四百五十八章 徴兵
四百五十八章 徴兵
ベンジャミンはワグナー邸一階の応接間でソファに座ってワグナー男爵とワインを酌み交わしながら話をしていた。
「男爵様、法務参事官へのご就任おめでとうございます。無官の時代ともおさらばですね。」
「ありがとう、ベンジャミン君。君の言う通り、法務尚書のレスター伯爵に手土産を持っていったら…二つ返事だったよ。」
「今や、エステリックの貴族社会の勢力図はディラン派が優勢です。レスター伯爵はディラン派に鞍替えしたかったのですよ。そこへディラン伯爵と姻戚関係になったワグナー男爵様がやって来たので、渡りに船…ここぞとばかりに迎え入れてくれたのですよ…。」
「なるほどぉ…!」
「…レスター伯爵もディラン派に加わるとなると、軍務と法務という国政の重要な役どころをディラン派で固めることができます。男爵様がレスター伯爵を派閥に引き入れた事をディラン伯爵もきっと高く評価する…男爵様はディラン派の重鎮として栄華を極めることができるでしょう。」
「そ、そうか…⁉︎いやぁ、君と話をするのは楽しいなぁ…君に相談してみて良かったよ。君たちを護衛に雇って私は運が良かった!」
「いえいえ…。ただ、派閥や男爵様の立場を磐石にするためには、もうひとり仲間にした方が良いですね。中立で影響力を持つ貴族…チェンバレン伯爵なんかどうでしょうか?」
「チェンバレン殿か、なるほどな…経済力もあるし人望もある。しかし、彼は無官だぞ…?」
「男爵様、今やあなたは法務参事官ですよ。チェンバレン伯爵に形だけでも…法務系の官職を与えたら良いでしょう。」
「そ…そうか、確かに。それじゃぁ、すぐに…」
「お待ちください。チェンバレン伯爵にも思惑というものがあるかも知れません…。少しばかり、伯爵の身辺調査をしたいと思います…」
ベンジャミンはソファから立ち上がると、南向きの大きな硝子の窓から庭園を覗き見た。そして、庭園で私兵の仲間たちに稽古をつけているエビータに大きく手を振ると、さすが200度の広い視野を持つエビータはすぐにそれに気づいて、稽古を中止して屋敷の方に駆けてきた。
屋敷に入って来たエビータは言った。
「何か用か?」
「君に…ちょっと身辺調査をして欲しい人物がいるんだ。」
ワグナー男爵はエビータを見て、女である事、浅黒い肌である事に驚いた。
「お…女じゃないかっ!この女が調査をするのか…本当にできるのかっ⁉︎」
「男爵殿、このエレーナは優秀な斥候で、なおかつ私のパーティーの戦力の要です。私に忠実な部下なのでご安心ください。」
「…信じられん。」
ベンジャミンはテーブルの上の小さな木箱から男爵お気に入りの葉巻を一本取り出すと、それを上に立ててエビータに見せて言った。
「エレーナ、これは葉巻と言って…高級なタバコだ。先端の上の部分をハサミで切断して火をつけて吸うのだ…」
ベンジャミンの意をくみ取ったエビータは腰の後ろのナイフに手を掛け…次の瞬間には葉巻の先端が宙に飛んでいた。
ワグナー男爵はその光景を見て息を飲んだ。
「な…何をしたのだっ⁉︎」
「エレーナがナイフで切ったのですよ…どうぞ。」
ベンジャミンはワグナー男爵に葉巻を差し出し、男爵はそれを受け取り切断された葉巻の先端をまじまじと見ながら言った。
「ナ…ナイフ?…み、見えなかった…す、凄い腕だな…。」
エビータは言った。
「…で、誰を調べるのだ?」
「チェンバレン伯爵だ。」
その名前を聞いて、エビータは思った。
(チェンバレンって…ユーレンベルグが懇意にしている貴族じゃなかったかな…?)
ワグナー男爵は葉巻に火を点けて、ニコニコ笑いながら言った。
「そう言えば、間も無く大々的な義勇軍の『徴兵』がある。傭兵ギルドにも大規模な仕事の発注があるだろうな…」
「む…それは、どこかで戦争が始まるという事ですか?」
「その通りだ。詳しい事は言えんが…そのための準備だ。それでも、君たちのパーティーは引き続き、我が屋敷の警護をしてくれるのだろうな?」
「もちろんですよ、男爵様。」
「それを聞いて安心した。」
ベンジャミンはワグナー男爵からその情報を聞いて…内心ではほっとしていた。もし、今のワグナー邸の護衛の仕事にありついていなかったら、多分、傭兵としてベンジャミンのパーティーも戦場に駆り出されただろう。現在の待遇に比べれば、戦場で命を張って戦うのは馬鹿らしい程に安い。ギリギリセーフ…ベンジャミンは胸を撫で下ろしていた。
リヒャルド=ユーレンベルグ所有のワイン工場。朝の十時頃。
チェンバレン伯爵の身辺調査という仕事をベンジャミンから仰せつかったエビータは、ワグナー邸から外出する事が許されて久しぶりにワイン工場を訪れていた。エビータは工場の使用人に尋ねた。
「ユーレンベルグさんは?」
「…リヒャルド様でしょうか、それとも…アーネスト様?」
「ええと…父上の方です。」
「アーネスト様は昨夜から、チェンバレン伯爵様とお出かけになっておられます…。」
「…ベロニカは?」
「ああ…最近、あの方はこの時間はまだ寝ておりますよ…。」
「えっ…どうして…?」
「毎晩毎晩、お酒をお召し上がりになりまして…管を巻いては暴言を。こちらもほとほと困っております…。」
「ううう…それは…お気の毒に…。」
ベロニカはエステリックでの密偵の任務をマーゴットから無理矢理押し付けられて拗ねている。
そこにユーレンベルグ男爵が帰って来た。そして、開口一番…
「ベロニカ…ベロニカはいるかっ⁉︎」
使用人は言った。
「はぁ…寝室にいらっしゃいます…」
「すぐに叩き起こせっ!」
「しかし…」
「叩き起こせっ‼︎」
使用人は慌ててベロニカの寝室に向かった。
エビータは男爵の興奮した様子を見て、ちょっと気になって尋ねてみた。
「ユーレンベルグさん、そんなに慌てて…一体どうしたんだ?」
「イェルマがエステリックに攻撃されるかも知れないっ!この事を早くイェルマに伝えねば…ベロニカに『念話』でイェルマに知らせてもらわねばっ…‼︎」
エビータは驚いた。現在、イェルマ渓谷には主人であるセレスティシアが滞在しているからだ。
「ユーレンベルグさん、それって…すぐですか?」
「分からん…それは分からんが、エステリック王国がそちらの方向に動いているのは確かだ…。」
「近々…エステリックでは大規模な『徴兵』が行われるそうです。これって…」
「それは本当かっ⁉︎ほぼ…確定じゃないかっ‼︎」
そこにベロニカがフラフラとおぼつかない足取りでやって来た。
「うううぅ〜〜…頭が痛い…誰か、ワイン持ってきてぇ〜〜…」
ユーレンベルグ男爵はベロニカの顔を見るや否や捲し立てた。
「ベロニカッ、すぐにイェルマに『念話』を送ってくれ…イェルマが危ないっ!」
「ううう…ワイン…ワインちょうだいっ!ワインが先よ…!」
ベロニカが両手で頭を掻きむしって、酷く懇願したので…仕方なく男爵は使用人にワインを持って来させた。ベロニカは使用人からグラスを受け取るとそれを一気飲みして、さらに使用人が持っていたワインボトルを奪い取り…ラッパ飲みした。
「お…おい、ベロニカ…大丈夫なのかっ…?」
「だいじょぉ〜〜ぶ…だいじょ…」
ベロニカは突然、「うぇっ!」とえずいて口から大量の赤い吐瀉物を吐き出した。そしてそのまま…その場に崩れ落ちた。
「うおおおぉ〜〜…ベロニカ…⁉︎」
ベロニカは意識を失っていた。男爵はベロニカを抱き抱えつつ、使用人に言った。
「クレリックを呼んで来いっ!カネはいくらかかっても構わんっ‼︎」
「はぁ…しかし、アーネスト様…期待をなさいませんように…。」
「…どういう意味だ⁉︎」
「エステリックはティアークとは違います…。エステリック大神殿のクレリックの奇跡の技は廃れつつあります…ですので、期待通りの治療は受けられません。薬師をお呼びになった方が賢明かと…。」
「じゃ…両方呼べっ‼︎」




