二百九十六章 ビッキーという女
二百九十六章 ビッキーという女
ハインツはいつものように粉屋の店番をしていた。
「あ、来た来た…。キャシィ、どうだった?」
「うん、上手く行ったよぉ〜〜。予想以上に上手くいってしまって…なんかちょっと怖いくらい…。」
「へえぇ。怖いくらい…って、キャシィにしてはおとなしめの反応だね。」
「え、それはどーゆー…?」
「いつもだったらさぁ…頭の上にお花を咲かせる変な踊りを踊るじゃないか。」
「むっ…あれはもう終わりましたっ!私の流行より過ぎ去りしものです…私の黒歴史に触れるのはやめてくださいっ!…それよりも荷台から穀物下ろすの手伝ってよぉ〜〜っ‼︎」
ハインツは笑いながら店の前の穀物の袋を下ろし始めた。
「うぉ…重い…。」
午後一時を過ぎて、キャシィズカフェは忙しい時間帯を乗り切って束の間の休憩を取っていた。
グレイスが言った。
「じゃぁ、ハンナ…あんたたちの部屋に案内しようかね。ここの三階だよ、着いてきておくれ。」
グレイスが階段を登ろうとすると…四人いるはずが三人しかいない。
「…またか。ビッキーはどこ行った⁉︎」
姉のカリンが慌てて探すと、ビッキーはワイン倉庫にいて…そこに置いてあるハーブティーの材料を詰めた樽に手を突っ込んで、薬草をかじっていた。
「こら、ビッキー。こっちおいで!」
ビッキーは「あう、はう…!」と意味不明の言葉を発しながら身振り手振りでカリンに何かを訴え、カリンもまた身振り手振りで返していた。そうして、カリンは何とかビッキーを連れてきた。
グレイスは…言った。
「うむむ…先が思いやられるねぇ…。」
みんなが三階に登って行った時、キャシィズカフェに珍客が再び現れた。
サムが調髪用のハサミを手入れしていると、白のシャツに極彩色のスカーフ、青のジャケットとスカートの女が店先に現れ、もじもじしてキャシィズカフェの様子を伺っていた。
サムが気づいて挨拶をした。
「や、やぁ…また来たんだね。今日は非番なんですね。」
「は…はい。あの…ハインツさんは…?」
「ハインツさんは…今日はまだ粉屋から戻ってきてないなぁ、どうしたんだろうね?五軒隣の粉屋にいるはずだけど…。」
「…五軒隣っすね…行ってみるっす。」
ジャネットは小走りで去っていった。
粉屋では、二時間掛けてようやく穀物を店内に運び込んで…キャシィが店の中で伸びていた。
キャシィはハインツに穀物の搬入を手伝ってもらったが、ハインツは非力で30kgの袋をひとりで抱えることができなかったのだ。途中までは二人で一緒に袋を抱えて運び込んでいたが、すぐにハインツがばててしまい、残りの十八袋をキャシィひとりで運び込むはめになってしまった。キャシィもまたイェルメイドの兵士とは言え…ハインツ同様に非力なのである。
「ぜぇっ、ぜぇっ…あ、あんた男のくせに…どうして私より弱っちぃのぉ〜〜…?」
「ごめん…スプーンより重たい物を持ったことがないんだ…。」
「マジかぁ…はぁっ、はぁっ…ちょっと汗が凄ぉ〜〜い…手拭い持ってきてぇ…。」
ハインツは椅子の上にだらりと寄り掛かる汗だくのキャシィに手拭いを手渡したが、それをキャシィは落としてしまった。
「…だめだ…握力がない、力が残ってない…手も足も動かん…」
ハインツは仕方がないので…本当に仕方がないので、その手拭いを拾ってキャシィの額の汗を拭った。そして手のひら、腕…。
「ねぇ、キャシィの誕生日っていつ?」
「うぅ〜〜ん?…八月四日だよぉ〜〜。」
「次の八月四日で、十八歳になるんだ?」
「そだよぉ〜〜。…うひゃひゃひゃっ、こらっ…くちゅぐったい!やめれえぇ〜〜っ…‼︎」
二人は粉屋の中で笑い合った。
その様子を物陰から見ていたジャネットは…音も立てずにその場から去っていった。
(ううう…また失恋っすね…。)
ジャネットはコッペリ村の大通りから横道に入り、人気のない場所で服飾部門で仕立ててもらった一張羅を脱ぎ、普通の麻のワンピースに着替えるとそのままイェルマへと戻っていった。
グレイスは夕食のためにジャガイモの皮を剥いていた。養い子たちはそれを見ていて…溜め息をついていた。
(はぁ…またジャガイモとパンかぁ…。)
多分、茹でたジャガイモがそのまま出てくる…。適当に塩を振って食べるのだが、美味しくない。
夕食の時間が近づいて、上階からセドリック、ハインツ、フリードランド夫妻も降りてきて、一階の厨房のテーブルは満杯となった。新しい四人の雇われ女はキャシィズカフェの組み立て式のテーブルを使った。
「ああ、ちょっと待ってくださいね。今、お茶を淹れますね。」
グレイスはお茶の準備を始めた。
食卓を囲むのは、グレイスを含めてセドリック、キャシィ、ハインツ、フリードランド夫妻、それから養い子が九人…。人数分のお茶を用意するだけでも大変だ。気を利かせた新参者の四人が動いた。
「グレイスさん、座っていてください。後は私たちがやりますよ。」
「そお、できるかい?」
テキパキと動く四人を見て、グレイスは安心した。三人は人数分の湯呑みを用意してポットのお湯を注いでいった。ビッキーはジャガイモの入った鍋をお玉で掻き回していた。
フリードランド夫妻が言った。
「おや、人を雇ったんですか?」
グレイスは苦笑いをしながら答えた。
「はあ…成り行きで…。」
セドリックがクスクスと笑っていた。
三人がお盆にお茶の入った湯呑みを乗せて、みんなの前に並べていった。すると…
「…あら?」
その場にいたみんなが辺りを見回した。厨房の中をとてもいい匂いが駆け巡ったからだ。
はっとしたグレイスが釜戸の方に走って行くと、ビッキーが白い液体の入った鍋をお玉で掬って味見をしていた。ビッキーはグレイスに気づくと、会心の出来だったようで…ご満悦の様子でグレイスに親指を立てて見せた。
「ああっ…ビッキーったら、ヤギの乳を全部使っちゃったわぁ…うう、バターも…貴重品なのに…!」
ビッキーは茹でただけのジャガイモを…おジャガごろごろのホワイトシチューに変えてしまったのだ。
グレイスは姉のカリンに文句を言った。
「あのねぇ、ここはお貴族様のレストランじゃないんだよ…こりゃ一体、どういうことだい、ええっ⁉︎」
「す…すみません。妹は美味しい料理を作ることしか頭になくて…いつも材料を無駄使いしちゃうんです。ちゃんと言っておきますから堪えてください…。」
グレイスの怒りは収まらなかったが、出来上がったシチューを捨てることもできず、仕方なくビッキーが作ったホワイトシチューにパンを付けてみんなに出した。
それをスプーンでひと匙すくって飲んだセドリックは驚いて言った。
「うわっ…これ美味いよ!ティアークの宿屋でもこれだけの物は出たことがないよ…‼︎」
それを聞いてみんなはクリームシチューにスプーンを入れた。特に、子供たちは茹でジャガがご馳走に突然変わったので大喜びだった。
グレイスもひと口飲んで…怒りがどこかに失せてしまった。
「くっ…悔しいけど、美味い。…仕方がないわねぇ…。」
ハインツは久しぶりといった顔でクリームシチューを啜っていた。
「いやぁ、美味しいですね。うちの屋敷の料理人にも引けを取りませんよ。ここのハーブティーの次に美味しいですよ、これ…うんうん。あ、このとろみは小麦粉じゃなくてトウモロコシ粉ですね?」
キャシィもひと口啜った。確かに、このしつこい舌触りはトウモロコシ粉か…。とろみを出すのに小麦粉を使わずトウモロコシ粉をこんな風に使うなんて…。多分、小麦粉が切れていたのだろう。
この世界で栽培されているトウモロコシはフリント種とデント種である。主にフリント種は食用でデント種は家畜の飼料用だ。フリント種のトウモロコシを主食にしている民族も多いが、小麦や大麦、米に比べて決して美味しいものではなく、安い飼料用のデント種を食べる貧しい人々も少なくない。焼いても茹でても美味しいスイートコーンと呼ばれる甘味種はまだこの世界には登場していない。
キャシィは何かに気づいた。
(はっ…この隠し味…それに、シチューの中のこの緑色は…⁉︎)
キャシィは慌てて椅子から立ち上がり厨房の戸棚へ向かった。瓶の中の蜂蜜が激減していた。さらにワイン倉庫の材料の入った樽を調べてみた。バジル、ペパーミント…それにとても貴重なレイシが…!
「うぎゃああぁ〜〜っ、減っとる!…こっちもやられたぁ〜〜っ‼︎」
キャシィの恨みのこもった視線をものともせず、ビッキーは自分の自信作を美味しそうに啜っていた。




