第3.5章 第4話:アストライアの「鬼のコンプライアンス監査」
「……おい、そこの武神マルス」
冷徹な声が、繁忙期のカジノフロアに響いた。
呼び止められたのは、屈強な筋肉を持つ武神だ。彼は今、警備スタッフとして働いている。
「な、なんですかな、アストライア様……いえ、監査役」
マルスが引きつった笑みを浮かべる。
彼の目の前に立っているのは、レオナルド商会の制服を完璧に着こなし、片手に「黄金のバインダー」を持った女神アストライアだ。
「先ほどのお客様への対応、見ていましたよ。『負けた腹いせに暴れる客』を、貴方はどう処理しましたか?」
「ええ、ですから、つまみ出そうと……」
「『つまみ出す』? 力が強すぎます。お客様の腕に、全治3秒の打撲痕がついていました」
アストライアが眼鏡の位置を直す。
そのレンズの奥で、かつて世界を震撼させた「裁きの瞳」が光った。
「我々は『暴力』ではなく『サービス』を提供する組織です。荒れるお客様には、まず冷たいお水と、再来店を促すクーポン券を渡して笑顔で帰すこと。……マニュアル第8章3項に書いてありますね?」
「し、しかし! あいつは俺にツバを吐いたんですよ!?」
「だから何です? 貴方は神でしょう? ツバごときで動じるプライドなら、捨てなさい」
アストライアがバインダーをペンで叩く。
「減給10%。および、バックヤードでの『笑顔トレーニング』3時間を命じます」
「そ、そんなぁぁぁ……ッ!」
崩れ落ちる武神を冷ややかに見下ろし、アストライアは踵を返した。
彼女は、今の仕事に奇妙な充実感を覚えていた。
かつて彼女は、神々を「無欲な人形」にすることで秩序を保とうとした。
だが今は違う。
欲望にまみれ、自由に振る舞う神々を、「ルール(社内規定)」という首輪でコントロールする。
(……こちらの方が、よほど『管理』しがいがあるわね)
「あら、アストライア様。お疲れ様です」
通路の向こうから、商業神ヘルメスが歩いてきた。彼はスロットマシンの設定担当だ。
「ヘルメス。貴方、昨日の第3ホールの設定、勝率を0.5%下げましたね?」
「えっ」
ヘルメスの顔が凍りつく。
「利益率を上げるためか知りませんが……『公平性』を欠く搾取は、お客様の信頼を損ないます」
アストライアの手元で、バチバチと黄金の雷が弾けた。
「レオナルド会長の方針は『薄利多売』にして『長期依存』。貴方のやり方は、目先の利益に目がくらんだ三流の詐欺です」
「ひ、ひぃッ! 出来心なんです! お許しを!」
「裁定。……始末書100枚と、全フロアのトイレ掃除1週間」
「ギャアアアアアッ!!」
天罰という名の業務命令が下る。
アストライアはフッと息を吐き、眼鏡を押し上げた。
この無法地帯デパートで、秩序を守れるのは私だけ。
そう思うと、不思議と背筋が伸びる気がした。
「さあ、次は食品売り場の衛生チェックよ。……賞味期限切れの神酒を出している馬鹿がいたら、即座に消去にしてやるわ」
最強のお局様《監査役》の靴音が、今日も高らかに響く。
その背中は、女神時代よりも生き生きと輝いていた。




