二百九十九章 イェルマ東城門
二百九十九章 イェルマ東城門
オリヴィアは武闘家房の房主堂の高床になった縁側で寝そべっていた。その前ではオリヴィアを慕う若いイェルメイド数人が小虎燕の型を演舞していた。
それを眺めてオリヴィアは鼻くそをほじりながら言った。
「あ〜〜っ、そこそこ。もっと腰を落としてっ!この型は基本中の基本だからね、初めは大きくゆっくり正確に…体が覚えたら小さく素早くね。常に上下の視界を意識してやるのよ。」
「オリヴィア副師範、上下の視界を意識してって…どういうことですか?」
オリヴィアは縁側から体を起こして、質問したイェルメイドの前に立った。
「わたしを攻撃してみなさい。」
若いイェルメイドは弓箭歩の順歩捶でオリヴィアの胸辺りを打った。オリヴィアは右の手のひらでそれを横に払いつつ、左足の踵で若いイェルメイドの右スネをコツンと蹴った。
「…あたっ!」
若いイェルメイドの体勢が崩れた瞬間、オリヴィアは左腕を攻撃してきた右腕に巻きつけてそのまま若いイェルメイドの体を斜め下に沈めて地面に転がした。
「分かったぁ?常に広い視界を持って、相手の足の動きも注視しとくの。…もっかい、今度はあんた。」
指名されたイェルメイドは斧刃脚(スネ蹴り)を警戒して、中定歩で防御の構えだ。オリヴィアは構わずに猿猴歩で相手の間合いに飛び込んでいって、左衝捶を打った。若いイェルメイドが右腕でそれを受け止めると、オリヴィアはさらに間合いを詰めて右の手のひらで顔面を狙った。若いイェルメイドがそれを一歩下がってかわそうとした瞬間、オリヴィアは体を捻って右足で相手の左足に足払いを掛けた。若いイェルメイドはひっくり返った。
「ね、分かったぁ〜〜?相手の上半身だけを見るんじゃなくて、視界の中に相手の下半身も入れて見れるようになりなさぁ〜〜い。」
「…はいっ!」
すると、タマラとペトラがやって来てオリヴィアに言った。
「オリヴィア、明日、東城門に行くぞ。」
「ええ〜〜…何でぇ〜〜?」
「何でじゃないだろ、もうすぐ四月十五日だ…父上の命日だ。お前も副師範なんだから。」
「…あっ、そうか…師匠の命日かぁっ!」
シモーヌは十五歳班に指令を伝達した。
「え〜〜…明日から十五歳班は、十八歳班に帯同して東城門まで移動します。そこで城門の警備をやります。」
ジェニが質問した。
「東城門って、確かその向こうは砂漠…東の世界なんだよね?」
以前、サリーから説明を受けたことがある。シモーヌは答えた。
「はい、東城門の向こうはマーラント大砂漠です。今回、東城門から来客があるので、今城門の警備をしている御大たちと警備を交代します。」
御大とは第一線を引退したイェルメイドのことだ。
イェルマ東城門は…三百年前までは東世界からの侵略者を迎え撃つ重要なポイントであったが、マーラント大砂漠にいくつもの民族国家が興りそれらが壁となって、それまでイェルマを脅かしていた侵略者はイェルマ渓谷に辿り着くことすら出来なくなった。そのため、現在では東城門は…イェルマで最も楽な警備対象となった。することと言えば、貿易商人の出入りの際に城門を開けることぐらいだ。なので、引退した予備役のイェルメイドたちが護っているのだ。
「来客かぁ…どんな人たちが来るのかしら?」
十五歳班三年目のシモーヌは神妙な顔つきで言った。
「私もまだ見たことはないですけど…『人間』じゃないみたいですよ。」
「えっ⁉︎」
クレアは目をぱちくりさせて、興奮して叫んだ。
「人間じゃないってことは…モンスター⁉︎行こう行こう、すぐ行こう!」
「クレア…明日だってば。」
次の日、射手房の十五歳班と十八歳班は食糧を積んだ馬車の後を二列縦隊でイェルマ中央通りを行軍した。
すると、その後から武闘家房の馬車が追いついてきた。
オリヴィアはジェニとサリーを見つけると、馬車を降りてジェニとサリーの横に並んで一緒に走った。
「やほぉ〜〜っ!ジェニ、サリー、結婚式以来ねぇ〜〜。」
「あれ…オリヴィアさんも東城門の警備ですか?」
「ちゃうちゃう。わたしたちはお客さんをお迎えに行くのよぉ。毎年、四月十五日の師匠の命日にやって来るの…法事よ、法事ぃ〜〜。」
サリーが言った。
「師匠って言うのは武闘家房を創設した周直様のことですよ。お客さんたち、私はチラッと見たことあるけど…あれはどう見ても…犬と猫とトカゲですねぇ…。」
「え…⁉︎」
「ぎゃははははははは、そうそう。犬と猫とトカゲがお客様よぉ〜〜っ!」
ジェニとサリーの後ろを走っていたクレアは初めてオリヴィアを見て戦々恐々としていた。
(こ…この人がイェルマの問題児オリヴィアか…凶暴にして奇人、残忍にして変人って噂だ。サリー先輩、ジェニ姉さん…オリヴィアと一体どんな間柄なんだろう⁉︎…いざとなったら、あたしがお二人を守らねばっ!)
馬車からタマラが叫んだ。
「おぉ〜〜い、オリヴィア。先に行くぞ〜〜っ!」
それを聞いたオリヴィアは慌てて武闘家房の馬車に飛び乗った。射手房の早駆けの行軍に付き合うのはさすがに嫌だったようだ。
「ジェニ、サリー…先行ってるぅ〜〜。」
武闘家房の馬車は速度を上げて、見えなくなった。
ジェニたちが東城門に到着したのは次の日の夜明け前だった。
一日じゅう走って、さすがにジェニはヘトヘトになっていた。馬車が停まるや否や、その場にへたり込んで動かなくなった。
「ふひゃあぁ〜〜…もうだめ、ホントにだめ…死にそう…死ぬ…」
すると、そこに数人の初老のイェルメイドを連れてオリヴィアがやって来た。
「あんたたち、やっと来たのねぇ〜〜。あらあら、そんなとこで寝ちゃだめよぉ〜〜。」
初老のイェルメイドの一人が言った。
「何だい、このアーチャーは…だらしないねぇ。」
「ジェニは半年前まではユーレンベルグっていうお貴族様だったからねぇ…頑張ってる方じゃない?」
「ひえぇぇ〜〜…貴族がイェルメイドかい、世も末だねぇ〜〜。どれ…」
初老のイェルメイドはジェニを抱きかかえた。
「あひゃっ…!」
オリヴィアが笑いながら言った。
「テレーズは…ばあちゃんになっても怪力だねぇ。」
「ばあちゃんは余計だよ。」
テレーズと呼ばれた初老のイェルメイドはジェニを抱えたまま東城門の方に歩いて行った。
東城門は三百年前のままで、西城門のように強化拡張されないまま旧態依然としていた。そのため、西城門は東城門に比べてはるかに小さい。
20mにも満たない横幅の城門の左右には階段が設けてあり、テルマはジェニを抱いたままその階段を登って城門の上までやって来た。
「ほりゃ、見なよ。東の地平線に日が昇るよ。せっかくイェルメイドになったなら…これを見なきゃだね。」
「あ…!」
見渡す限りの砂漠の地平に…今まさに太陽が昇ろうとしていて、黎明の紫をオレンジ色に塗り替えていた。地平線の上の大きな灯火は広大な砂漠とサバンナのありとあらゆる物に影を落とし、無数の砂丘の影が橙と黒で世界を二分していた。そして、やがて影は短くなって消え去り…雄大で荘厳なる大砂漠を夜のベールから露わにした。
ジェニの弱い視力でもそれは分かった…そして、疲れはどこかに消えていった…気がした。
(この世界に…こんな美しい場所があるなんて…)
馬車の荷下ろしを放ったらかして、サリーやクレアたちも城門の上に登ってきて、この世のものとは思えない風景を堪能した。
テレーズが言った。
「あんたたちは運が良いよ。この城門の警備の順番が丁度、武闘家房の老いぼれのあたしたちでなかったら、この朝日を見ることはできなかったんだよ。」
こういうことだ…東世界からの客は武闘家房に縁があって、武闘家房あげてもてなす。それは武闘家房OGも含まれる。奇しくもその時に武闘家房OGたちが東城門を警備する番になってしまって…交代が必要になったのである。こんな偶然は滅多にあることではない。
「非番…とは言わないが、羽を伸ばして行くと良いよ。」




