第4章 第6話:枯渇する奇跡、そして「最初の餓死者」
■ 地下深度12,000メートル『地獄の回廊』
「止まるんじゃねえぞ! タイヤが溶けるまで回せッ!!」
オークの将軍ガルドの怒号が、灼熱の洞窟に轟いた。
そこは、地上の常識が通用しない世界だった。
頭上には焦げ茶色の岩盤、足元数メートル下には、ドロドロと脈打つ紅蓮のマグマが流れている。
気温は摂氏80度。
防護魔法をかけなければ、肺が焼けて即死するほどの焦熱地獄だ。
「ガ、ガルドさん! 3号車の冷却水が限界です! エンジンが悲鳴を上げてやがる!」
ドワーフの運転手が、汗と煤にまみれながら絶叫する。
彼らが駆るのは、レオナルド重工が開発した『全地形対応型・魔導装甲トレーラー』。
その荷台には、魔界で買い付けた、殻の硬い「黒小麦」が満載されていた。
「構わねえ! オーバーヒートしたら人力で押せ! ……俺たちが止まったら、地上の連中は全滅だぞ!」
ガルドは運転席の窓から身を乗り出し、後続の車列を睨みつけた。
総勢50台の輸送部隊。
かつて人間と敵対していた魔族たちが、今はその人間を救うために、命がけでハンドルを握っている。
「(へっ、笑える話だぜ)」
ガルドは汗を拭った。
地上では「聖女」が涼しい顔でパンを配っている。
だが、その裏で、泥だらけの「悪魔」たちが、本当の食い物を運んでいる。
どちらが正義かなどどうでもいい。
ただ、会長の言葉が、ガルドの魂に火をつけていた。
『ガルド。誰も気づかなくていい。感謝もされなくていい。だが、餓死者は出すな。……それが俺たちの仕事だ』
「……了解だ、ボス。この積み荷は、絶対に腐らせねえ!」
ドオォォン!!
マグマが爆ぜる音と共に、黒鉄の車列は地獄の底を突き進んでいく。
希望という名の、不格好な小麦を載せて。
◇
■ 北大陸・ルメラ地方『聖女の広場』
一方、地上は「異常な寒さ」に包まれていた。
季節は夏のはずだ。
だが、ルメラ地方の空は鉛色に曇り、吐く息が白くなるほどの冷気が漂っていた。
「……寒いな」
元勇者アレクセイは、配給の列に並びながら、薄いシャツの襟をかき合わせた。
村人たちも震えている。
だが、誰一人として「薪を拾いに行こう」とはしない。
そんなことをしなくても、聖女エレナが魔法で暖めてくれると信じているからだ。
「さあ、お食べなさい。神の恵みです」
広場の中央。
エレナの声は、以前よりも掠れていた。
彼女の姿を見て、アレクセイは胸の奥がざわつくのを感じた。
(……聖女様、あんなに痩せていたか?)
かつて白磁のようだった肌は、今は土気色に変色し、首筋には青黒い血管が浮き出ている。
彼女が杖を振るたびに、その体から「何か」が削り取られていくのが、素人目にもわかった。
ボコッ……ボコッ……。
空間から出現するパンの量も、明らかに減っていた。
以前は山のように積まれていたのが、今は小高い丘程度だ。
「おい、今日のパン、硬くねえか?」
前の列に並んでいた男――幼馴染のトマが、受け取ったパンを齧りながら文句を言った。
「なんか……砂みたいな味がするぞ」
「贅沢言うなよトマ。いただけるだけでありがたいだろ」
アレクセイは嗜めたが、自分も一口食べて、眉をひそめた。
味がない。
いや、違う。栄養がスカスカなのだ。
まるで、出がらしの茶葉を固めたような、虚しい食感。
「……母ちゃん。大丈夫か?」
隣にいる母親を見る。
彼女は、パンを大事そうに胸に抱えていたが、その目はうつろだった。
頬がこけ、目がギョロリと大きくなっている。
栄養失調だ。
毎日パンを食べているのに、日に日に痩せていく。
「ああ、平気だよアレクセイ。……聖女様のパンは、心が満たされるからねえ」
母親は笑った。だが、その笑顔は骸骨が笑っているように見えた。
(おかしい。絶対におかしい)
アレクセイの中で、封印していた「勇者の勘」が警鐘を鳴らした。
気温の低下。
不味くなるパン。
痩せ細る人々。
そして、今にも倒れそうな聖女。
これは「楽園」じゃない。
レオが言っていた通り、緩やかな「処刑場」なんじゃないか?
『タダで餌を与えられ、働く必要もなくなった人間は、家畜になるんだよ』
レオの冷徹な声が蘇る。
あの時、俺は反発した。
だが、今のこの光景は、まさに――
「ゴホッ!!」
突然、広場に不吉な音が響いた。
エレナだ。
彼女が口元を押さえ、膝から崩れ落ちたのだ。
「聖女様!?」
側近の修道女たちが駆け寄る。
エレナの手の隙間から、鮮血が滴り落ち、白い修道服を赤く染めていく。
「だ、大丈夫です……。まだ、いけます……」
エレナは震える手で杖を握り直し、再び魔法を発動しようとした。
だが。
ブシュッ。
杖の先から出たのは、光り輝くパンではなかった。
ドロドロとした、黒い汚泥のような液体だった。
「……え?」
最前列にいた子供が、泥を浴びて呆然とする。
広場が静まり返った。
「あ、あれ? パンは?」
「聖女様? お腹空いたよ、パンちょうだいよ」
ざわめきが広がる。
エレナは必死に杖を振る。
だが、出るのは泥と、冷たい風だけ。
大地から吸い上げるべきマナが、完全に枯渇したのだ。
「申し訳……ありません……。少し、休めば……」
エレナが糸の切れた人形のように倒れ伏す。
その瞬間。
信者たちの目に宿っていた「信仰」が消え、もっと原初的な、恐ろしい色が宿った。
「飢え」だ。
「おい! ふざけんな! 俺の分はどうなるんだ!」
男の一人が叫んだ。
それを合図に、パニックが爆発した。
「パンを出せ! 隠してるんだろ!」
「聖女ならなんとかしろよ!」
「腹が減ったんだよォッ!!」
数千人の群衆が、倒れたエレナに向かって殺到する。
感謝も、崇拝もない。
あるのは、餌を求める獣の本能だけ。
「やめろ! みんな落ち着け!」
アレクセイは剣を抜き(持っていなかったことに気づき)、素手で人波を押し返そうとした。
だが、多勢に無勢だ。
飢えた人間は、ゾンビよりもタチが悪い。
「どけよアレクセイ! お前、隠し持ってるんだろ!」
幼馴染のトマが、血走った目でアレクセイに殴りかかってきた。
その手には、石塊が握られている。
「トマ!?」
「よこせ! 俺は腹が減って死にそうなんだ!」
殴打の衝撃。
アレクセイは地面に転がった。
見上げると、母親が、他の老人と一欠片のパンを巡って取っ組み合いをしている。
髪を振り乱し、相手を噛みつき、獣のように咆哮する母。
「……嘘だろ」
アレクセイは絶望した。
これが、清貧な楽園の正体か?
金がない世界は、美しいんじゃなかったのか?
違う。
金がないからこそ、秩序が崩れた時、むき出しの暴力が支配するのだ。
レオは正しかった。
対価を払わず、誰かの犠牲(聖女の命)の上に成り立つ平和なんて、砂上の楼閣だったんだ。
「レオ……助けてくれ……!」
アレクセイの悲鳴は、暴徒の怒号にかき消された。
その時である。
鉛色の空が裂けた。
ズズズズズ……ッ!!
地響きと共に、広場の地面が隆起する。
転移魔法ではない。
物理的な、もっと乱暴な「掘削」だ。
ドオォォォンッ!!
巨大なドリルが地面を突き破り、黒鉄の塊が地上へと躍り出た。
レオナルド商会のマークが刻まれた、魔導装甲トレーラーだ。
運転席から、オークのガルドが身を乗り出し、拡声器で叫んだ。
『よう、腹ペコ共!! 餌の時間だぜぇぇぇッ!!』
荷台のカバーが外される。
そこには、山のように積まれた、黒く輝く小麦袋があった。
『ただし! タダじゃねえぞ!!』
ガルドがニヤリと笑い、一枚の羊皮紙を掲げた。
『ここから先は「レオナルド商会」のシマだ! パンが食いたきゃ、その石ころ(暴行)をやめて、ちゃんと「契約」しなッ!!』
地獄の底から届いた、悪魔の救援物資。
その圧倒的な「物量」の前に、暴徒たちはピタリと動きを止めた。




