第3.5章 第1話:ある水神の「はじめての敗北」
「……くだらん」
下級神エンリルは、ゴミ捨て場の隅で吐き捨てた。
彼は「清らかな湧き水」を司る神だ。
彼にとって、世界とは透明で、静止しており、予測可能なものであるべきだった。
だが、目の前では、同僚の神々が薄汚れたカードに熱狂している。
レオナルドとかいう人間が持ち込んだ「ブラックジャック」。
数字を21に近づける。ただそれだけの遊戯。
「おい、エンリル。お前もやってみないか? 『退屈』が消えるぞ」
顔見知りの火の神が、充血した目で手招きする。
エンリルは侮蔑の視線を向けた。
「断る。不確定な未来に一喜一憂するなど、知性の欠落した下等生物のすることだ」
「へっ、臆病風に吹かれたか? 『負ける』のが怖いんだろ?」
「……なんだと?」
ピクリ、とエンリルの眉が動いた。
全知全能に近い彼らにとって、「負ける(予測が外れる)」という経験は存在しない。
それは未知への恐怖であり、同時に――強烈な誘惑でもあった。
「いいだろう。一度だけだ。私の計算能力が、その紙切れごときに遅れを取るはずがない」
エンリルは、しぶしぶ席に着いた。
賭けたのは、指先ほどのわずかな神気。
配られたカードは『K』と『7』。合計17。
ディーラー(セレスティア)のオープンカードは『6』。
「(確率論的に、ディーラーはバーストする可能性が高い。ここはステイだ)」
エンリルは冷徹に判断した。
結果。
ディーラーが引いたカードは『5』と『Q』。合計21。
「ブラックジャック。……親の勝ちね」
チップが回収される。
エンリルは呆然とした。
負けた? 私が? 確率の裏をかかれて?
「……くっ、たまたまだ。もう一回だ」
2回戦。負け。
3回戦。負け。
4回戦。……勝利。
「あ……」
勝った瞬間、背筋に電流が走った。
失ったチップが倍になって戻ってくる。
その時、エンリルの脳内で、数万年間眠っていた神経回路が焼き切れた。
「(なんだ……この『熱』は?)」
心臓がないはずの胸が早鐘を打っている。
喉が渇く。指先が震える。
予測できない未来が確定し、自分のモノになる瞬間の、暴力的なまでの全能感。
「透明な水など……もういらん」
エンリルは、自分の腕をテーブルに叩きつけた。
「次は『右腕』を賭ける! カードをよこせ! もっとだ! もっと濁流のようなスリルをよこせ!!」
その日。
清らかな水の神は死に、泥にまみれたギャンブラーが誕生した。
彼は知らなかった。
その渇きこそが、レオナルドの撒いた「猛毒」であることを。




