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打木希美は前を向く  作者: とは
第一章

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準備をするのにもほどがある その3

一水(いっすい)さん? 一水さ~ん!」

「おーい、兄ちゃ~ん!」


 名前を呼ばれていることに気づき、信利(のぶとし)は我に返った。

 レジャーシートに座った希美(きみ)征明(まさあき)が、不思議そうに自分を見上げてきている。


「一水さん、ひょっとしてお疲れですか?」


 心配そうに尋ねてくる希美に、征明が代わりとばかりに答える。


「そうそう。兄ちゃん昨日は、あまり寝てないって言ってたよ。なんか今日が楽しみすぎて眠れなかったみた~い」


 にやにやとしながら話す彼を、信利はにらみつける。


「寝てないわけではない。ただちょっと、眠りが浅かったというか」


 長根駅で征明に言われた、『遠足前日の小学生』という言葉がよぎる。

 決して、子供のようにはしゃいでいたわけではない。

 むしろ、明日はうまくいくだろうかという緊張で、眠れなかったのだから。


 だが、ほんの少しだけ。

 彼女との出会いによって、今までの自分を変えることが出来るのでは。

 そんな期待を抱いていたのは否めない。


『私も一緒に前を向ける手伝いをします。あなたは今日から一人ではありません』


 あの時の彼女の言葉は、とてもまっすぐで、必死で。

 だからこそ、今までのように逃げたり、目を背けてはいけないと思った。


「一水さん。レジャーシートはもう一枚、持ってきてあるんです。だからもし眠くなったら、ここで仮眠をとってもらっても大丈夫ですよ」


 うつむいてごそごそと、リュックを探りながら希美はそう声を掛けてきてくれる。

 そんな彼女の姿を隣で見つめる、征明の表情は実に穏やかだ。


 変えられなかった信利とは違い、征明は自分の力で立ち上がり、今の彼自身を確立させている。 

 だが、自分はどうだ。

 環境のせいにして成長することを拒み、一人のまま、いまだに立ち尽くしている。


 楽しそうに談笑している彼ら二人。

 それをただ眺め、動くことすらできない自分。

 今のこの距離は、心も、現状をも表しているではないか。


 二人を見ることすら今は、苦しい。

 唇をかみしめ、うつむき目を閉じてしまう。


 卑怯だとは思う。

 だがここにいるのは、あまりにも辛い。

 体調不良といって、このまま自分は帰らせてもらおう。


「二人共、すまな……」

「おりゃっ! (まさ)あきーっく!」


 征明の声と同時に、背中へと衝撃が来る。

 たまらずよろめき、シートに上半身を投げるような形で、信利は前へと倒れこんでしまった。


「な、何が起こっているって、うわっ! 征明、何をしている!」


 気がつけば足元に来ていた征明が、信利の靴を脱がしていく。


「お客様~、シートの上では土足厳禁でございま~す!」


 ふざけた裏声を出した征明が、シートの傍に靴を置くとニンマリと笑う。

 こんな事が目の前で起こり、さぞ彼女は迷惑にちがいない。

 視線を上げれば、口元を両手で押さえ、目を見開いている彼女の姿が映る。

 大人しい彼女には、ショックだったに違いない。

 体を起こしながら、信利は謝罪していく。


「打木さん。も、申し訳なっ……」

「なんてことっ! 征明とキックを重ねて『征あキック』なのですね! 浦元さん、あの瞬間にひらめいて言うって天才ですか!」


 予想外の彼女からの言葉に、信利はぽかんとしてしまう。

 一方の征明はと言えば、そんな自分を見ながら、大笑いをして彼女の隣へと座り直した。


「すげー、驚くところそこなんだ? やっぱ希美ちゃんおもしれ―!」


 ひとしきり笑うと、「さて」と呟き、征明は自分へと手を伸ばしてきた。


「楽しいね、兄ちゃん。今まで俺さ、自分がこんなふうに笑えるなんて知らなかったよ」


 どうしてだろう。

 自分へと向けてくる彼の顔は、言葉とは違い、泣きそうではないか。


「だから兄ちゃんもさ、この時間をいっぱい楽しもうよ」


 言葉を探すように、征明は目を伏せしばらく黙り込む。

 

「……もっともっとさ、知らない自分を見つけて、たくさん笑っていこう」


 再び顔を上げた征明を見つめ、信利は知る。


 あぁ、本当だ。

 今の彼からは、自分が見たことのない、優しい笑顔が浮かんでいる。


 こんな自分が、彼らの隣に行ってもいいのだろうか。

 ためらう信利の表情に気づいたようで、征明は信利の手を掴む。

 そのまま強引に、信利を自分達の方へとぐっと引き寄せてきた。


「うわっ! ちょっと待て、征明っ」


 先程とは違い、今度はシートの上に体を投げ出すように引きずりこまれる。

 みっともなく倒れた自分の頭上から聞こえてくるのは、くすくすという笑い声。


「一水さん、大丈夫ですか?」


 目を細め、今度は彼女が手を差し伸べてくれる。


 その笑顔がとても綺麗で、優しくて。

 だからきっと握ってくれる。

 そう思えて仕方なくて。


 恐る恐る伸ばした手を、彼女はしっかりと掴むと、こう言ったのだ。


「楽しいですね、一水さん。これからも一緒に、こうやってたくさん笑っていきましょう」


 一緒に。

 それは『一人ではない』という、優しく温かな言葉。

 

 ――変われるのかもしれない。


 心に、そう思える自分がいる。

 でもこれはまだ小さく、守ってあげなければいけないほど弱くて、頼りないもの。

 けれども気づいたから、気づけたのだから。

 信じてみよう、育てていこう。

 新たに生まれ来る気持ちに戸惑いと、小さな喜びを感じながら、信利は澄んだ空を見上げた。

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