刻むのは心臓の音だけではない
「きょひっ。……今日はよろしく、お願いいたし、……ます」
あぁ、きっと自分は、日本語もまともに話せない人間だと思われてしまった。
打木希美は青ざめた顔でうつむいていく。
相手の顔を見ることすら出来ない自分が情けない。
かろうじて出来たことといえば、顔を伏せる瞬間に相手の胸元の名札に『真加瀬』と書かれていたことが認識できたことだけ。
「ごめんなさい、真加瀬さん。私、人と話すのがとても苦手でして」
今までの自分から変わるんだ。
その決心をして、ここに来たはずだったのに。
「打木様、誰だって苦手なものはありますよ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
だが真加瀬は、希美の失敗などなかったかのように明るい声で答えてくれる。
おそるおそる顔を上げれば、穏やかな笑みの彼女と目が合った。
笑顔で挨拶をしたい。
そう思い、慣れない口角を上げ話そうとしたことを、この人は理解してくれているのだ。
「まずは緊張をほぐしましょうか。すぐそこにある、壁の鏡を見てください」
言われるままに、壁へと視線を移していく。
自信のない表情、堅く閉じた唇。
肩までの長さのまっすぐな黒髪は、緊張で震える体と共に揺れている。
「大切な人に思いを伝えたい。そのきっかけとなるお菓子作りの手伝いを。私どもに、打木様はそう依頼をしてくださいました」
真加瀬は希美の後ろに回り込むと、手にしていた白いエプロンをふわりと掛けてくれる。
「ありがとうございま……、ってええ?」
エプロンには、まるで小さな子供が描いたような二人の人物の顔がプリントされている。
右側に描かれている方が、ミディアムロングのウェーブの髪型であること。
その特徴から、かろうじて真加瀬であることは判断できる。
つまり、左側は自分か。
力強い一筆書きで描かれた似顔絵を、希美はじっと見つめる。
笑顔となっている口の部分の線は、豪快な筆の走りによって顔からはみ出し、顎すらも突き抜けてしまっていた。
「今日のために、頑張って描きました! 私と打木様です。いかがですか?」
今の発言により、これが自分達であることは確定された。
自信満々に語ってくれているが、あまりに自由に描かれたこの作品を、笑わずに感想を言うというのはなかなか難易度が高い。
「ぶふっ、えっとですね。とっても個性的ないい笑顔で描いてもらえてると思います」
「そうですか、それはよかった。ではもう一度、鏡を見てもらえますか」
「え? あ、はい」
エプロンと同様の、楽しそうな希美の笑顔。
鏡は、そんな自分の姿を映し出していた。
「では素敵な笑顔を拝見したところで、リクエストをいただきました生チョコ。こちらを作ってまいりましょう」
「は、はい! よろしくお願いいたします!」
「打木様は料理の経験がありますので、説明は不要とは思いますが」
いつの間にか同じ柄のエプロンをまとった真加瀬が、調理台へと希美を誘っていく。
「必要な材料はすべて揃えてあります。あえてアレンジもなくシンプルなものを。そう伺っておりましたが」
冷蔵庫を開ければ、タルトの生地、クッキーカップ、様々な果物などが綺麗に並べられている。
「アレンジも対応可能です。作成途中で変更したくなった際には、いつでもご要望をお伝えくださいませ」
「……」
「打木様、どうされましたか?」
「あ、すみません。何といいますか、その」
言葉を選び、希美は話を続ける。
「すごく準備が出来ていると言いますか。もう準備万端が過ぎて、怖いくらいと言いますか」
希美の言葉に、真加瀬は笑みをもって答える。
「お伝えしております通り、これは打木様の依頼であると同時に、弊社スタッフの技術向上を目的としたものでもあります」
真加瀬が天井へ視線を向け、そこに設置されているカメラへと軽く手を振った。
「依頼主様が満足のいく結果を。そしてスタッフにおいては、それだけではなく、更にお客様の喜びと見えない満足を目指して」
調理台の上にはチョコレートやココアなどの材料が、真加瀬の手によって並べられていく。
「その協力者として、打木様にはご参加いただいております。今回の生チョコの作成において発生する費用等は、全て弊社にて負担いたします」
「はい。そして私はその費用の代わりに、モニターとして気づいたことや改善等の意見を真加瀬さんにお伝えする。それでいいのですよね?」
真加瀬はうなずきながら、クッキングシートをバットに敷いていく。
「今回の調理の工程は、打木様のお気持ちに沿っているような気が致します」
チョコレートを包丁で細かく刻み湯煎をし、温めておいた生クリームと混ぜ合わせていく。
――今までの弱気な自分と決別し、真加瀬たちの力を借りて、新しい自分へ変われるように。
チョコレートをバットへ流し込み、ラップをかけ冷蔵庫に入れれば、後は固まるのを待つだけ。
「では打木様、チョコが美味しくなるまでの間、いろいろお話をいたしましょうか」
真加瀬との会話で与えられたのは、自身を振り返る時間。
どうして自分はここに来たのか。
どうなりたくて、自分はここにいるのかを、希美は思い返していく。
「今までの私は、様々なことから逃げてばかりでした。人見知りの性格もあり、他人と接することを怖れ、うつむき動けずにいたのです。でも……」
「えぇ、こうして打木様は私共へと声を掛けてくれました。『逃げる』から『変わろうとして』ここに来てくれたのです」
真加瀬は部屋の時計に目をやり立ち上がると、冷蔵庫へと向かっていく。
「そろそろいい頃合いですね。では仕上げに入りましょう」
バットからクッキングシートをそっと外し、チョコレートを均等に切り分けてから、ココアパウダーをまぶす。
さらさらとしたココアが、まるでチョコレートの表面に化粧を施すように。
真加瀬からの言葉で、希美の心にも優しく勇気が降り注がれたように、穏やかな落ち着きが満ちていく。
「真加瀬さん! でっ、出来ました!」
「よく頑張りましたね。とてもいい香りです」
綺麗に整った四角い生チョコレートは、きちんと整列するかのように並べられている。
「あとはこちらをラッピングして、お相手にチョコとお気持ちをお届けする。これで打木様のプランは完成となりますね」
「はい、これをあの人に渡して告白してきます」
不思議だ。
この部屋に最初に入った時に抱いていた、緊張やネガティブな気持ちはもうなくなっている。
絶対に成功するに違いない。
そこまでのプラス思考にはなれないものの、一歩を踏み出せたという充実感が、希美の心を満たしていく。
「ありがとうございます。真加瀬さんにお会いできて、本当に良かったです」
彼女を見つめながら、希美は一週間前の出来事を思い返していく。
人生初の告白をしたい。
そう相談を持ち掛けた友人から、紹介されたのがこの会社のホームページだった。
「まぁ、いわゆる『何でも屋』さんだよ。気軽に試してごらん」
友人の言葉に勧められるまま、自宅に戻りサイトを開く。
恋愛に疎い自分へと、アドバイスがあれば心強い。
文字通り軽い気持ちで希美は、依頼文を書いてみる。
『手作りのお菓子で、好きな相手の誕生日に告白したい』と。
紹介者である友人の名前を入力し、説明に沿って内容を打ち込んでいく。
その途中で、ある箇所に希美は違和感を覚えた。
わずかながら色の違う部分。
カーソルをそこへと移動させれば、別のページへのリンクが現れる。
好奇心からリンク先へと飛べば、なにやらいたずら心あふれる文章で、クイズのようなものが載せられているではないか。
謎解き感覚で次々と出される問題に答えていくうちに、最後に現れたページには社長からのメッセージとして、こう綴られていた。
『こちらのページへたどり着かれたお客様には、弊社スタッフのスキルアップのご協力をお願い致しております。最初にいただいたご要望に合わせて、お客様の思いや願い。「これは無茶だろう」と思えるアイデア。どうぞ遠慮なく、それらをご記入くださいませ。お客様とスタッフが共に幸せを築いていけるように、私は願っております』
何とも遊び心がある会社ではないか。
希美はくすくすと笑いながら、記入を始めていく。
初めて人を好きになり、告白したいと思ったこと。
せっかくなので、お菓子を作ってみたい。
そして、引っ込み思案な自分との決別を。
『無茶なことでも』と書いてあったこともあり、こちらも遊び心を交え書いたメッセージ。
まさかそれが、こんな展開になろうとは。
「打木様。差し支えなければ社内共有データとして、今回の仕事を残しておきたいのです。完成したチョコレートを写真に撮らせていただいてもよろしいでしょうか? もちろん、打木様のプライバシーはしっかり守らせていただきますので」
「あ、はい! もちろん構いませんよ。どうぞどうぞ!」
机から離れれば、スマホで真加瀬がチョコレートの撮影を始めていく。
やがてシャッター音が止まると、彼女は自分へと振り返ってきた。
「打木様、ご協力ありがとうございます。こちらのデータを本社に送ってまいりますので一度、私は退席いたしますね」
「はい、ありがとうございます。ではその間に、チョコの包装を始めていきます」
「すぐに戻ります。分からないことがありましたら、部屋にある電話で呼び出してください」
「はい、お見えになるまでに完成させておこうと思います!」
笑顔でガッツポーズをとれば、真加瀬が穏やかに微笑んでくれる。
「ふふ、元気なお返事が聞けて嬉しい限りです。では失礼いたします」
希美へと礼をして、真加瀬は部屋から出ていった。
「よし。真加瀬さんが来るまでにって、……きゃあっ!」
終わったという、気のゆるみがあったのは否めない。
箱に詰めようと、生チョコが載せられたバットを持ちあげようとしたその時だった。
握ったはずのバットが、あろうことか希美の手から離れていく。
ガシャンという、バットが床に打ち付けられる音が響き渡る。
無残に散らばったチョコレートを前に、希美はただ呆然とすることしか出来ない。
「そんな、せっかく完成したのに……」
誕生日ということや、相手の仕事の都合もあり、渡せるチャンスは今日だけ。
それもあり、今日は有給を取ってここに来たというのに。
全てが駄目になってしまったというショックから、希美はその場にがくりと崩れ落ちてしまう。
悲しくて仕方がない。
それなのに自分の口からは、諦めによる乾いた笑いがこぼれだしていく。
「……あはは。やっぱり私なんかが、告白なんて無理だったのかなぁ」
どれほどそうしていただろうか。
コツコツと靴音が近づき、希美の肩に手が乗せられる。
顔を上げれば、真加瀬が自分をまっすぐに見つめていた。
「打木様、少しお話をよろしいでしょうか」
希美の隣へとしゃがみ込み、真加瀬は口を開く。
「私は『心』が何より大切ではないかと。完成するまでに至った努力、その際に生まれた気持ち。その『願い』こそが、お相手へ届くものだと思っております」
彼女の言う通りだ。
チョコレートこそなくなったものの、完成した時に生まれた喜び。
それに真加瀬との会話で覚えた感情は、決して消えるものではないのだから。
その気づきに、希美の口元には自然な笑みが浮かんでくる。
「そうですよね。品物はないけれど、彼に自分の気持ちを、しっかりと伝えてこようと思います」
「よかった。私のお話ししたかったことは、きちんと打木様に届いていたようですね」
「はい。ここで私は、今までに持ち合わせていなかった『前に向かって進みたい』という思いを培いました。今日は本当に……」
真加瀬は希美の言葉を遮ると、優しく微笑む。
「打木様、本物には到底及びません。ですが、私どもからささやかな応援を」
真加瀬は、希美を立ち上がらせながら机を指さす。
「同じものを準備しておきました。こちらをお持ちください」
信じられないことに、机の上には生チョコが載ったバットが置かれているではないか。
「お客様の願いを確実に叶える。それが弊社のモットーです」
「え、そんなことがどうして!」
客の願いをかなえる。
そのために、ここまで準備していたというのか。
「ちなみにこのチョコは、打木様の動きを弊社スタッフが別室にてトレースして作っておいたものです。よって、寸分たがわぬ出来になっていると自負しております」
「え、ちょっと待ってください! なんですかこれ! こわ過ぎ!」
『客の願い』をこれは明らかに超えている。
さらに言えばその行動はもはや、『準備』などというレベルで呼ぶものではない。
「ちなみにですね。追加料金になりますが、『彼の心を射止めたいプラン』もございますよ」
「いや、もうちょっと待ってというレベルじゃないですよね? なんですかそれ! もうこわくてすご過ぎ!」
「ふふっ、打木様もすっかり元気になられて。弊社としても喜ばしい限りです」
真加瀬は計算機と、『打木様用 追加見積書【お射止めプラン】』と記入済みの用紙を机から取り出す。
そう、机からだ。
どれほどの準備を、この会社はしているというのだろう。
それを考えながら、希美は手渡された見積書を開いていくのだった。