第3章 第5話:神界に渇きを
神界上層部。白亜の回廊。
そこはかつて、塵一つない「静寂」が支配する聖域だった。
だが今、その風景は一変していた。
「……はぁ、はぁ……」
「喉が……焼けるようだ……」
神々が、壁に手をついて喘いでいる。
彼らの美しい額には脂汗が滲み、陶器のようだった肌は土気色にくすんでいる。
病気ではない。
これは「消耗」だ。
ここ数日、地下から流れてくる「噂」――スリル、快楽、ギャンブルという未知の刺激――が、彼らの精神を侵食していた。
「知りたい」「体験したい」「もっと刺激を」。
その強烈な精神活動が、彼らの体内にあった神聖なエネルギーを急速に燃焼させたのだ。
完全なる静止から、急激な全力稼働へ。
その反動で、今の彼らは生まれて初めての**「枯渇(ガス欠)」**に苦しんでいた。
◇
神殿の最奥。
秩序の女神アストライアは、玉座からその惨状を見下ろし、戦慄していた。
「なぜだ……。なぜ私の管理する神々が、このように衰弱している……」
原因がわからない。
彼女の「秩序」の辞書には、「消耗」という概念が存在しないからだ。
その時。
ザザッ……ザザザッ……!
神殿の上空、空そのものがスクリーンとなって、巨大な映像が投影された。
『――ご機嫌よう。顔色が悪いですね、上界の皆様』
「なっ……!?」
アストライアが息を飲む。
空に映し出されたのは、仕立ての良いスーツを着こなし、不敵な笑みを浮かべた男。
下層へ捨てたはずの「異物」、レオナルドだった。
『苦しいでしょう? 喉が渇くでしょう? それは当然です。貴方たちは今、数万年ぶりに「生きている」のですから』
レオナルドの声が、神界全土に響き渡る。
喘いでいた神々が、縋るように空を見上げる。
『以前、貴方たちは私のワインを「不要だ」と言って捨てた。……あの時は正しかった。動かない機械に、燃料は必要ありませんからね』
レオナルドが画面越しに、指を突きつけた。
『だが今は違う! 貴方たちは地下からの熱狂に当てられ、心を動かし、魂を燃やした! エネルギーを使えば、腹が減る! 喉が渇く! それが生命の理だ!』
「貴様……まさか、そのために……!」
アストライアが愕然とする。
この男は、ただ商品を売りに来たのではない。
まず**「需要(空腹)」を人工的に作り出し、顧客を飢えさせてから**、乗り込んできたのだ。
『これより、レオナルド商会は、アストライア様に対し、神界経営権の【TOB(株式公開買付)】を行います』
レオナルドが指を鳴らす。
背後の『アイテムボックス』が開放される。
そこに見えたのは、金銀財宝ではない。
氷水で冷やされた、大量のヴィンテージ・ワインと、ジューシーな肉塊だ。
『アストライア様が提供できるのは「清貧な秩序」だけ。今の飢えた貴方たちを、それで満たせますか?』
神々がゴクリと喉を鳴らす。
今の彼らにとって、高潔な教えなどよりも、目の前の一滴の水の方が遥かに価値がある。
『私を選べば、この渇きを癒やしましょう。「配当」として、無限の美食と快楽を約束します』
「だ、騙されるな! そんな下等な物質に屈してはならん!」
アストライアが叫ぶ。
だが、その叫びはあまりに虚しい。
『さあ、決断の時です! 今なら「買収プレミアム」として、全神々に最高級ワインを一本プレゼント! ……まずは、乾いた喉を潤してください』
レオナルドの声に合わせ、空から無数の「影」が降ってきた。
アイテムボックスから投下された、数万本のワインボトルだ。
パリーンッ!
一本のボトルが床で砕けた。
芳醇な葡萄の香り。
それが、飢餓状態にあった神々の鼻腔を刺激した瞬間――理性という最後のタガが外れた。
「み、水だ……!」
「よこせ! 俺のだ!」
「あああッ! 美味い! 染み渡るッ!」
一人の神が、地面にこぼれたワインを啜った。
その顔に浮かんだのは、恍惚。
枯れた大地に雨が染み込むような、圧倒的な充足感。
それを見た他の神々が、雪崩を打ってワインに殺到する。
「やめろ……浅ましい真似はやめろおおおおッ!」
アストライアの制止など、誰も聞いていない。
彼らは秩序を捨てたのではない。
**「生存本能」**に従ったのだ。
レオナルドによって植え付けられた、抗えない生存本能に。
画面の中のレオナルドが、グラスを傾けながら冷徹に微笑んだ。
『これが商売の基本ですよ、女神様。……喉が渇いていない人間に、水は売れない。だから、まずは走らせて、疲れさせて、喉をカラカラにさせるんだ』
彼はアストライアを見下ろし、宣告した。
『過半数の取得を確認《マジョリティ・確保》。……勝負ありですね』
神々は今、ワインを貪りながら、口々にレオナルドの名を讃えている。
それは信仰ではない。
「供給者」への絶対的な服従だ。
商人は、神を倒したのではない。
神を「消費者」へと堕とし、支配したのだ。




