準備をするのにもほどがある その3
「一水さん? 一水さ~ん!」
「おーい、兄ちゃ~ん!」
名前を呼ばれていることに気づき、信利は我に返った。
レジャーシートに座った希美と征明が、不思議そうに自分を見上げてきている。
「一水さん、ひょっとしてお疲れですか?」
心配そうに尋ねてくる希美に、征明が代わりとばかりに答える。
「そうそう。兄ちゃん昨日は、あまり寝てないって言ってたよ。なんか今日が楽しみすぎて眠れなかったみた~い」
にやにやとしながら話す彼を、信利はにらみつける。
「寝てないわけではない。ただちょっと、眠りが浅かったというか」
長根駅で征明に言われた、『遠足前日の小学生』という言葉がよぎる。
決して、子供のようにはしゃいでいたわけではない。
むしろ、明日はうまくいくだろうかという緊張で、眠れなかったのだから。
だが、ほんの少しだけ。
彼女との出会いによって、今までの自分を変えることが出来るのでは。
そんな期待を抱いていたのは否めない。
『私も一緒に前を向ける手伝いをします。あなたは今日から一人ではありません』
あの時の彼女の言葉は、とてもまっすぐで、必死で。
だからこそ、今までのように逃げたり、目を背けてはいけないと思った。
「一水さん。レジャーシートはもう一枚、持ってきてあるんです。だからもし眠くなったら、ここで仮眠をとってもらっても大丈夫ですよ」
うつむいてごそごそと、リュックを探りながら希美はそう声を掛けてきてくれる。
そんな彼女の姿を隣で見つめる、征明の表情は実に穏やかだ。
変えられなかった信利とは違い、征明は自分の力で立ち上がり、今の彼自身を確立させている。
だが、自分はどうだ。
環境のせいにして成長することを拒み、一人のまま、いまだに立ち尽くしている。
楽しそうに談笑している彼ら二人。
それをただ眺め、動くことすらできない自分。
今のこの距離は、心も、現状をも表しているではないか。
二人を見ることすら今は、苦しい。
唇をかみしめ、うつむき目を閉じてしまう。
卑怯だとは思う。
だがここにいるのは、あまりにも辛い。
体調不良といって、このまま自分は帰らせてもらおう。
「二人共、すまな……」
「おりゃっ! 征あきーっく!」
征明の声と同時に、背中へと衝撃が来る。
たまらずよろめき、シートに上半身を投げるような形で、信利は前へと倒れこんでしまった。
「な、何が起こっているって、うわっ! 征明、何をしている!」
気がつけば足元に来ていた征明が、信利の靴を脱がしていく。
「お客様~、シートの上では土足厳禁でございま~す!」
ふざけた裏声を出した征明が、シートの傍に靴を置くとニンマリと笑う。
こんな事が目の前で起こり、さぞ彼女は迷惑にちがいない。
視線を上げれば、口元を両手で押さえ、目を見開いている彼女の姿が映る。
大人しい彼女には、ショックだったに違いない。
体を起こしながら、信利は謝罪していく。
「打木さん。も、申し訳なっ……」
「なんてことっ! 征明とキックを重ねて『征あキック』なのですね! 浦元さん、あの瞬間にひらめいて言うって天才ですか!」
予想外の彼女からの言葉に、信利はぽかんとしてしまう。
一方の征明はと言えば、そんな自分を見ながら、大笑いをして彼女の隣へと座り直した。
「すげー、驚くところそこなんだ? やっぱ希美ちゃんおもしれ―!」
ひとしきり笑うと、「さて」と呟き、征明は自分へと手を伸ばしてきた。
「楽しいね、兄ちゃん。今まで俺さ、自分がこんなふうに笑えるなんて知らなかったよ」
どうしてだろう。
自分へと向けてくる彼の顔は、言葉とは違い、泣きそうではないか。
「だから兄ちゃんもさ、この時間をいっぱい楽しもうよ」
言葉を探すように、征明は目を伏せしばらく黙り込む。
「……もっともっとさ、知らない自分を見つけて、たくさん笑っていこう」
再び顔を上げた征明を見つめ、信利は知る。
あぁ、本当だ。
今の彼からは、自分が見たことのない、優しい笑顔が浮かんでいる。
こんな自分が、彼らの隣に行ってもいいのだろうか。
ためらう信利の表情に気づいたようで、征明は信利の手を掴む。
そのまま強引に、信利を自分達の方へとぐっと引き寄せてきた。
「うわっ! ちょっと待て、征明っ」
先程とは違い、今度はシートの上に体を投げ出すように引きずりこまれる。
みっともなく倒れた自分の頭上から聞こえてくるのは、くすくすという笑い声。
「一水さん、大丈夫ですか?」
目を細め、今度は彼女が手を差し伸べてくれる。
その笑顔がとても綺麗で、優しくて。
だからきっと握ってくれる。
そう思えて仕方なくて。
恐る恐る伸ばした手を、彼女はしっかりと掴むと、こう言ったのだ。
「楽しいですね、一水さん。これからも一緒に、こうやってたくさん笑っていきましょう」
一緒に。
それは『一人ではない』という、優しく温かな言葉。
――変われるのかもしれない。
心に、そう思える自分がいる。
でもこれはまだ小さく、守ってあげなければいけないほど弱くて、頼りないもの。
けれども気づいたから、気づけたのだから。
信じてみよう、育てていこう。
新たに生まれ来る気持ちに戸惑いと、小さな喜びを感じながら、信利は澄んだ空を見上げた。




