九十六章 べネトネリス廟
九十六章 べネトネリス廟
瓦葺の木造平屋建ての家屋が見えてきた。マーゴットが指で示して言った。
「あれです…あれがべネトネリス廟です。廟というのは神様を祀ってある場所…あなた方の風習では神殿や聖堂と同じものです。」
一行は廟の扉を開け、中に入っていった。しかし、アルテミスを含めた護衛の女兵士達は扉の前にとどまり、人垣を作った。宗教に全く興味がなかったジェニは…神様よりも、弓の名手アルテミスの方が気になって一緒に扉の前にとどまった。
マーゴット、ボタン、アナ、アンネリは廟の中に進んだ。香の匂いがした。
「同盟国の神殿や聖堂とは違いますでしょう?」
マーゴットの言葉で、アナは注意深く廟の中を見渡した。神を祀る場所にしては地味で、華美な装飾は少なかった。信徒のための椅子はなく、代わりに麻縄を編んで作った座布団のような物がたくさん重ねて置かれていた。イェルマでは葬儀、祭礼の時は基本的にひざまずいて行うのだろう。
中央には大きな黒檀のテーブルが置いてあって、その上に燭台と米や麦などの供物、それと焼香台があった。そして、さらにその奥に柵に囲まれた2mぐらいの女性の木像が凛々しく立っていた…どう見ても、少女像だ。
「そうですね…今まで私が見てきた神殿や聖堂に比べると質素ですね。でも、しっかり手入れがされていて、清潔感はあると思います…。」
「…アナ殿がイェルマに移住されたら、ここがあなた様のテリトリー…奉仕の場になります。」
アナは少女の像の前で膝を折り、両手を組んで祈りを捧げた。
「この少女が…べネトネリスなんですね?」
「左様でございます。べネトネリス様は…敵に追われて砂漠で途方に暮れていた建国の祖イェルマの前に現れて、この渓谷への道を示したと言われております。」
「同盟国ではウラネリスが信奉されています。私は同盟国で神官の修行をしました…。当然ながら、神聖魔法を行使する時はウラネリスの名前を唱えます。先ほど『北の一段目』で女の子の骨折を治す際、ウラネリスの神聖魔法を使いましたが…有効でした。私にはよく分かりません…べネトネリスを信奉しているイェルマの地でも、対立する国の神ウラネリスの神聖魔法が有効だなんて…不思議でなりません…。」
「アナ殿、良いところに気づかれました…。あなたは卓越した洞察力をお持ちですね。実は…ウラネリスとべネトネリス、さらには魔族領で信奉されているワルキュネリスは姉妹で…三位一体の神なのですよ…。」
「えええっ…本当ですかっ⁉︎私は上級神官の講義も半分ほど受けておりますが…そんな話は一度も聞いたことがありません…!」
「…秘儀なのですよ。同盟国では国政上の理由で秘されているのです。我々は同じ姉妹神を信奉する、言わば宗教上の同胞なのに…私利私欲のために同胞を殺し合い、同胞の領地を奪い合っているのですよ…。」
「そんなことが…。マーゴットさんはなぜそれをご存知なのですか?」
「魔道房はこの上に住んでいる森のエルフと親交があります。お互いに魔法の情報交換をして切磋琢磨しております。彼らの『セコイア教』の中ではこの話は秘儀でも何でもないのですよ…。彼らもまたベネトネリス様の神託によって、遠い西の果てからこの渓谷へ導かれた者たちなのです。」
アナは少女像をじっと見つめた…十歳ぐらいだろうか。髪の色はわからないが、巻き毛でシンプルなワンピースから見える手足は細くて人間の少女と大して変わらないなと思った。
ジェニは護衛のイェルメイド達と廟の扉の前にいた。護衛は五人だった。ボタンの護衛はアルテミスを含めた三人のアーチャー、残りの二人はマーゴットの護衛で魔道士だ。
ジェニは何もすることがないので空を見上げてみると、雲ひとつない青空で…まるで今の空虚な自分の心みたいだなと思っていた。
その青い空を、どこに行くのか一羽の鳩が飛んでいた。すると、アルテミスがすかさず腰の矢筒から矢を抜いて、背負っていた160cmの大弓、ロングボウを左手に持ち…鳩を撃った。矢は見事命中し、鳩は森のどこかに落下していった。
「…わっ!」
ジェニは遥か遠くを飛んでいる鳩を射落としたアルテミスの腕に驚愕した。
アルテミスは悪びれる事なくさらりと言った。
「仲間で飛んでいる鳩はいいが、一羽だけで飛んでいる鳩は伝書鳩の可能性があるので落とします…。」
護衛のアーチャーのひとりが列を離れて森の中に走っていった。落ちた鳩を確認しに行ったのだろう。
「す…凄すぎる…。」
「いえ…アーチャーなら、あれぐらいは当然でしょう。」
「…当然…なんですか…⁉︎」
その瞬間、ジェニはイェルマのアーチャーの水準が冒険者のそれよりもはるかに高いことに気づいた。そして…独学でひとり行う弓の訓練の限界を感じた。
「あの…お名前を教えてください。」
「…アルテミスです。」
「アルテミスさん、私を弟子にしてくださいっ!」
「…!」
「今のままでは、私はこれ以上アーチャーとして上達しない気がします。もっと厳しい場で自分を追い詰めないといけない…アルテミスさんの実力を見て、言葉を聞いて自分はまだまだ甘いと気づきました。是非、弟子にしてください!」
「見たところ…あなたは小さくて華奢ですね…。元々、練兵部…いや、冒険者のような体を使う職業には向いていなかったのではないですか?私はあなたの生まれ育った境遇、弓の訓練の状況などは知りませんが、アーチャー以外の道を選択した方が賢明だと思いますよ。」
「私にはアーチャーしかありません!幼い頃に症候熱にかかって弱視になってしまいました…。弓の訓練をして『イーグルアイ』を覚えて…人並みの生活ができるようになって…いえ、それだけじゃありません。アーチャーをずっとやってきて、アーチャーであることに誇りを持っています。もっともっと強くなりたいんですっ!」
「イェルメイドに徒弟制度はありません…。もしあなたがイェルマでアーチャーをやりたいのであれば、イェルマに移住して正式に射手房に配属される必要があります。そうなれば…私は弟子などと関係なくあなたに弓を教えます…。」
「…そうですかっ!それじゃぁ…」
そこに、鳩を確認しに行った護衛が戻ってきて、ジェニの言葉を遮った。
「アルテミス師範、これを…。」
アルテミスは小さくて細長い羊皮紙を受け取った。それを一瞥すると、すぐにベネトネリス廟の中に入っていった。緊急を要する用件のようだ。
間が悪かった。ジェニは決心が鈍ってしまい…最後に言おうとした言葉が宙に浮いてしまって…自分自身で保留にしてしまった。人見知りで引っ込み思案なジェニの悪い癖だ。
マーゴットはアルテミスから文を受け取ると、含み笑いをした。ボタンが尋ねた。
「いつものヤツか?」
「はい…暗号ですが、おおかたの見当はつきます。さほどの情報漏洩はありますまい…。尻尾を出すまで、もう少し泳がせましょう。」
アナは状況が掴めず…仕方ないのでアンネリに顎で合図をして説明を求めた。アンネリは小声で説明した。
「あのね…イェルマに同盟国側の間者が紛れ込んでるんだよ。駆け込み女の誰かなんだろうけど、いつもひとりか二人はいるんだよ。ただ…駆け込み女はほとんど生産部行きで『南の斜面』で生活するからね。兵士の住んでいる『北の斜面』とは距離があるから、軍事上の重要機密はあまり流れていかないって訳。ある程度間者のメドがついたら…あたし達斥候の出番だねぇ。」
アンネリは親指で喉を掻き切る仕草をしてみせた。
「へぇぇ…大変だねぇ…。」
スパイ探索はイタチごっこだ。スパイを見つけて処分しても、次はもっと巧妙に送り込んでくる。あまり神経質になっても仲間に対して疑心暗鬼になるばかりなので、マーゴットはスパイに対しては悠然と構えていた。
マーゴットは改めてアナに伺いを立てた。
「それで…アナ殿、いかがなものしょうか?イェルマとしてはすぐにでもアナ殿に来て頂きたいと思っております…。食客として厚遇いたしますよ。」
「ありがとうございます。私はイェルマを大変気に入りました…将来的にはお世話になろうかと思っております。でも、その前に色々と処理しないといけない問題があります、ティアーク王国に住んでいる両親の事とか…。四、五日コッペリ村に逗留して身辺の整理をいたしますので、ご用の向きがあればコッペリ村の宿へお願いします。」
「…分かりました。私どもはお待ちしておりますよ。」
そう言うと、マーゴットとボタンは深々と頭を下げた。
「射手房からひとり…アナ殿の護衛をつけるというのはいかがでしょうか…?」
アルテミスはそう言って、マーゴットとボタンの顔を窺った。二人は軽く頷いて了解の意を示した。
「サリー、アナ殿の護衛として付いて行け。」
「はい。」
小柄で若いブルーネットの髪のアーチャー…鳩を拾いに行かなかった、もうひとりが返事をした。




