第3章 第2話:ゴミ捨て場の経営戦略
腐った臭いがした。
生ゴミの臭いではない。もっと根源的な、概念が腐敗してドロドロに溶けたような、甘ったるくも鼻をつく「停滞」の臭気だ。
「……ッ、ごほっ、ごほっ!」
私は瓦礫の山から這い出した。
全身が痛む。仕立ての良いスーツはあちこちが裂け、泥と油のような黒い液体で汚れていた。
「会長! ご無事ですか!」
「ボス!」
瓦礫の陰から、シルヴィとセレスティアが駆け寄ってくる。
二人とも無事だ。魔族特有の頑丈さに助けられたらしい。
だが、その顔色は最悪だった。
「ここ……どこなの? 空気が澱んでいて、息をするだけで魔力が削がれていくわ」
セレスティアが口元を覆う。
私は周囲を見渡した。
薄暗い。
頭上遥か彼方に、微かな白い光の切れ目が見える。あそこが「上界」なのだろう。
私たちは、神界の底の底――文字通りの「掃き溜め」に落とされたのだ。
「……アイテムボックス」
私は震える手で空を掴んだ。
反応なし。
あの無機質なエラー音すらしない。
私の身体の一部だったはずの「無限の倉庫」は、神経ごと切断されたかのように完全に沈黙していた。
「開け……開いてくれよ……」
私は何度も空を掻いた。
金貨8000億枚。
最高級のエリクサー。
伝説級の武具。
私が積み上げてきた「力」のすべてが、あの中にあるんだ。
それがなければ、私はただの……ただの無力な人間じゃないか。
「会長、もうやめてください……!」
シルヴィが私の手首を掴んだ。彼女の目には涙が溜まっている。
惨めだ。
部下にこんな顔をさせるなんて。
だが、喪失感が私の思考を白く塗りつぶしていく。
金がない。商品がない。
商人が、売るものを失ったら、それは死と同じだ。
「……おい、そこの新入り」
不意に、砂利を踏む音がした。
ゴミ山の影から、何かが現れた。
それは「老人」のようだった。
ボロボロの布を纏い、痩せこけた身体。肌は土気色で、今にも崩れ落ちそうなほど存在が希薄だ。
だが、その背中には、折れた片翼が生えていた。
落ちぶれてはいるが、神だ。
「ここは『忘却の墓場』だ。上界で不要になったガラクタと、信仰を失った神々の終着駅さ」
老神は濁った目で私を見下ろした。
「哀れなもんだな、人間。ここに来れば、二度と上には戻れん。我らのように、長い時間をかけて『無』に還るのを待つだけだ」
「……待つだけ?」
「そうだ。ここは何も起きない。何も変わらない。ただ朽ちていくだけの……永遠の退屈な牢獄だ」
老神は興味なさげに欠伸をし、ゴミ山に寝転がった。
その周囲には、同じように死んだ目をした神々が、ボロ雑巾のように転がっている。
動く気力すらないのだ。
「ふざけるな……」
私は膝をついた。
終わりだ。
魔王軍を従え、国を買収し、世界経済を支配した私が、こんな場所で朽ち果てるのか?
ゴミの中で?
「……立ちなさいよ」
鋭い声が、鼓膜を打った。
ハッとして見上げると、セレスティアが私を見下ろしていた。
その瞳は、この澱んだ空気の中でも、決して光を失っていなかった。
「な、なんだ、セレスティア……」
「立ちなさいって言ってるのよ! この大馬鹿野郎!」
バチンッ!!
乾いた音が響いた。
頬に熱い痛みが走る。
彼女に平手打ちされたのだと気づくのに、数秒かかった。
「私はね……! 誇り高い魔界を、あなたに売ったのよ! それはあなたが、魔王の私より強いと思ったからよ! 『商売』という力で、世界を変えられると信じたからよ!」
彼女は私の胸ぐらを掴み、引き上げた。
「それが何? 金がない? スキルがない? だからどうしたっていうの! あなたが私に語った『商人魂』ってのは、アイテムボックスの中にしか入ってない安物だったわけ!?」
「……ッ」
言葉が出なかった。
図星だった。
私はいつの間にか、自分の能力に依存していた。
「アイテムボックスがあるから商人」なのではない。
「商人だから、アイテムボックスを使いこなせた」はずだ。
順序が逆だ。
「会長」
シルヴィが、ハンカチで私の汚れた顔を拭ってくれた。
「私たちがついています。……ゼロになったわけじゃありません。私とセレスティア様という『優秀な社員』は、まだ残っています」
二人の視線。
それは私を信じ、私に賭けてくれた者たちの目だ。
ドクン。
心臓が強く脈打った。
そうだ。
私はまだ、破産していない。
私の脳みそ(資本)は、ここにある。
「……悪かった。目が覚めたよ」
私は大きく息を吐き出し、頬の痛みを噛み締めた。
そして、周囲を見渡した。
先ほどまでは「ゴミの山」にしか見えなかった光景。
だが、商人の眼を通して見ると、世界が変わった。
足元に転がっている錆びた鉄くず。
いや、これは『雷神の戦斧』の残骸か? 金属としての純度はオリハルコンを超えている。
あそこに捨てられているボロボロの書物。
『失われた神話』の原典か? 情報としての価値は計り知れない。
「(……あるじゃないか)」
私はゴミ山の中に手を突っ込んだ。
黒い油にまみれながら、一つの「ガラクタ」を引きずり出す。
半分砕けた、水晶の板だ。
「おいおい、何をする気だ? そんなゴミ、何の役にも立たんぞ」
寝転がっていた老神が、嘲笑うように言った。
「ゴミ?」
私はニヤリと笑った。
久しぶりに、口の端が自然と吊り上がる感覚があった。
「いいえ、お客様。これはゴミではありません」
私は水晶の板を袖口で磨いた。
微かに魔力が残っている。
構造は単純だ。映像を記録し、再生するだけの古代の神器。
「これは『素材』です」
私はセレスティアに振り返った。
「セレスティア、君の魔力でこの水晶を再起動できるか? あと、そこの雷神の斧から微弱電流を抽出してくれ」
「え? ええ、それくらいなら簡単だけど……何を作る気?」
「シルヴィ、君はそこの書物を解読してくれ。面白い『ルール』や『物語』を探すんだ」
私はジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツの袖をまくり上げた。
思考が加速する。
アイテムボックスがないなら、現地調達すればいい。
金がないなら、代わりの通貨を作ればいい。
需要がないなら?
「暇を持て余している神様に、最高の『暇つぶし』を売ってやるんだよ」
数時間後。
薄暗い墓場の隅で、奇妙な光景が生まれていた。
私が作ったのは、水晶板を加工した盤面と、様々なガラクタを削って作った駒やカード。
そして、単純だが中毒性の高い「ルール」だ。
私は老神の前に座り込んだ。
「なぁ、じいさん。ただ寝て待つだけじゃ退屈だろう?」
「……なんだ、人間」
「一つ、賭けをしないか」
私は手製のカードをシャッフルし、鮮やかな手つきで広げた。
バッ、とカードが舞う音に、周囲の死んだような神々がピクリと反応する。
「このゲームで私が勝ったら、あんたの持っているその『折れた翼の羽』を一枚もらう。素材として使えそうだからな」
「ほう? で、ワシが勝ったら?」
「私のこの『若くて生きのいい寿命』を、1年分やろう」
ざわり、と空気が揺れた。
寿命。
それは永遠を生きる彼らにとって、最も縁遠く、しかし最も「生」を感じさせるエネルギーだ。
「……寿命だと? 人間風情が、神に寿命を譲渡できるのか?」
「セレスティアの契約魔法を使えば可能だ。どうする? 失うものは何もない。勝てば、久しぶりに『若さ』という美酒が味わえるぞ」
老神の濁った目に、微かな――本当に微かな光が灯った。
それは「欲」の種火だ。
「……いいだろう。その退屈しのぎ、乗ってやる」
老神が身を起こした。
それを見て、周りの神々もゾロゾロと集まってくる。
「なんだなんだ」「賭け事か?」「寿命を賭けるだと?」
観客は集まった。
商品は用意した。
対価は設定された。
私はカードを配りながら、心の中で高らかに宣言した。
ここが、私の新しい店舗だ。
このゴミ溜めから、あの上界の気取った女神をひっくり返す、大逆転劇を始めてやる。
「さあ、張った張った! 神様相手の真剣勝負、開幕だ!」




