第4章 第7話:悪魔と、「現実」の味
ズズズズズ……ッ!!
凍てついたルメラの広場を、暴力的な地響きが揺らした。
地面が隆起し、アスファルトが砕け散る。
噴き上がったのは、灼熱の蒸気と、鼻をつく硫黄の臭い。
そして、回転する巨大なドリルを備えた、黒鉄の塊だった。
「な、なんだ!?」
「魔物か!?」
飢えと寒さで動きの鈍っていた暴徒たちが、恐怖に慄いて後ずさる。
地中から姿を現したのは、レオナルド重工製の『全地形対応型・魔導装甲トレーラー』だ。
その車体は、地下深度12,000メートルのマグマ地帯を突破してきた余熱で赤熱し、触れれば火傷しそうなほどの熱気を放っていた。
プシューッ!!
圧縮空気が抜け、重厚なハッチが開く。
そこから漏れ出したのは、極寒の地には不釣り合いな「熱」と、焦げたような穀物の匂いだった。
『よう、地上の貧乏人ども! 生きてるかぁッ!!』
運転席から身を乗り出したのは、オーク族の将軍ガルドだ。
彼は煤だらけの顔でニヤリと笑い、荷台のカバーを一気に引き剥がした。
ドサドサドサッ!!
雪崩のように溢れ出したのは、黒く、ゴツゴツとした岩のような物体。
魔界特産、『黒小麦』の山だった。
「……む、麦?」
「食べ物だ……! 食べ物があるぞォッ!!」
一瞬の静寂の後、群衆の目が血走った。
聖女の奇跡が枯渇し、泥しか出なくなった今、目の前の黒い山は、彼らにとって唯一の命綱だった。
「よこせ! 俺のだ!」
「どけ! 俺が先に並んでたんだ!」
獣と化した人々が、黒小麦の山へ殺到しようとする。
だが。
『下がれッ! 乞食ども!!』
ガルドの怒号と共に、ドワーフの精鋭部隊が放水銃を構えた。
放たれたのは水ではない。魔界の植物から抽出した、即乾性の粘着液だ。
それが最前列の男たちの足を絡め取り、物理的にその突撃を阻止した。
「あぐっ!? 動けねえ!」
「なんでだ! 助けてくれるんじゃないのかよ!」
罵声が飛び交う中、装甲車のタラップから、静かに、しかし圧倒的な威圧感を纏った男が降り立った。
煤と油の臭いが充満する広場で、一人だけ一点の汚れもないスーツを着こなした男。
レオナルド商会会長、レオナルドだ。
「……あ、悪魔……」
誰かが震える声で呟いた。
かつて彼らが石を投げ、唾を吐きかけ、追い出した男。
それが今、圧倒的な「資源」を背負って、彼らを見下ろしている。
「久しぶりだな、ルメラの諸君」
レオの声は、拡声器も使っていないのに、広場の隅々まで届いた。
「どうだ? 聖女殿の作り上げた『楽園』の居心地は。……腹は満ちたか? 心は安らいだか?」
彼の視線が、地面に倒れ伏す聖女エレナに向けられる。
彼女は意識を取り戻していたが、憔悴しきって動けない。
自分の足元で、信者たちが食料を奪い合おうとする地獄絵図を見て、涙を流していた。
「レオナルド……様……」
「見ろ、聖女殿。これが貴女の『無償の愛』の末路だ」
レオは冷徹に告げた。
「貴女は、未来の資源を食いつぶし、人々に『タダ飯』という麻薬を与えた。……その結果がこれだ。禁断症状に苦しみ、獣のように争う家畜の群れ」
「私は……ただ、みんなを救いたくて……」
「システムが破綻したんだ。貴女の経営能力の欠如が、彼らを殺しかけている」
レオは群衆に向き直った。
その目は、慈悲など欠片もなかった。
「聞け! 俺は慈善家じゃない。ここにある小麦は、俺が私財を投げ打ち、命がけで魔界から運ばせた『商品』だ。……タダで食えると思うな」
群衆がどよめく。
「金なんかねえぞ!」
「そうだ! 俺たちは一文無しだ! 見殺しにする気か!」
「金がないなら、『未来』を売れ」
レオが指を鳴らす。
秘書のシルヴィが、魔法で数千枚の羊皮紙を空中にばら撒いた。
それは白い雪のように、汚れた広場へと舞い落ちた。
「『労働契約書』だ」
レオは宣言した。
「今から俺が、この破綻したルメラ地方を『買収(M&A)』する。お前たちの借金は、俺が肩代わりしてやる。その代わり――」
彼の目が、冷酷な商人の色に染まる。
「明日から死ぬ気で働け。鉱山を掘り直せ。畑を耕せ。道路を作れ。……働いて、稼いで、俺に借金を返せ。完済するまで、お前らの労働力は俺のものだ」
静まり返る広場。
それは実質的な「奴隷契約」だった。
誇りも、自由も捨て、悪魔の下で泥にまみれて働く。
かつて「守銭奴」と罵った男に、頭を下げて命乞いをする。
その屈辱に、人々は唇を噛み、拳を握りしめた。
だが。
背後には「死」が迫っている。
腹の虫が、プライドを食い破るほどに鳴いている。
「……くそッ」
一人の男が、震える手で契約書を拾った。
アレクセイの幼馴染、トマだ。
彼は涙を流しながら、レオを睨みつけた。
「書いてやるよ……! 書けばいいんだろ! パンをくれぇッ!」
トマが叫び、指を噛み切って、血判を押した。
それを皮切りに、堤防が決壊したように民衆が動き出した。
我先にと契約書を拾い、名前を書き殴る。
泣きながら。罵りながら。それでも「生」を選んで。
「……アレクセイ」
契約書の山ができる中、レオはようやく元相棒の方を見た。
「お前の母親も、サインさせたぞ」
見れば、アレクセイの母親も、契約書を胸に抱きながら、配給された黒小麦のパンを貪り食っていた。
「悪魔のパンだ」と泣きながら、それでも咀嚼を止められない。
その姿は、痛々しいほどに「人間」だった。
「……レオ。なんで俺を助けた」
アレクセイがうつむいたまま問う。
顔は泥と涙でぐしゃぐしゃだ。
「俺は、お前を裏切った。お前の金を突き返した。……なのに」
「勘違いするな。俺は『損切り』が嫌いなだけだ」
レオは、胸ポケットから何かを取り出し、放り投げた。
アレクセイが慌てて受け取る。
それは、彼が会長室に叩きつけていった「社員証」だった。
「お前には、先行投資した分がまだ残っている。……働いて返せ、土木事業部長」
「っ……!」
アレクセイが社員証を握りしめる。
そのプラスチックの感触が、彼を現実に引き戻した。
「……了解だ、クソ上司!!」
アレクセイは立ち上がり、ヘルメット(どこからか拾ってきた)を被り直した。
その目には、迷いはなかった。
「おい野郎ども! 並べ! 列を乱すな! サインした奴から順に、俺が配給してやる!」
「アレクセイ! 俺のも頼む!」
「押すな! 順番だ!」
現場監督の指揮により、暴徒が急速に「組織」へと戻っていく。
それを見届けたレオは、瓦礫のように転がっている聖女エレナを見下ろした。
「……さて、聖女殿」
「殺して……。私にはもう、生きる資格なんて……」
「甘えるな」
レオは彼女の胸元に、一枚の契約書を突きつけた。
「死んで逃げられると思うなよ? 貴女には、貴女を信じた数万人の命を背負う義務がある。……私の商会で働き、その希少な魔力を提供してもらう。一生かけて償え」
エレナは目を見開き、そして震える手で契約書を掴んだ。
それは、彼女が初めて知った「責任」という重みだった。
レオは、積まれた黒小麦の袋から、こぼれ落ちたパンを拾い上げた。
魔界の穀物で作られた、石のように硬く、黒いパン。
一口かじる。
ジャリ、という嫌な音がした。
苦い。焦げ臭い。そして、喉に詰まるような重さがある。
「……不味いな」
だが、これが「現実」の味だ。
口の中で溶けて消える奇跡とは違う。
血と肉になり、明日を生きるためのエネルギーになる味だ。
「ガルド、シルヴィ。撤収はなしだ。ここに『ルメラ支店』を再建するぞ」
「へいよ、ボス!」
「まったく、人使いが荒いですね」
空を見上げると、厚い雲の隙間から、朝日が差し込み始めていた。
その光は、聖女の楽園を焼き払い、商人の支配する「騒がしく、苦しく、けれどたくましい日常」を照らし出していた。




