三百五章 ロミナの歌声
三百五章 ロミナの歌声
ロミナが農産部門に異動となって約ひと月が経った。
農産部門は、とにかく重労働を強いられる部署だ。朝から晩まで働き詰めで、唯一救いがあるとすれば…食糧を作る部署なので、「お腹一杯食べられる」ことぐらいか。
毎日が忙しくて、ロミナは朝早く起きて畑に行き日が暮れるまで体を動かしていた。疲れ切った体で寝泊まりする母屋に帰ってきて夕食を摂ると、お酒の事を考える余裕もなく自分の寝台に崩れ落ちて泥のように眠り込んだ。寝ることが…幸せだった。
春蒔き小麦の種を蒔き終え、やっとひと息つけると思っていたロミナだが、そうは問屋が卸さなかった。
朝、朝食を摂って母屋の自分の寝台で横になっていたロミナは、リーダーのドーリーに叩き起こされた。
「ロミナ、今から休閑地に行くよ。」
「え…休閑地?…何ですか、それは?」
「作物を収穫した後の畑は痩せていてすぐに種や苗を植えてもうまく育たないんだ。それで肥料をやって半年休ませる…それが休閑地だ。」
ロミナが母屋を出ると、十数人の女が三頭の水牛と三台の大きな荷馬車を従えて待っていた。
母屋から3kmほど歩いて休閑地にやって来た。
すぐに仲間たちは荷車から鋤を下ろして水牛に繋ぎ、休閑地の表面を耕していった。ロミナのグループはもう一台の荷車に乗せていた森から運んできた腐葉土を背籠に入れて、耕した後の休閑地に腐葉土を鍬ですき込んでいった。二百平米はあろうかという休閑地…これを十数人で耕して肥料を施すのかと思うと、ロミナは気が遠くなりそうだった。
腰が痛い…そろそろ荷馬車に積んでいた腐葉土が無くなる。これで作業は終わりなら助かるな…ロミナがそう思っていると、もうひとつのグループが荷馬車に山盛り一杯の腐葉土を積んで戻ってきた。
(うげぇ〜〜…。)
すると、ドーリーが叫んだ。
「そっちのグループ、空になった荷馬車を引いて放牧地に行ってくれ。」
そっちのグループには…ロミナも含まれていた。なるほど…肥料を運んでくる間が休憩時間になるのか…ロミナはほっとした。
ロミナと四人の女は荷馬車を水牛に引かせて、約2kmほど歩いて西の放牧場にやって来た。
放牧地の母屋の裏側に回ると、そこには大量の堆肥があった。堆肥は熱を持ってほのかに水蒸気を上げていた。
「うっ…臭い、これって…」
「ヤギの糞だよ。良い具合に発酵してるねぇ…良い肥料になりそうだ。」
みんなは手拭いを口に巻いて、堆肥をスコップでどんどん荷馬車に移していった。余計な事は考えない…ロミナは心を殺してみんなと一緒に堆肥を荷馬車に放り込んだ。堆肥が飛び散ってロミナの顔やワンピースに掛かっても、ロミナは気に留めなかった。こうして…ロミナの慢心や自尊心は削ぎ落とされていくのだった。
堆肥を積み込む作業が終わると、母屋からヤギ飼いが出てきて今朝搾ったヤギの乳が入った壺を三つくれた。農産部門では作った農産物をお互いに「お裾分け」するという農家の風習が残っていた。決められた量の農産物をイェルマにしっかり納めていれば問題はないのだ。
堆肥を積んだ帰り道、水牛は荷馬車が重たいのか…ちょっと進んでは止まり、ちょっと進んでは止まりを繰り返した。
女のひとりが言った。
「この水牛もロミナに似て怠け者だな。」
みんな笑った。ロミナは平静を装って我慢していた。
「最初…資材調達部にいたんだよね?それから、食堂…そして最後はここ…。ロミナは何もできないんだね、何か取り柄はあるの?」
何か取り柄…そんなものがあったかしら…そういえば、小さい頃は歌が上手で人から褒められたな…ああ、今の今まで忘れていた。
「…歌が上手いよ。」
「へえぇ…じゃぁ、歌ってみてよ。」
ロミナは少し不安だった。ロミナは酷く喉を痛めていて、喘息の発作で死に掛けた。神官房のアナは完治したと言っていたけれど…あれ以来、怖くて大きな声を出していなかった。それでも…
「朝に起きて日輪を拝み、我が業を能く成す…日の落ちるを見るに家路を急ぎ、家族と共にその日の糧に感謝する…ああ、神よ、我が主よ、天の玉座におわして我らに糧を与え給う…」
讃美歌の一節だった。ロミナの予想に反して、その声は震えることなく透き通った風のようで…畑の畦道から四方の畑の隅々まで行き渡っていくようだった。
その清々(すがすが)しい声に、心が洗われるようで仲間たちはしばし我を忘れて宙を見つめていた。
ひとりの女が叫んだ。
「驚いた…ロミナって、こんなに大きな声が出せるんだ⁉︎それに、なんて綺麗な声…それに今のは何?…何の歌?」
百姓上がりの駆け込み女たちは、歌といえば労働歌と…お祭りでお酒を飲みながら歌うちょっと下品な猥歌しか知らない。
「…今のは讃美歌ですよ。神を讃える歌です。」
「続きを聞きたい!…もっと歌ってよっ‼︎」
ロミナは続きを歌った。
「…僕たる我らを見守り導き給え…ああ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレル…ヤアァ〜〜〜〜ッ…!」
ロミナの甲高い高音が空気を切り裂いて、辺り一面に響き渡った。仲間たちは人間がこんな声を出すことができるのかと驚いていた。すると…
ワオォ〜〜…ワォ、ワオォ〜〜ン…
ワォワォ…ワオォ〜〜ン…ワォォォ…
みんなの背中側…はるか遠くの放牧地の方角から牧羊犬たちの遠吠えがかすかに聞こえてきた。
「わっ…犬たちがロミナの声に応えてるよっ!ロミナの声が放牧地まで届いてるってこと?…信じられないっ‼︎」
ロミナ自身も驚いていた。少し喉が張ってはいるけれど、ここまで声が出るとは…!
(声が…声が戻ってる…⁉︎)
農産部門で働いたこのひと月、ロミナは体を動かし汗をかき…新陳代謝が盛んになって体質が改善していた。その上、お酒や塩味甘味の強い刺激物とは縁遠い生活を送っていたので…それが喉には良かった。
農産部門の仲間たちは初めてロミナに興味を持ち、歌はどこで覚えたの?イェルマに来る前は何をしてたの?…と、ロミナの過去を聞きたがった。
西の放牧地から堆肥を運んできたロミナたちに、ドーリーが声を掛けた。
「そろそろお昼だ…切りがいいから昼食にしようか。」
ひとりの女が引いてきた小さな荷車にみんなが群がって、積んできたおにぎりを我先に奪い合った。
「慌てるなぁ〜〜、ちゃんとひとり二個づつあるから!」
農産部門に限って、朝、昼、晩と一日三食の配給がある。そうでなければ、農産部門での過酷な肉体労働に耐えられないからだ。
ロミナは両手にひとつずつ持って、おにぎりを頬張った。お米のご飯にも慣れた、ウシガエルの肉も食べられるようになった…とにかく、好き嫌いを言っていては農産部門では生きていけなかった。
ロミナの周りに農産部門の仲間たちが集まってきた。
「ねぇ、みんな知ってる?ロミナって凄く歌が上手いのよ。あんな美しい歌声は今まで聴いたことがないわ。」
「ええっ、ロミナがぁ〜〜?嘘でしょう…。」
「嘘じゃないわ。ねね、ロミナ…もう一度みんなの前で歌ってみせてよ!」
ロミナはおにぎりを食べ終わると、皮袋の水をひと口飲んで…歌い始めた。
「今宵も窓辺から月を眺める。あの三日月はあなた…あなたの横顔に似ていると思わない?お月様には何回も言えるのに、何十回だって言えるのに…あなたの前では何も言えなくなってしまう。愛してる…のひと言がなぜ言えないのかしら…」
ひと昔前に貴族のサロンでもてはやされた流行歌だった。みんな、ロミナの歌声におにぎりを口に運ぶのも忘れて聞き惚れていた。
ドーリーが言った。
「良い声だねぇ…。人間、何か一つは取り柄ってものがあるもんだよ。人によってそれは器量だったり、真面目さだったり、頭が良いとか、料理が上手いとか…お前の取り柄はその声だったんだねぇ…」
ドーリーの言葉に…ロミナは悟った。この声こそが私の唯一の取り柄…歌こそが私に残された最後の希望…きっとこの声は神様が下さったもの、それを私はずっとないがしろにしてきたんだ。私はもっともっとその神様の賜物を大切ししなきゃいけなかったんだ。
ロミナは再び歌い始めた。
「私の宝物…神様が与えてくださった素晴らしい賜物。他には何もいらない。私はこの声と共に生きよう…生涯歌を歌って暮らそう。そして、歌うたびに…神に感謝を捧げよう!ハレルヤ…ハレルヤ…ハレル…ヤアァ〜〜〜〜ッ!…」
それは流行歌ではなく、ロミナ即興の讃美歌だった。




