九十九章 射手房
九十九章 射手房
次の日の早朝、オリヴィアはオーレリィの寝台の下の床の上で目を覚ました。寝相の悪さでオーレリィと競い合った結果、負けて床に蹴り落とされたようだ。
ぼぉ〜〜っとしているオリヴィアのそばに五歳のジェイムズがやってきて、オーレリィを独り占めしているオリヴィアの頭をコツンコツンと殴った。
それで覚醒したオリヴィアは服を着て支度を整え、すぐにオーレリィの雑貨屋を飛び出した。
「オリヴィア、朝ごはんはぁ?」
「急ぐからいらなぁ〜〜いっ!」
オリヴィアがご飯を食べないなんて、よっぽどの用事だろうなとオーレリィは思った。
オリヴィアはまず、「北の五段目」の武闘家房の集団寮に寄った。集団寮は木造三階建ての大きな家屋で五十人近いイェルメイドが寝泊まりしている。武闘家房は他の房と比べると兵士の数は少ない方だ。
「キャシィ、いるぅ〜〜っ?」
「…あれぇ、オリヴィアさん?おはようございます…どうしたんですか、こんな早くに…?」
「森のエルフの里に一緒について来てくれない?」
オリヴィア愚連隊の中で最年少のキャシィが最も識字能力が高いので、ユグリウシアの講義内容を自分に代って書き留めてもらおうとの魂胆だ。
「でも…すぐに朝のランニングが…」
「そんなの、サボっちゃえばいいってぇっ!」
すると年長者が寝泊まりする三階から、階段を駆け降りてくる音がした。
「私たちも行くぜぇっ!」
リューズ、ドーラそしてベラだった。
「あんた達…耳ざといわねぇ…。」
「何か面白いことするんだろぉ?私たちも混ぜろよぉ〜〜。」
「別に面白くも何ともないってばぁっ…蚕を育てるだけだから。」
「カイコ…何じゃそりゃっ⁉︎」
とにかく五人はタマラ、ペトラ両師範に見つかる前に集団寮を抜け出した。オリヴィアは斜面を駆け上りながら、みんなにかいつまんで説明をした。
「お前、人妻になったんかぁ〜〜っ!また未成年かぁ〜〜っ‼︎」
「シルクで大儲け…いいねっ!」
「オリヴィアはイェルマを抜けてコッペリ村に住んじゃうの?」
「…イェルマを抜ける訳ないじゃんっ!わたしは死んだらイェルマの土になるって決めてるの。だから、イェルマとコッペリ村を毎日往復するうっ‼︎」
「うはっ…通い婚かぁ…。」
その時、10m程上の薮が音を立てて、灰色熊が顔を出した。前回と同じ熊だった。熊は前回の苦い経験から、オリヴィアの顔を見ると逃げ腰になった。しかし、リューズはそれを許さなかった。
「おっ…熊だ、熊だっ!毛皮を剥いで熊鍋にしよ〜〜ぜぇっ!」
リューズ、ドーラ、ベラはスキルを発動させて、逃げる熊を追いかけた。三人とも深度1はカンストさせて、それぞれ深度2のスキルをいくつか持っていた。
「熊は任せたぁ〜〜っ!」
「任せろぉ〜〜っ!」
オリヴィアはリューズ達を放ったらかして、キャシィと共にエルフの里を目指した。
その頃、ジェニ、アナ、アンネリ、サリーの四人は二頭の馬に騎乗して再びイェルマに来ていた。目的はもちろん、ジェニの弓を手に入れるためである。
ジェニとサリーだけでもいいようなものだが、人見知りのジェニが確実に弓を手に入れるためにアナも同行してくれた。言うまでもなく…ジェニはアナの尊顔に手を合わせて拝みまくった。アナが行くのだから、当然アンネリも随行する。
ヒラリーはベレッタとルカに見つかると厄介なので再度のイェルマ訪問は固辞して、デイブの酒の相手をすると言った。ダフネとサムは毎日デートだ。ワンコは今日も宿屋の柱につながれた。
乗馬訓練をしている馬場のそばを通り、二台の貿易商の馬車とともに三人はイェルマ渓谷の奥へと進んだ。道幅は次第に狭くなっていった。
すると北と南、両斜面の建物から何かを持った女たちが駆け寄り、持ち物を見せながら商人の馬車に詰め寄っていた。
アナは不思議で、アンネリに尋ねた。
「あれは何かしら…?」
「ああ、ここを通過する商人に物を売ってるんだよ。生産部で作ったイェルマの地酒とか、焼き菓子とか…。」
「へぇぇ…イェルマは自給自足かと思った…。」
「いや、イェルマで作れない物もあるから、そういうのを買うために貨幣を稼いでるんだよ。それに…生産部のイェルメイドは売り子をすると上がりの二割が自分のものになるから、ああやって小遣い稼ぎをしてる人もいるねぇ。」
「小遣い稼ぎ?…イェルメイドはお給金とか貰ってないの?」
「給金なんか、ある訳ないじゃん!食堂で食べ放題だよ…衣食住は保証されてるからね。だから小遣い稼ぎをしてるんだよ。練兵部のイェルメイドなら、非番の時に山に入って鹿とか猪を狩って肉や毛皮をコッペリ村で売るとか、商人の砂漠横断についていって護衛をやると報酬の四割は自分のものになるね。」
「…お小遣いで何を買うの?」
「コッペリ村で買い食いに決まってるじゃん。」
アナとサリーは大笑いした。ジェニは馬が苦手らしく、落ちないように集中していて話を聞いていなかった。
「この道はどこまで続いてるのかしら?」
アナの質問にサリーが答えた。
「東城門までは馬の早駆けで五時間ぐらい、馬車で半日ぐらい…200kmぐらいですかね。東城門のその先は東の世界…トリゴン大砂漠ですよ。」
馬でしばらく走って、途中から北の斜面に入っていった。馬で階段を駆け上がるとアナとジェニが落ちそうなので、馬から降りて「二段目」を目指して徒歩で登った。
急な階段を登り切ると、そこには二人の魔道士が陶器製の氷入りの水差しとコップを用意して待っていた。マーゴットさん…なんて気配りのできる人なのだろう…。イェルマのあちらこちらに魔道士が配置されていて、何かあるとすぐに念話でマーゴットに情報がもたらされるようになっているのだ。
氷水で喉を潤した四人はサリーの案内で射手房に向かった。
射手房に到着したジェニは唖然とした…多分、これはアーチャーの訓練のはずなのだが…若い兵士たちが弓を構えてひたすら走り回っていた。…一体、何の訓練だろう⁉︎
今日は、王ボタンの護衛には副師範のアーチャーが赴いていて、射手房にはアルテミスがいた。
「アルテミス師範、アナ様がジェニさんのために弓を欲しがっています。一本差し上げてもよろしいでしょうか?」
サリーの言葉に、アルテミスは正面を見たままで無言でうなずいた。サリーはジェニを手招きして、二人してさらに階段を登った。
森深い傾斜地に猫の額ほどの平坦地があって、そこに弓削師の工房があった。切り倒された何本かの大きなニレやイチイの木の丸太と山積みにされた板、小さな小屋の中には色んな種類のノコギリやノミ、カンナと数本の作業途中の弓が立て掛けられていた。
「スージーさん、いますかぁ〜〜?」
「おるよ〜〜。裏に回っとくれ。」
サリーとジェニは小屋の裏手に回った。すると、五十代の女が弓にヤスリを掛けていた。
「新しい弓が一本欲しいんだけど…」
「また折ったのかいっ⁉︎お前たち…もっと弓を大切に扱いなさいなっ!」
「違う違うっ!この人…ジェニさんが使う弓だよ。」
「ふむ…見ない顔だねぇ。駆け込み女かい?華奢だし細いし、今からアーチャーって、無理じゃないかねぇ…?」
「違う違うっ…もう、アーチャーなんだってばっ!」
「えええ…見えないけどねぇ。」
「とにかく、ジェニさんに見合った弓をお願いします。」
ジェニは恥ずかしかった。弓の専門家から見て、どうも私はアーチャーの体つきではないらしい…まだまだアーチャーに必要な筋肉が足りてないということか…?
「…小屋の左端のヤツを持って行きな。」
「ありがとう、スージーさん!」
サリーは小屋の中に入って左端の弓を取ると、ジェニの腕を引っ張って逃げるように工房を後にした。
「…あのおばさん、私、苦手なんですよ〜〜…」
「…え?」
「いつも、ごちゃごちゃと細かい事に文句言ってくるんですよぉ…昔はアルテミス師範にも引けを取らない程の凄腕のアーチャーだったらしいから、こっちは何も言えないんですけどね…。」
「そ…そうなんだ…ね。」
サリーはジェニに弓を手渡した。トネリコの無垢の板材から削り出した小ぶりの弓だ。鋼製のカスタムボウよりはるかに軽かった。
「…それ、私の弓とだいたい同じ物ですね。私の弓もトネリコですよ。ロングボウだとイチイとかニレなんですけど、まぁ…いろいろ使ってみて自分にしっくりくる材質を見つけてください。」
訓練場に戻ると、サリーはジェニ、アナ、アンネリを試射場へ案内した。
試射場では若いアーチャー達が射撃訓練をしていた。
「おお…!」
その射撃訓練の様子を見て、ジェニは思わず唸った。試射場の幅は20mぐらいあって、三つの的が30mほど奥に設置されていた。中距離射撃の練習場だ。若いアーチャーが20mの距離を一気に駆け抜けながら、三つの的めがけて矢を放っていた。動きながらの射撃…それに加えて、走り抜ける約3秒の間に三度射つという早射ち…!
「動きながらって、こ…これは何かの特殊な訓練…なのかな?」
ジェニは恐る恐るサリーに尋ねた。
「普通の訓練ですよ。静止して射つなんて、長距離狙撃でしかやりませんよ。対人戦において、中距離なら動きながらが当然でしょう。」
アンネリはうんうんとうなずいていたが、アナはさっぱり分からんという顔をしていた。
「は〜〜い、みんなちょっと休憩。場所空けてねぇ〜〜。」
サリーの言葉で若いアーチャー達は散っていった。
「ジェニさん、薬煉はまだ引いてないけど、とりあえず射ってみましょうか。」
薬煉とは松やにと油を混ぜて煮た液体で、弓の弦に塗ると固まって弦を保護強化する。「手ぐすねを引く」はここからきている。
サリーは大きな矢筒を自分にひとつ、そしてジェニにひとつ手渡した。受け取ったジェニはその矢筒の重さによろけそうになった。矢筒には矢が百本入っていた。
「とりあえず…百本ほど射ってみましょう。」
サリーはそう言って、自分でも射ち始めた。まるで「クィックショット」を発動しているかのようなスピードで弓に矢をつがえ、次々と的に当てていった…それも、横に歩きながらである。
サリーはあっという間に百本を射ち終えてしまった。二分もかかってないだろう。イェルマのアーチャーの感覚では、「百本」は「とりあえず」の量なのだ。
ジェニは打ちのめされた気持ちになって、試射する意欲が失せてしまった。しかし…六歳も年下のサリーに弱みは見せられない!「イーグルアイ」を発動させ、歯を食いしばって一本目を射った!…外れた。
「この距離で『イーグルアイ』…?」
「…私は幼い頃から、まっすぐ歩けないほどの酷い弱視なんだ…。『イーグルアイ』を覚えたら視力が回復すると聞いてアーチャーになったんだ…。だから、弓を使わない時も『イーグルアイ』を使ってる…。私にはアーチャーしかないんだ!」
「…そうなんですか。」
ジェニは必死で矢を射った。矢は的に当たったり外れたりした。サリーはその様子を横で見ていた。
「…当たらないのは、まだその弓に慣れてないせいですよ。気にしないでどんどんいきましょう!」
サリーが優しい言葉をかけてきた。




