第3章 第6話:新・リブランディング
ワインの赤と、欲望の黒に染まった白亜の回廊。
その中心で、秩序の女神アストライアは膝をついていた。
「……あり得ない」
彼女は震える手で、足元の床に散らばるワインの破片を拾い上げた。
周囲では、かつて高潔だった神々が、肉を食らい、酒を浴び、嬌声を上げている。
その光景は、彼女が数万年かけて守り抜いてきた「静謐なる天界」の死を意味していた。
「なぜだ……。欲望は穢れだ。不純物だ。それを取り除き、完全なる世界を作ったはずなのに……なぜ、彼らは『汚れ』の方を選ぶ……!」
彼女の嘆きは、誰にも届かない。
ただ一人、コツ、コツと革靴の音を響かせて近づいてくる男を除いて。
「簡単なことですよ、女神様」
レオナルドは、アストライアの前に立ち、ハンカチを差し出した。
「貴方の作った世界は清潔すぎた。……『無菌室』と同じです」
「無菌室……?」
「ええ。菌もウイルスもない世界は美しい。ですが、そこで生物は生きられない。我々生命体は、多少の雑菌や汚れ――すなわち『欲望』や『無駄』がないと、息が詰まって死んでしまうのです」
レオナルドは、酔い潰れて眠る下級神を指差した。
「見てください。彼らの寝顔を。貴方の管理下にあった時より、ずっと幸せそうだ」
アストライアは唇を噛んだ。
反論できなかった。
かつて彫像のように動かなかった神々が、今は泣き、笑い、怒り、そして満ち足りて眠っている。
その「生気」は、皮肉にも彼女が排除し続けた「不純物」によってもたらされたものだ。
「……殺せ」
アストライアは、レオナルドを睨み上げた。
その瞳には、まだ理性の光が残っている。
「私は秩序の化身。この混沌を認めるわけにはいかない。私を消去し、貴様が新たな神になればいい」
「お断りですね」
レオナルドは即答し、手を差し伸べた。
「商人は『殺す』ことより『活かす』ことを考えます。……アストライア、貴方をスカウトしたい」
「は……?」
「この世界は、これから巨大な『エンターテインメント・リゾート』に生まれ変わります。そこには酒もギャンブルもありますが、無法地帯になっては困る。客が安心して遊ぶためには、厳格な『ルール』と『セキュリティ』が必要だ」
レオナルドはニヤリと笑った。
「『欲望』というエンジンには、『秩序』というブレーキが必要なんです。……私の会社に来て、そのブレーキ役(監査役)をやってくれませんか?」
アストライアは呆然とした。
自分を否定し、打ち倒した男が、今度は自分を「必要だ」と言っている。
混沌の中に秩序を組み込む。
それは彼女が考えもしなかった、清濁併せ呑む「第三の道」だった。
「……私が、欲望の片棒を担げと言うのか」
「いいえ。欲望が暴走しないように、監視してほしいのです。貴方にしかできない仕事だ」
アストライアは、差し出された手を見つめた。
その手は、泥と油と、そして人間の温かみに満ちていた。
彼女は迷い、葛藤し、そして深いため息をついた。
もし自分が消えれば、ここは完全な無法地帯になるだろう。
ならば、泥にまみれてでも、最後に残った「秩序」を守り続けるのが、女神の役割かもしれない。
「……給料は、高いのでしょうね」
彼女は、おずおずとその手を握り返した。
「ええ。世界一高く買わせてもらいますよ」
レオナルドが強く手を引く。
女神が立ち上がった瞬間、世界が震えた。
「よし! これより『神界リブランディング計画』を発動する!」
レオナルドが指を鳴らす。
地下で溜め込んでいた莫大な「神気」が、一気に開放された。
ズズズズズズッ……!!
白一色だった神殿が、光の粒子に包まれて変形していく。
冷たい石柱は、温かみのある大理石とゴールドの装飾へ。
無機質な広場は、噴水と庭園が広がる憩いの場へ。
空には人工の太陽と星空が描かれ、心地よいBGMが流れ始める。
そこに出現したのは、ただの遊技場ではない。
あらゆる快楽、美食、芸術が集約された、全宇宙最高峰の『神域デパートメント・ストア』だ。
「な、なんだこれは……」
アストライアが絶句する。
かつての無機質な天界が、洗練されたラグジュアリーな空間へと生まれ変わっていた。
「ようこそ、レオナルド・エコノミック・グループ『神界本店』へ」
レオナルドは、眼下に広がる新生・神界を見下ろした。
目覚めた神々が、新しい店舗に列を作り、歓声を上げている。
その横には、シルヴィとセレスティア、そしてスーツ姿に着替えたアストライアが並ぶ。
「これで、下界の生産と、天界の消費が繋がった。……世界経済の完成だ」
レオナルドは、胸元のポケットから一枚のコインを取り出した。
あの、ボロボロの銅貨だ。
それを空に掲げると、人工太陽の光を浴びて、金貨よりも眩しく輝いた。
「(見てるか、昔の俺。……お前の拾った銅貨一枚が、神様を買い取ったぞ)」
彼は銅貨を弾き、ポケットにしまった。
商人の戦いにゴールはない。
だが、今日のところは――この美しき「繁盛」を祝って、勝利の美酒に酔うのも悪くないだろう。
「さあ、開店の時間だ! お客様を笑顔にするぞ!」
『『『いらっしゃいませーッ!!』』』
神々と魔族と人間。
種族を超えた従業員たちの声が、新しい世界に高らかに響き渡った。
くっころー!
本当にこのためだけに、
これを使いたかった。
幸せです。




