三十九章 シーグア
三十九章 シーグア
今日は月の十五日。シーグアとの約束は午後一時だが、ヴィオレッタは朝の六時から目を覚ましていて、寝台の上でいろいろと思索を巡らしていた。
手土産を持って行った方がいいのかしら。でも、シーグアとは初対面、相手の好みがさっぱりわからない。もし、シーグアがエルフだとしたら、私の好みに合わせたらいい?いやいや、エルフだって十人十色だろう…そんなことをあれやこれや考えていた。
ヴィオレッタが赤貧亭の一階ホールに降りていくと、女主人のクララおばさんが手を休めて笑って朝の挨拶をしてきた。
「おはよう、ヴィオレッタちゃん。」
「おはようございます。」
「いつもはお昼前まで起きてこないのに、今日はどういう風の吹き回しだい?」
「人と会う約束があるので…。」
「約束は何時だい?」
「お昼です。」
「お昼って…まだ朝の七時にもなってないよ。」
「ずっと楽しみにしてたから、目が覚めてしまいました。」
クララおばさんは笑いながら、もうちょっと待ってね…と言って、沸騰した大鍋に刻んだ玉ねぎを放り込んで朝の仕込みを続けた。
しばらくして、クララおばさんが朝食に玉ねぎスープとパンを運んできたのでそれを食べた。それでもまだ朝八時を回ったところか…。
午後一時頃。ヴィオレッタはシーグア宅の下で営業をしているパン屋を訪ねた。
「よぉっ、お嬢ちゃん、また来たのかい。」
「今日は家賃を支払う十五日でしょう?シーグアさんがいらっしゃるかと思って。」
「さっきもう銀貨5枚置いてきたよ。はいこれ合鍵ね、シーグアさんに会えるといいな。」
ヴィオレッタは合鍵を受け取って、店の裏手に回った。その時、少し寒気がした。
(誰かに見られてる?…気のせいか…。)
階段を登って合鍵で扉を開けた。埃を被った廊下の上には燭台はあったが…銀貨はなかった。
「あ…銀貨がない。」
パン屋の店主は銀貨を置いたと言った。しかし、奥の黒い扉へと続く長い廊下には埃の上についたひとり分の足跡しかない。この足跡は…五日前に私がつけた足跡だ。私以外、この廊下を歩いた者はいない…ということは、シーグアまたはシーグアの関係者は銀貨を床から拾い上げると、扉には行かずそのまま立ち去ったということだ。
私の書き置きすら見ずに立ち去った、これは待ちぼうけを食らったな…と、ヴィオレッタは思った。悲しかった。それでも…一縷の望みを託して…燭台に火を点けて黒い扉に向かって廊下を歩いた。黒い扉の前まで来た。とりあえず…ノックをしてみよう…。
コンコン…
「…はい、開いていますよ…。」
か細い声で返事があった!誰かがいる‼︎
「し…失礼します。」
ヴィオレッタが恐る恐る扉を開けて部屋の中に入ると、樹状の大きな燭台が燦々と輝いており部屋全体を照らしていた。そして、部屋の奥のコの字型の書斎机の真ん中に薄いグレーの外套を纏った人物が座っており、羽根ペンを持って何やら書いているのがはっきり見えた。フードを深く被っていたので断定はできないが女性だ…シーグアは女だった。
「初めまして…ヴィオレッタと申します。シーグアさん…でよろしいですか?」
「はい、私はシーグアですよ…。間違いありません…初めまして…。」
(差し障りのない会話から入っていこう…。)
「この度は私の厚かましい要望に応えてくださりありがとうございました。」
「いえいえ…あなたは運が良かったのですよ…。」
「私はあなたの本を二冊読みました。それであなたの本の愛読者になりました…申し訳ありません、私は裕福ではないので二冊しか読む機会がありませんでした。」
「いいのですよ…。本は誰かに読んでもらって初めて価値があるものです。二冊でも読んでいただいたのなら、作家冥利に尽きますよ…。それで、その二冊とは…?」
「『第四次人魔大戦』と『イェルマ滞在記』です。とても興味深く読ませていただきました。詳細まで調べが行き届いていて、まるでその時代に生きていたかのようです…。」
「…生きておりましたよ…。本には、この目で見てこの耳で聞いたことだけを書いております…。」
「や…やっぱり!あなたはエルフなのですね?」
「…違いますよ…。」
シーグアは少し頭をもたげて、何かを念じるように宙を見つめた。その時にほんの少しだけ顔が見えた。老婆のような白髪と白い肌、それと対照的に血のような赤い目、そしてエルフの特徴である長い耳…。ただ、その表情には生気が感じられなかった。
ヴィオレッタは思い出した。何かの文献で読んだことがある。生物の中には稀に色素を持たずに生まれてくる個体があると…。シーグアはエルフのアルビノなのだろう。
後ろで物音がしたのでヴィオレッタが振り返ると、数匹の手のひら大の蜘蛛が本棚から大きな本を引っ張り出し、糸を手繰って天井まで持ち上げた。そして、無数の天井の蜘蛛がバトンリレーをするかのように本を手渡して運び、再び糸を垂らしシーグアに本を届けた。
「失礼しました…。今、執筆中の部分で地名を確認するために地図が必要になったもので…」
(何…今のは⁉︎この人が蜘蛛を操っているの?)
「私はテイマーなのですよ…。テイマーってご存知?」
「いえ…勉強不足で申し訳ありません…。」
「では、魔道士は…?」
「わかります…。」
「良かった…私は執筆の傍ら、魔法も研究しております。特に生き物を使役する魔法を専門にしておりますよ…時にヴィオレッタさん、あなたは魔法の類は使えますか…?」
「いえ、使えません。」
「おかしいですねぇ…エルフはみな精霊と交信するチャンネルを持って生まれるので精霊魔法の習得は楽なはずですよ。あなたのお仲間から教わりませんでしたか…?」
「!…どうして、私がエルフだと…?」
「失礼とは思いましたが、あなたがこの部屋に入る前に私のスキル『フォーチュンテラー』であなたの人となりを検分させていただきました…」
(あの時の寒気は、『フォーチュンテラー』のせいだったのね…!)
「実は私は極度の人見知りなのですよ…。隠れて人の話を盗み聞きするのは好きなのですが、人前に出るのは好きではありません。この姿でしょう…?私は興味のない人とは決して会いません…先ほど、あなたは運が良いと申し上げました…あなたを検分して、私はあなたに興味を持ちました。だから、会うことにしたのです…。」
(『フォーチュンテラー』…占い?何が見えるのかしら…それとも予知、予見の力…?)
「これは友人としての忠告です…多分、あなたと私は良い友人になれると思いましたから…。あなたは大変な重責を担うことになるでしょう。それを全うするためにも、精霊魔法の修練を疎かにしてはいけません…。」
「私は物心がついた時にはすでに終身奴隷でした。エルフの仲間はいませんでした。精霊魔法を覚える機会はありませんでした…」
「そうだったのですか…エルフという高貴な種族に生まれながら、なんと痛ましいことでしょう…。」
「…エルフであることを隠したかったので、先ほどは魔法は使えないと言いましたが、実は…ごくごく簡単な精霊魔法は使えます。火を起こしたり、ひと口程度の水を作ったり…。本を読むことが好きなので、その中に少しばかり精霊魔法に触れた記述があって…私なりに試行錯誤した結果です。」
「…試行錯誤…なんと素晴らしい…。その努力と精進こそが神の祝福に値するのですよ…。」
「努力と精進が神の祝福…若輩の私にはよく分かりません、ごめんなさい…」
「私の書いた『神の祝福』という本を読んでいただければと思うのですが…あいにく発禁本になってしまって…私の著作はよく発禁本になるのですよ…。真実であるがゆえに、人間には辛辣で批判的、そもすれば反体制的と捉えられてしまうのでしょうね…。押収されると敵わないので、私の著作はここには置いておりません…。余分があれば、友情の証として進呈したいところですが、あいにく私の秘密の蔵書部屋に一冊あるのみです…お許しください…。」
「いえ、お気遣いなく…その本なら禁書庫のものを写本してもらえることになっています。ひと月後には私の手元にあるはずです、『神の祝福』復刻版として…ふふふ。」
「…そうでしたか。あの本は、世界の理をつまびらかにしているという点で私の著作の中でも傑作だと自負しております…。是非是非読んでいただきたい…ただ、初期の著作なので、乱筆乱文、修辞の未熟さはご容赦ください…」
そう言うと、シーグアは先ほどと同じように、頭を持ち上げ宙を見つめて動かなくなった。しばらくして、シーグアは言った。
「…ヴィオレッタさん、しばらくこちらに滞在すると良いでしょう。お望みであれば、精霊魔法の手ほどきをして差し上げますよ…。」
「申し出は大変ありがたいです!…宿に帰っても何もすることはないし…ここにはたくさんの本が置いてあるし…でも、お邪魔では?普段は別の居宅で過ごされているのでは…?」
「…構いませんよ…。」
「それじゃあ、宿から荷物を…」
「…赤貧亭に戻ってはいけません…憲兵があなたの帰りを待っていますよ…。」
「…えっ⁉︎」
シーグアは頭をもたげて、またトランス状態に入ってしまった。




