四百八十章 糸紡ぎ車
四百八十章 糸紡ぎ車
繁忙期が過ぎたお昼頃、機織り工場にセドリックをはじめとするキャシィズカフェの面々が集まっていた。
ハンナはキャシィが持ち込んだ生糸の見本を手に取ってまじまじと見ていた。
「へえぇ〜〜、これが蚕から採取した糸…生糸の完成品なんですね…。初めて見ました。」
ハンナはエステリック王国で機織り工場で働いていた織工だが、絹糸を扱うのは初めてだった。
セドリックが言った。
「どうですか、ハンナさん。これと同じものを作れそうですか?」
ハンナは生糸の見本を指で触りながら、自分の今までの経験を頭の中に思い描いていた。
「これは…紡ぎ糸じゃなくて、単純な撚り糸ですね…」
「どう言うこと?」
「…羊毛や木綿なんかは、実は繊維がとても短いんです。それを指で撚りながら何本もの短い繊維を一本の糸にしていくんです。ですけど、この生糸は何本もの細い長い糸を単純に撚り合わせただけの糸ですねぇ…。」
要するに…蚕の繭糸は、切れなければ一本で1000〜1500mもの長さがあるけれど、一本だけでは細すぎるので数本の糸を撚り合わせて布地に適した太さの糸にするのである。
セドリックは言った。
「…で、糸紡ぎ車で…撚り糸にできる?」
「多分…。」
ハンナの指示で、熱湯を張った小さな鍋に5個の乾燥した繭を浸した。繭がある程度ふやけるまでしばらく浸けてよくかき混ぜ、繭の余分な成分を取り除いた後、ハンナはそれぞれの繭から糸口を摘み出し、それをひとつにして糸紡ぎ車のボビンのリード線に結んだ。
ハンナが糸紡ぎ車のペダルを踏むと大きなホイールがゆっくり回転し始め、それに紐で連結されたボビンも回転し始めた。すると、ボビンはリード線を巻き込み、それに続いて繭糸もボビンに巻き取られていった。
糸を手繰り出された5個の繭は鍋の中で踊るようにクルクルと回って、ハンナは左手の指で五本の糸を束ねて糸紡ぎ車に送った。糸紡ぎ車はボビンの回転によって、5本の糸に自動的に撚りがかかる仕組みになっている。
ほんの数分で、ハンナは5個の繭から生糸を巻き取ってしまい、その場にいたみんなは驚いていた。
キャシィが叫んだ。
「はやっ…私たちの今までの苦労は一体何だったんだぁ〜〜っ!」
「私の母の若い頃は、スピンドルって言う独楽みたいな道具を使って手作業で紡いでいたそうですよ…糸紡ぎ車さまさまですよね…。」
セドリックは言った。
「いいねいいね!糸紡ぎ車は十機あるから、とりあえず…母さん、キャシィ、ローラさん、それからサシャ…ハンナさんから糸紡ぎ車の使い方を習って、繭からどんどん生糸を採取していって!」
まず、グレイスが古道具屋に走って小さな鍋を十個買ってきて、その中の四個に熱湯を入れそれぞれに繭を5個ずつ浸した。グレイス、キャシィ、ローラ、サシャは糸紡ぎ車の前に座って鍋から5本の糸を摘み出してボビンのリード線に結び付けようとしたが、なかなかうまくいかなかった。最初はハンナが四人に付きっきりで手ほどきをした。
コツを掴んだ四人は繭からどんどんと生糸を採取していった。
「うはははは、これは楽だわっ!…面白いわねぇ〜〜っ!」
「楽チン、楽チン〜〜ッ!」
小一時間ほどで、ハンナを加えた五人で約300個の繭から生糸を採取した。
グレイスが調子に乗って言った。
「もっと慣れれば、一時間で500個ぐらいいくんじゃないかしらぁ〜〜。」
ハンナは五機の糸紡ぎ車からボビンを抜き取り、生糸を集めて束にして、ユグリウシアから貰った生糸の見本と並べてキャシィと二人で比較してみた。
「キャシィさん、どうでしょう…?」
「見本よりも少しゴワゴワしてるかなぁ…きっと、余分な成分が洗い流し切れてないのかもねぇ…。」
蚕の繭の糸の一本は、実は対になっている二本のフィブリンという物質とその回りを取り囲むセリシンという物質で構成されている。繭糸を撚って「生糸」にするためには、このセリシンという物質を取り除かないと生糸独特の艶が出ないのだ。セリシンはアルカリ性の灰汁や煮沸によって洗い流すことができる。
問題点はあったものの…生糸生産へのしっかりした手応えを感じ、みんなは意気揚々としていた。
キャシィが言った。
「一時間で500個の繭から生糸を採取できるってことは…二十八時間でワイン倉庫にある14000個全ての繭を処理できるわねっ!」
「…二十八時間…。」
みんなは…ちょっと意気消沈した。




