第4章 第2話:悪魔の烙印
北の荒野、ルメラ地方。
転移ゲートを抜けた瞬間、私の革靴はぬかるんだ泥に沈んだ。
だが、私が顔をしかめたのは、靴が汚れたからではない。
「音」がなかったからだ。
数千人が暮らす鉱山街なら、本来あるべき轟音――ツルハシが岩を砕く音、精錬所の排気音、商人の怒号――が、完全に消滅している。
代わりに漂うのは、生温かい湿気と、何千人もの人間がただ呼吸し、排泄し、じっとしているだけの、家畜小屋のような有機的な臭気だった。
「……嘘だろ。ここ、本当に俺の村か?」
隣でアレクセイが呻く。
彼の視線の先には、錆びついた鍛冶場の前で、力なく座り込む男の姿があった。
「トマ! お前、トマだよな! 親父さんの跡を継いだんじゃなかったのか!」
アレクセイが男の肩を揺さぶる。幼馴染のトマだ。
だが、トマは虚ろな瞳をゆっくりと向けただけだった。その手は痩せ細り、かつて鉄を打っていた職人の筋肉は削げ落ちていた。
「……ああ、アレクセイか。お前も『配給』待ちか?」
「仕事はどうした! 炉の火が消えてるぞ!」
「仕事? なんでそんな辛いことしなきゃなんないんだ? 聖女様がいれば、座ってるだけで腹は満たされるのに」
トマは足元の小石を蹴った。
そこには、思考を放棄した者特有の、濁りきった幸福感があった。
「ハンマーは重いし、火は熱い。……ここはいいぞ、アレクセイ。何も考えなくていいんだ」
「トマ……」
アレクセイの手が力なく滑り落ちる。
私は黙ってその光景を見ていた。
これは怠惰ではない。人間の尊厳が溶かされているのだ。
私は踵を返し、人だかりの中心へと歩き出した。
広場の中央。泥にまみれたパンの山。
その頂点に、彼女はいた。
聖女エレナ。
映像で見るよりも遥かに小さく、そして儚かった。
透き通るような白い肌は、血管が浮き出るほど薄い。自身の生命力を魔力に変換し続けている証拠だ。
彼女は、まるで自分自身を薪にして、この巨大な集団を暖めているようだった。
「初めまして、聖女エレナ殿。私はレオナルド商会代表、レオナルドだ」
私は彼女の前に立ち、名刺を差し出した。
泥とボロ布の世界において、私の仕立ての良いスーツと磨かれた靴は、暴力的なまでの「異物」だった。
エレナは名刺を見つめ、そして悲しげに微笑んだ。受け取りはしなかった。
「……存じています。世界を『数字』で縛り付ける、悲しい方ですね」
「単刀直入に言おう。貴女の施しは、この地域を殺している。無償の供給は、地元の生産者を廃業に追い込み、彼らから自立する力を奪っている。……即刻中止し、適正な対価を設定したまえ」
私はビジネスの理屈を説いた。
だが、彼女の瞳には、私の言葉は何一つ映らなかった。
「対価? なぜですか? 神の愛は無限です。親が子に食事を与える時、代金を請求しますか?」
「貴女は神ではないし、彼らは子供ではない! 労働の対価として糧を得る、それが大人の尊厳だ!」
「労働は罰です。お金は鎖です。私は彼らを、その苦しみから解放してあげたいのです」
会話が噛み合わない。
彼女は狂っているのではない。あまりにも純粋に、「善意」だけで世界が回ると信じているのだ。
「……交渉の余地なしか」
私は懐から、一枚の金貨を取り出した。
商会が発行する、最高純度のポーション金貨。
私が人生をかけて築き上げた、信用の結晶。
「ならば、商談だ。貴女の『治癒魔法』という技術を、私が買おう。貴女は私の商会で働き、正規の給料を得て、その金で民にパンを買えばいい。そうすれば、農家も商人も、誰も犠牲にならずに済む」
私は金貨を彼女の前に掲げた。
夕日を反射し、黄金が鋭く輝く。
これ一枚で、一般的な家庭なら三ヶ月は暮らせる価値がある。
だが次の瞬間、エレナは喉を引きつらせ、悲鳴を上げた。
「ひっ……! やめてください!」
彼女は顔を覆い、後ずさった。
まるで、毒蛇や汚物を突きつけられたかのような、生理的な拒絶反応。
「穢れた光……! それは人の欲望を煽り、魂を腐らせる『悪魔の石』です! 私の前で、そんな汚らわしいものを見せないで!」
その悲鳴が、周囲の空気を凍りつかせた。
静かだった数千の民衆が一斉に立ち上がる。
彼らの目に宿っていた「虚ろな幸福」が、明確な「殺意」へと変わる。
聖女を否定する者は、自分たちの楽園を壊す侵略者だ。
「おい、聖女様を泣かせたぞ!」
「あの男だ! 俺たちから搾取しようとする商人は!」
「帰れ! 金持ちは帰れ!」
怒号が波のように押し寄せる。
そして、誰かが投げた石が、私の額を直撃した。
ゴッ。
鈍い音と共に、視界が赤く染まる。
激痛よりも、衝撃が思考を揺さぶる。
私が、金貨を提示しただけで、石を投げられる?
「会長!」
アレクセイが慌てて私を庇い、群衆の前に立ちはだかる。
「やめろ! あんたたち、何してるんだ! この人は俺の上司で……!」
「どきな、アレクセイ!」
群衆の最前列から、しゃがれた怒鳴り声が飛んだ。
痩せ細った、しかし鬼のような形相の老婆が、石を握りしめて立っていた。
アレクセイが凍りつく。
「……母ちゃん?」
アレクセイの母親だった。
かつて、息子からの仕送りを喜び、村一番の自慢だと言っていたはずの母親。
その彼女が今、息子に向けて石を構えている。
「この守銭奴め! 息子をたぶらかして、都会で薄汚い商売をさせて! 恥を知りなさい!」
「な……俺は、俺はみんなのために道路を作って……」
「黙れ! 聖女様がいれば道路なんていらない! 祈ればパンが手に入るんだ! 余計なことをするな!」
母親の叫びは、アレクセイの心をへし折るのに十分だった。
彼は膝から崩れ落ち、剣にかけた手が震えて動かない。
彼が必死に働いて稼いだ金も、作った道路も、ここでは「無駄な努力」として否定されたのだ。
私は額の血を拭いもせず、周囲を見渡した。
老人、女、子供。
誰もが私を憎悪の目で見ている。
私が提示した「自立」や「豊かさ」よりも、彼らは「飼育される安寧」を選んだ。
その事実は、どんな暴力よりも深く、私の商売人としての根幹を打ち砕いた。
(……負けた)
論理が通じない。利益が通用しない。
ここは市場ではない。狂信の檻だ。
「……立つんだ、アレクセイ」
「か、母ちゃんが……俺を……」
「ここにいたら、お前まで壊れる! 来い!」
私は呆然とするアレクセイの襟首を掴み、無理やり転移ゲートへと引きずった。
背中に浴びせられる、泥と石と罵声の雨。
「二度と来るな! 悪魔は出ていけ!」
ゲートが閉じる直前、私は見た。
エレナが、アレクセイの母親を優しく抱きしめ、「かわいそうに、悪魔に惑わされていたのですね」と頭を撫でているのを。
老婆は、聖女の腕の中で、うっとりと涙を流していた。
その光景は、どんな地獄よりもおぞましく、そして吐き気がするほど美しかった。




