第2.5章 第4話:魔王城の玉座は硬かったけれど、社長室の高級チェアは人をダメにするわね
「……ああ、もう! なんでこの数値が合わないのよ!」
私は持っていた高価な万年筆を、デスクの上に放り投げた。
カラン、と乾いた音が、レオナルド商会・最上階の会長室に響く。
私の名前はセレスティア。
かつては魔界を統べる第13代魔王として、人間どもに恐れられていた存在だ。
だが今は、レオナルド商会の「魔界支社長」兼「社外取締役」という、なんだかよくわからない肩書で、この書類の山と格闘している。
「どうした、セレスティア。眉間の皺がすごいぞ。魔王の威厳が台無しだ」
向かいのデスクから、憎たらしい男――レオナルドが声をかけてきた。
彼は優雅に紅茶を啜りながら、涼しい顔でモニターを眺めている。
「誰のせいだと思ってるのよ、ボス。あなたが『魔界のレアメタル輸出計画』なんて無茶な案件を投げてくるからでしょ?」
私は眼鏡の位置を直し、彼を睨みつけた。
「オーク族の労働基準法に、ガーゴイル便の空輸ルート調整、それにドワーフ族との価格交渉……。魔王やってた頃より忙しいわよ」
「光栄だな。世界を滅ぼすより、世界を豊かにする方が手間がかかるものさ」
レオは悪びれもせずに笑う。
この男はいつもこうだ。
無理難題を涼しい顔で押し付けてくる。そして腹が立つことに、私が文句を言いながらもそれを完璧にこなすことを知っている。
「ほら、糖分補給だ。頭を使ったら甘いものが必要だろう?」
レオが小箱を滑らせてきた。
開けると、王都で人気のパティスリーの『特製マカロン』が並んでいた。
宝石のようにカラフルで、甘い香りが漂う。
「……買収工作のつもり?」
「福利厚生だよ。優秀な役員へのね」
私は溜息をつき、フランボワーズのマカロンを一つ摘んだ。
サクッとした食感の後に、甘酸っぱいクリームが口いっぱいに広がる。
「……んっ」
美味しい。
悔しいけれど、美味しい。
魔界には、こんな繊細な菓子はなかった。あるのは、大味な肉料理と、泥のように苦い酒だけだった。
私はマカロンを味わいながら、背もたれに身体を預けた。
この椅子――人間界の匠が作った最高級オフィスチェアは、まるで雲の上に座っているかのように身体を包み込んでくれる。
魔王城にあった、あの冷たくて硬い黒曜石の玉座とは大違いだ。
(……堕落したわね、私も)
ふと、昔のことを思い出す。
薄暗い城の奥で、来るはずのない勇者を待ち続ける日々。
退屈で、孤独で、そして常に「部下の飢え」という重圧に押し潰されそうだったあの日々。
それに比べて、今はどうだ。
忙しい。目が回るほど忙しい。
朝から晩まで数字を追いかけ、各国の要人と腹の探り合いをし、部下のオークたちから「社長! ボーナスあざっす!」と感謝される。
毎日が戦いだ。
けれど、そこには血の臭いはない。
あるのは、充実感という名の心地よい疲労だけだ。
「……ねえ、レオ」
「ん?」
「私、思うのよ。世界征服なんて、コスパの悪いこと、よくやってたなって」
私が言うと、レオは目を丸くし、それから可笑しそうに肩を震わせた。
「気づいたか。そうだよ、戦争なんて一番儲からない事業だ」
「ええ。人間を殺して土地を奪うより、人間に商品を売って金を巻き上げる方が、ずっと効率的で……楽しいわ」
私は二つ目のマカロン(ピスタチオ味)に手を伸ばした。
「それに、ここからの眺めも悪くないしね」
窓の外には、王都の煌びやかな夜景が広がっている。
かつては焼き尽くそうとしていた光。
今は、私たちが管理し、動かしている光。
「気に入ってくれたなら何よりだ。……これからも頼むぞ、相棒」
相棒。
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
かつての宿敵が、今は背中を預けられるビジネスパートナー。
数奇な運命だが、悪くない。
「……ふん。口が上手いんだから」
私は照れ隠しに、わざと冷たい声を出した。
「勘違いしないでよね。私はまだ、あなたの全財産(人質)を狙ってるんだから。隙を見せたら、この会社ごと乗っ取ってやるわ」
「ははは、怖い怖い。じゃあ、乗っ取られないように、もっと稼がないとな」
レオは楽しそうにキーボードを叩き始めた。
私も眼鏡を押し上げ、再び書類に向き合う。
夜は長い。
残業代は高い。
そして、このデスクの隣には、世界一優秀で、世界一性格の悪いボスがいる。
魔王の余生としては、まあ、上出来すぎるくらいかもしれないわね。




