していた。
「おーい! 3番溶鉱炉、火力が足りねえぞ! 魔石をくべろ!」
現場監督のアレクセイが、ヘルメットを被って怒鳴っている。
その顔は真っ黒に汚れ、目の下のクマも酷いが、その表情は生き生きとしていた。
「へいよ! まったく、人使いが荒いぜ!」
幼馴染のトマが、汗だくでスコップを振るう。
かつて「働きたくない」と言っていた男の腕には、新しい筋肉がつき始めていた。
休憩のベルが鳴る。
作業員たちが一斉に食堂へなだれ込む。
メニューは相変わらず「黒小麦のパン」と「乾燥肉のスープ」だ。
決して美食ではない。ジャリジャリするし、硬い。
だが。
「……うめえ」
アレクセイの母親が、スープにパンを浸しながら、しみじみと呟いた。
彼女もまた、工場の食堂係として雇われている。
「自分で稼いだ金で食う飯は、味がするねぇ」
「だろ? 母ちゃん」
アレクセイが笑い、泥だらけの手でパンを齧る。
タダで配給されていた頃の「虚ろな満腹感」はもうない。
ここにあるのは、労働の対価として勝ち取った「生存の実感」だ。
◇
一方、丘の上に新設された白亜の建物。
『レオナルド・メディカルセンター』。
「本日の診療はここまでです。……お大事になさってください」
院長室で、エレナが深々と頭を下げた。
彼女の目の前には、遠方の国から訪れた貴族の婦人が座っている。
婦人は、長年の持病をエレナの魔法で完治させられ、涙を流して感謝していた。
「ありがとう、聖女様! これはお礼です!」
婦人が差し出したのは、革袋に入った大量の金貨だ。
かつてのエレナなら、「お金なんて汚らわしい」と拒絶していただろう。
だが今の彼女は、白衣のポケットから「請求書」を取り出し、事務的に、しかし丁寧に受け取った。
「ありがとうございます。……確かに、受領いたしました」
貴族が去った後。
エレナは、手のひらに残った金貨の重みを確かめた。
ズシリと重い。
それは、彼女の技術への評価であり、彼女が背負った借金を返すための「力」だ。
「……どうだ、初めての『給料』の味は」
背後から声がした。
オーナーであるレオナルドだ。彼は定期監査のために訪れていた。
「会長……」
エレナは金貨を見つめたまま、微かに微笑んだ。
「不思議ですね。……昔は、みんなが『ありがとう』と言って祈ってくれました。でも、今のほうが……この冷たい金属を受け取った時のほうが、胸が温かいんです」
「当たり前だ。感謝は空気だが、金は『責任』だからな」
レオは窓の外、黒い煙を上げる工場群を見下ろした。
「貴女が稼いだこの金が、あの工場を動かし、彼らのパンになる。……貴女の魔法は、もう誰かの未来を食いつぶしていない。堂々と胸を張れ、院長」
「はい。……完済まであと100年かかりますが、頑張ります」
エレナは金貨を金庫にしまい、次のカルテを手に取った。
その横顔は、もう儚い聖女ではない。
一人の逞しい「職業人」の顔だった。
◇
夕暮れ時。
工場の屋上で、レオとアレクセイは並んで缶コーヒーを飲んでいた。
「……なあ、レオ」
「なんだ」
「アンタ、これからどうするんだ? ルメラも復興したし、借金も順調に返済中だ。……また暇になるんじゃないか?」
アレクセイが茶化すように言う。
確かに、この星において、レオナルド商会の敵はいなくなった。
魔王も、神も、聖女も、すべて彼の経済圏に組み込まれた。
地上の富は、すべて彼の手の中にある。
レオは缶を揺らし、残りを飲み干した。
そして、ゆっくりと視線を上げた。
工場の煙の向こう。
夕闇が迫り、一番星が輝き始めている。
「……アレクセイ。あの星、いくらで買えると思う?」
「はあ? 星?」
アレクセイが呆れて空を見上げる。
「アンタなぁ……。地上を買い尽くしたからって、次は宇宙かよ」
「悪くないだろ。……この星の市場は、俺にはもう狭すぎる」
レオの瞳には、地上の景色は映っていなかった。
その目は、遥か彼方、未知なる銀河の相場を見据えている。
「準備しておけよ、土木事業部長。……次は、無重力で道路を作ることになるかもしれんぞ」
「勘弁してくれよ、ブラック企業が……」
アレクセイは溜息をつき、それでもニヤリと笑って、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
カラン、という乾いた音が響く。
風が吹いた。
煤と油と、焼きたてのパンの匂いがする風だ。
商人の戦いは終わらない。
欲望がある限り、市場は無限に広がっているのだから。




