第2.5章 第3話:Sランクの聖剣より、Sランクのスコップの方が重いと知った日
雨が降っていた。
冷たい秋雨が、泥にまみれた作業着に染み込んでくる。
「くそっ……重えな……」
俺は泥濘の中で、スコップを握りしめていた。
柄は滑りやすく、手のひらのマメが潰れてヒリヒリと痛む。
すくい上げた土砂の重さは、せいぜい数キログラムだ。
かつて俺が振り回していた『聖剣エクスカリバー』よりも、物理的な重量はずっと軽いはずだ。
だが、今の俺には、このスコップが山のように重く感じる。
「おいアレクセイ! 腰が高いぞ! それじゃ腰椎やるって言っただろ!」
現場監督のオーク、ガルドさんの怒号が飛ぶ。
俺は反射的に「はいッ!」と叫び、体勢を低くした。
俺の仕事は、王都から隣町へと続く街道の舗装工事だ。
レオナルド商会が魔王軍(現・レオナルド建設)を使って進めている「大陸ハイウェイ計画」の末端現場である。
かつての俺なら、こんな仕事は鼻で笑っていただろう。
『道なんて、俺の剣技で森ごと切り開けばいい』と。
だが、破壊するのは一瞬でも、人が安全に通れる道を作るのがどれほど大変か、俺は何も知らなかった。
「……勇者様が、泥遊びですか。似合いませんわね」
横で砂利を運んでいたミリアが、皮肉っぽく笑った。
かつての聖女も、今は髪を後ろで束ね、顔に泥を跳ねさせながらネコ車を押している。
「うるせえ。……給料分は働く。それだけだ」
俺はぶっきらぼうに返し、スコップを地面に突き立てた。
あの日。
レオに全てを奪われ、国すらも買収されたあの日。
俺は絶望した。
自分は特別な存在だと思っていた。
だが、俺から「勇者」という肩書と装備を剥ぎ取ったら、後に残ったのは、世間知らずで無力な、ただの若造一人だった。
『働け。働かざる者、食うべからずだ』
レオの冷たい言葉が蘇る。
悔しかった。殺してやりたいほど憎かった。
だが、空腹には勝てなかった。
ザクッ、ザクッ。
土を掘る音が、雨音に混じる。
最初はハンバーグのためだった。
だが、一ヶ月、二ヶ月と続けるうちに、不思議な感覚が芽生えてきた。
俺たちが敷いた石畳の上を、馬車が通る。
俺たちが埋めた穴の上を、子供たちが走る。
『ありがとう、兄ちゃんたち! おかげで隣町まで野菜を売りに行けるよ!』
昨日、通りがかりの農夫に言われた言葉だ。
その時、俺は言葉に詰まった。
勇者時代、俺は数え切れないほどの感謝を受けた。「世界を救ってください」と。
だが、それは「勇者という偶像」に向けられたもので、俺自身に向けられたものではなかった気がする。
でも、昨日の「ありがとう」は違った。
俺が汗水流して作った「道」に対する、具体的な感謝だった。
(……悪くねえな)
俺は汗を拭った。
魔物を一匹殺すより、水たまりを一つ埋める方が、誰かの役に立っている実感があるなんて。
皮肉な話だ。
「よし、本日の作業終了! 撤収!」
ガルドさんの合図で、俺たちは道具を片付けた。
道具の手入れは念入りに行う。
錆びたスコップ一つでも、今の俺にとっては聖剣以上に大切な「相棒」だからだ。
◇
その夜。
俺たちは現場近くの大衆酒場にいた。
今日は給料日だ。
茶封筒に入った給料は、以前のクエスト報酬の百分の一にも満たない。
だが、その重みは格別だった。
「おばちゃん! いつもの『もつ煮込み』と、一番でかいジョッキ3つ!」
俺は大声で注文した。
「おいアレクセイ、いいのか? 今日はお前の奢りだろ?」
元重戦士のガンツが、心配そうに聞いてくる。
「いいんだよ。今月は『皆勤手当』がついたからな。……それに、今まで俺がお前らに偉そうにしてた、詫び代わりだ」
俺が言うと、ミリアとガンツは顔を見合わせ、それから吹き出した。
「ふふっ、今の言葉、録音しておきたかったですわ」
「違げえねえ! あの傲慢チキチキ勇者が、丸くなったもんだ!」
「う、うるせえな!」
届いたジョッキをぶつけ合う。
カンッ!
泡が溢れる。
喉に流し込むエールの味は、苦くて、冷たくて、最高に美味かった。
窓の外を見る。
雨上がりの夜空に、レオナルド商会のビルが光っている。
相変わらず、あいつは雲の上にいる。
「(……レオ。俺はまだ、お前を許したわけじゃねえぞ)」
心の中で毒づく。
だが、そこにかつてのようなドス黒い殺意はない。
「(ただ……お前の言ってた『ポーションは湧いてこない』って意味は、わかった気がする)」
誰かが作って、誰かが運んで、誰かが管理しているから、世界は回っている。
俺はずっと、その「誰か」を見下していた。
レオはずっと、その「誰か」を支えていた。
勝てるわけがない。
「……いつか、見返してやるよ」
俺はジョッキの底に残ったエールを飲み干した。
剣ではなく、仕事で。
いつか、あいつが「ほう、いい仕事をしたな」と驚くような、最高の現場監督になってやる。
「おいアレクセイ! 何ニヤニヤしてんだ! 追加注文するぞ!」
「おう、唐揚げも頼もうぜ!」
俺は仲間たちの輪に戻った。
泥臭くて、安月給で、筋肉痛が絶えない毎日。
だが、今の俺は「勇者アレクセイ」だった頃よりも、少しだけ胸を張って生きている気がした。




