九章 暗殺
九章 暗殺
ヒラリーはレイチェルを誘って、常宿にしている宿屋赤貧亭の一階で一緒にビールを飲んでいた。赤貧亭は小さくて極楽亭よりもさらに老朽化が進んだ宿屋だった。
「聞いてくださいよぉ〜〜、ヒラリーさん。テリーのヤツときたら…この前デートに誘ってくれたんですけどぉぉぉ…デート代、全部私に出させたんですよぉぉ〜〜!でね、でね…別れ際に、金貸してくれ…だって!私を何だと思ってるんでしょうねぇぇ〜〜〜…!」
「冒険者は貧乏だからなぁ。今度私がヤキ入れといてあげるよ。さ、飲んで飲んで。」
「あぁ〜〜ん、あんまり強くしたらダメですよぉぉ〜〜。あいつ打たれ弱いんだからぁ…。」
「あはははは、惚れてるんだねぇ。いつ結婚するの?ほら、もっと飲んで。」
「やだぁぁ〜〜!まだ結婚費用も貯まってないしぃぃ…あいつが二級冒険者に昇進したらって約束してるんですけどぉぉ…でもね、でもね、求婚されたらすぐにでもOKしちゃいそうぅぅっ、きゃっ!」
「そうかぁ〜!OKしちゃうかぁ〜〜。ほら、私の奢りだから遠慮しないで飲んで。おばちゃん、ワインをボトルで持ってきてー。なんか肴になるものもちょうだい。」
レイチェルは久しぶりにヒラリーに誘われて、有頂天でワインを飲み干していた。
「あ、これね、内緒なんですけど…オークが出ましたよ。ヒラリーさんにだけ言っちゃいますねぇぇ〜〜。」
「久しぶりだねぇ、一年ぶりじゃないか。いつものところかい?」
「いつものところです…明日、正式にギルドからクエストを出しますよぉぉっ。」
ティアーク王国の南の山脈の奥地にオークの巨大コロニーがあった。増えすぎたオークの一部が山から降りてきて、国境あたりをうろつくのである。放置しておくと人間の生活圏に巣を作ってしまうので駆除しなくてはならない。巨大コロニーを潰してしまえばよさそうなものだがそうもいかなかった。巨大コロニーの規模は数百で、その上オークロードと二匹のオークジェネラルが確認されており、王国全兵力を持ってしても手を焼くだろうと予想されていたからだ。なので、根元は放置のままで、「間引き」だけすることにしたのである。
「そういえば、今日、床を踏み抜いた女がいたよな。驚いたなぁ、名前何て言ったっけ…えーと…」
「オリヴィアですよ…あの礼儀知らずのアバズレめぇぇぇ!」
レイチェルはワインをぐびぐびぐびっと飲んだ。
「え?オリヴィアと何かあったの?聞きたい、聞きたい。」
「あいつら田舎者ですよぉぉ〜〜…口の利き方を知らないんですよっ!五級のくせして、私の方が年上なのにタメ口利きやがって!あのオリヴィア!オリヴィア!オリヴィアァァ〜〜‼︎」
「ダフネも強かったけど、オリヴィアも強そうだったなぁ…私より強いかもしれない。出身地はエステリック王国だったよねぇ…」
そう言って、ヒラリーは空になったレイチェルのコップにワインを注いだ。レイチェルはそれをまたぐびぐびと飲んで、上機嫌で喋り続けた。
「絶対ヒラリーさんの方が強いに決まってますっ!それにあいつら…絶対田舎者でふ、エふテリック出身じゃないって…ギルドマフターが言ってまひたっ…」
「ホーキンズさんが?」
「はひっ…エふテリックにあんら強い女兵士はいなひって…何とかから来たんらろう…って…」
「んんん?何とかって?レイチェル、思い出せ!」
「なんちゃらとし…へ、へ、へる?えるだったかなぁぁ〜〜…はひぅぅ…」
「レイチェルッ、まだ寝るな!もうちょっと頑張れぇぇ〜‼︎」
ヒラリーは崩れ落ちそうなレイチェルの肩を必死に揺さぶった。
「あ…ああ…思ひ出ひたかも。じょ、じょ、城塞…都市…?」
レイチェルはそのまま安らかに寝落ちした。
「城塞都市…城塞都市って何だろう…?」
ヒラリーはダフネ達の素性に関する手掛かりを掴んだ。情報屋に尋ねたら何か分かるかもしれない。
ヒラリーはカウンターで飲み潰れているレイチェルに酔い覚ましの薬を飲ませようと思い、薬が置いてある自分の部屋に向かった。
「ヒラリー、二階に上がるならコレ。」
宿主のクララおばさんからマント、皮鞄、レイピアとダガーナイフを装備してあるベルトを受け取った。レイチェルを誘って冒険者ギルドから直接来たので、一階でクララに預かってもらっていたのだ。これが運命の分かれ道だった。
赤貧亭の宿泊室は全て二階にある。真ん中の狭い廊下を挟んで右に三室、左に三室の計六室だ。ヒラリーの部屋は左側の奥の部屋だ。
ヒラリーが二階に上がると、廊下は真っ暗だった。宿泊客が起きている間は灯っているはずの燭台の火が消えていて、廊下の突き当たりの窓が開きっぱなしで建物の明かりと星空だけが確認できた。
ヒラリーは廊下を二歩進んで足を止めた。
(廊下が軋まない…)
老朽化が進んだこの宿は、どこを歩いてもギシッギシッと音がする。それが今日に限って音がしない。廊下が軋むのは、弱くなった床板が人の重みで沈み込むためだ。すでに誰かがこの廊下の上にいるのか、この暗闇のどこかに…。
ヒラリーは蝋燭を持ってくるようにクララを呼ぼうかと思った。だが、場合によってはクララを巻き込んでしまうので思い止まった。
ヒラリーは様子を見るため、もう一歩進んだ。額に何かが触れた。糸だ!それも細いが頑強に張られた糸だ!普通に歩いて進んでいたら仰け反っていただろう。
ヒラリーはすぐに剣士のスキル「風見鶏」を発動させた!このスキルは発動者に向かって高速で接近する物体を感知できるスキルである。暗闇でも、真後ろからでも感知できる。
案の定、暗闇の中から何かが飛んで来るのを風見鶏が感知した。ヒラリーは右手で持っていたマントを翻して飛来物を弾いた。二本のクナイだった。
敵が有利な場合、動かないことは下策の下だ。ヒラリーはレイピアとダガーナイフを抜くと、クナイが飛んで来た方向にダガーナイフを投げつけた。それと同時にレイピアを高速で振り回しながら闇に向かって突進した。二本の糸が切れる感触があった。
再び風見鶏が感知した。ヒラリーは床の上を飛び込み前転して飛来物を回避し、起き上がりざまに闇をZ字に斬った。何かが頭上を通過していくのを感じた。
間を置いてはいけない。振り向きざまにヒラリーは剣士のスキル「遠当て:牙突」を発動させた。このスキルは10歩先の相手に刺突攻撃を当てるスキルである。何も見えない中、当て推量で発射したので当たるかどうかは分からない。
「……っ!」
手応えがあった。
間髪入れずに剣士のスキル「疾風」を発動させた。ヒラリーは一瞬で数歩の間合いを詰めた。再び頭上に気配を感じたヒラリーは反射的にレイピアを跳ね上げた。レイピアは空を切ったが、後方でどすんという音がした。賊は着地に失敗したのである。ヒラリーが振り返ると、窓から逃げていく黒ずくめの賊の後ろ姿を見た。
ヒラリーは座り込んで一息ついた。疲れていた。連続して三つのスキルを使ったのが原因だ。スキルは体力を消費する。
「今の音はヒラリーかい?どうかしたのかい?」
クララが蝋燭を持って二階に上がってきた。
「おばちゃん…何でもないよ。ちょっとすっ転んだだけだ。」
「おや、ヒラリーでもこけることがあるんだねぇ。」
「おばちゃん、蝋燭消えてるよ。」
「あらやだ。でも、おかしいわねぇ。点けたはずなんだけどねぇ…。」
クララは廊下の燭台に火を点けると一階に降りて行った。
ヒラリーはその燭台の蝋燭を手に取って、辺りを調べ始めた。二本のクナイは床に落ちていた。もう二本は廊下の反対側の壁に突き刺さっていた。さらに床を丹念に調べてみると、数十本の長い髪の毛が散らばっているのを見つけた。拾ってみるとそれは漆黒で綺麗にまっすぐの髪の毛だった。この髪の毛には見覚えがあった。