二百六十七章 ルカの妊娠
二百六十七章 ルカの妊娠
十日経ってもルカの体調不良は治らなかった。
ルカはベレッタを伴って、「北の一段目」の槍手房から「北の五段目」の神官房を目指して降り積もった雪を掻き分け山道の階段を登っていた。
ベレッタはというと…神官房にあるワインの在庫が目的である。右手にはワインが入った手土産の小さな壺を持っていたが、これも自分たちで飲むつもりである。
神官房の中に入ると、アナとクラウディア、それと十人の神官見習いが必死で乾燥させた薬草をすりこぎで潰していた。この時期は風邪で来院する患者が急増して、感冒薬を調合するのに大忙しだった。
「あら、ベレッタ師範、ルカ師範…風邪ですか?」
「違う。ルカの具合が悪くってな…ちょっと診てくれないか?」
「分かりました。では、脈を見ますね。」
アナはすりこぎの手を止めて、ルカの右の手首に指を置いた。
コロン…コロン…コロン…
「…あれれ?」
アナは少し考えて…ルカに簡単な質問をした。
「ルカさん…月のモノはありますか?」
「ん…そういえば、しばらく来てないな…。」
「う…うう…。あの、クラウディアさんも…。」
クラウディアがやって来て、ルカの脈を見た。
「ご懐妊です。新年そうそう、おめでたいことですねぇ…おほほほ。」
ベレッタが呆気に取られた顔で、改めて確認した。
「ご懐妊って…ルカのお腹の中に赤ちゃんがいるってことか?妊娠ってことか?」
「赤ちゃんがいるってことです。妊娠ってことです。」
ベレッタはなぜか逆上した。
「うわわわっ!おい、ルカ…お前、妊娠って…男とやったのか⁉︎」
「…うぅ〜〜ん…。」
「男とセックスしたのかって、聞いてるんだよっ‼︎」
アナが慌てた。
「ちょ、ちょ…ベレッタ師範、見習いの子供たちがいます!…もうちょっと言い方を柔らかく…柔らかく、ね⁉︎」
「男と…交尾じゃなくて…まぐわうでもなくて…そんなこたぁどうでもいいっ!…身に覚えがあるのかっ⁉︎」
ルカはポツリと言った。
「…身に覚えはある。まさか、一発で着床くとはな…。」
「うへええぇ〜〜っ‼︎」
ベレッタは大声を出し、頭を抱えて神官房の講堂を歩き回った。
ルカたちがユーレンベルグ男爵をティアーク城下町まで護衛していった際、ルカだけが城下町に入り、そこで出会った極楽亭の雇われ店主ヘクターと、酒の勢いでひと晩を過ごした。たったひと晩の…一回限りの出来事だったのに、まさか妊娠するとは…。
アナは取り乱しているベレッタに言った。
「良いことじゃないですかぁ〜〜!イェルマはイェルメイドの出産を奨励してますし…そもそも、男女が睦み合って子供ができるのは自然の流れですよ。神も『産めよ、殖やせよ』って言ってますしぃ〜〜‼︎」
「…それは、そうなんだが…そういう事じゃないんだぁ〜〜…」
ベレッタとルカは小さい頃から、ランサーの技のみならず何事においてもお互いに競い合ってきた。手強いライバル同士であり、それと同時にお互いを認め合う間柄でもあった。ベレッタは漠然とだが、二人はランサーの技を極めて独身を貫き通すのだろうな…と思っていた。それなのに…ルカは男と寝て、「妊娠」にまで至った…私より先に!常に私の隣にいたはずのルカが、これは…「抜け駆け」…「先を越された」…?今までに経験した事がない程の複雑な気持ちだった。
ルカが言った。
「いつ産まれるんだ?男の子か女の子かわからないのか?」
クラウディアが答えた。
「あと、八か月…産まれてくるのは、夏の終わりぐらいかねぇ。男の子か女の子か…それは神のみぞ知る…だねぇ。ルカ師範はどっちが良い?」
「うぅ〜〜ん、男の子がいいかなぁ…。」
「…え⁉︎」
「…え⁉︎」
アナとベレッタは同時にルカの顔を見た。なぜなら、ほとんどのイェルメイドは、そこは「女の子」と答えるところだ。「男の子」が産まれたら、その子とは決別しなくてはならないのだから。
しかし、ルカの脳裏には…極楽亭で会った少年、ジョルジュの面影があった。「強くなりたい」と言って、自分に師事したあのひたむきな眼差しが忘れられなかった…自分に懐いてきて、差し出してきたジョッキを持つ小さな手が可愛くて愛おしかった。
ルカはふと思った。
(もし、男の子が産まれたら…知らない場所に里子に出すのはかわいそうだな。ヘクターが何とかしてくれないかな、手紙を出してみようかな…。)
エルフの村はすっぽり雪に埋もれていて、ゴブリンやトロルの襲撃がまるで嘘だったかのように静けさを取り戻していた。
エルフの村は太古の森の中にあるので、大雪や吹雪の日でも巨大な樹々が人々や家屋を守ってくれる。でも、寒いことには変わりはない。
古い大樹の根元にある小さな円筒家屋にセシルはいた。この円筒家屋はひとり用で、人間がギリギリ寝そべる事ができるかできないか程度の広さしかなく、セシルは厚着をして、熊の毛皮をかぶって小さな暖炉に手をかざしてその中にじっと閉じ籠っていた。外は全てが雪に閉ざされ、その上、身を切るような寒さでそうせざるを得ないのだ。
(エルフって、みんなこんな家にずっと籠っているけれど、退屈しないのかしら?)
すると、家の外で何やら音がして、扉が開いた。ユグリウシアだった。
「セシルさん、時々外を確かめて、扉の外の除雪をしてくださいな。でないと、私がお食事を持ってくることができませんよ。」
「ああ…すみません。またユグリウシア様にやらせちゃいましたね…。」
一陣の風が家屋の中に吹き込んできて、暖炉の炎を激しく揺らした。
「ひえぇ〜〜っ!寒い、寒い…は、早く扉を閉めて…‼︎」
ユグリウシアは扉を閉めると、寝台兼椅子のセシルの隣に座り、手に持っていた籠を手渡した。
「今日はセシルさんのお仲間の料理を作ってみました。お口に合うかどうかわかりませんけど…。」
セシルが籠の中を探ってみると、なんとおにぎりが入っていた。
「おおっ!おにぎりですね⁉︎…それも、表面にお味噌を塗って焼いた…焼きおにぎり‼︎…お米なんて、久しぶりですぅ、ありがとうございます‼︎」
セシルは焼きおにぎりのひとつを取り出して頬張った。
「美味しい…ユグリウシア様、美味しいですよ、これ!」
「そうですか、それは良かったです。」
焼きおにぎりを美味しそうに食べているセシルの懐から…熊の毛皮の隙間から小さな手が伸びてきて、焼きおにぎりのひと握りを掴んで引っ込んだ。
「おやおや…セイラム、こんなところにいたのですね。セシルさん、お邪魔になっていませんか?」
「とんでもない、良い暇つぶし…じゃなくて、遊び相手になってくれてますよ。」
そう言って、セシルはポケットから皮袋を取り出し、中から二十個ぐらいの小さくて平たい綺麗な小石を出してテーブルの上に並べて見せた。
「それは…?」
「おはじきですよ。小さい頃に私が遊んだ遊具です。私は孤児だったので、遊ぶといったらこんな物しかなくて…道端とかで綺麗な小石を見つけると拾って集めてたんです…」
おはじきを見るや、セイラムはセシルの懐から飛び出してきて、人差し指でおはじきを弾いて遊び始めた。
「セイラムちゃん、私より器用ですよ。対戦ルールで…今のところ、38勝19敗で私の負けです…あはは。」
「そうなのですね…セイラム、優しいお姉さんに出会えて良かったわねぇ。」
「セイラムちゃん、おはじきを弾きながら、最近は歌も歌うんですよ。」
「えええ、セイラムが歌を…⁉︎」
「ねぇねぇ、セイラムちゃん。ユグリウシア様にもセイラムちゃんの歌を聞かせてあげてちょうだいな。」
セイラムは得意満面な顔で歌い始めた。
「おはじきピョ〜〜ン、セイラムピョ〜〜ン、セシルもピョ〜〜ン…ついでに、ゴブリンピョ〜〜ン、トロルもピョ〜〜ン…ワンちゃんピョ〜〜ン…」
ユグリウシアは顔色を変えた。
「こ…この歌は、いつから…?」
「…二日前ぐらいだったかしら?急に歌い出して…」
ユグリウシアは「用事ができた」と言って、慌てた様子で扉を開け、外の雪の上を急ぎ足で歩いていった。
「あ、ユグリウシア様…籠を忘れてますよ!…ぐえっ…⁉︎」
セシルが焼きおにぎりの入っていた籠を持って外に飛び出すと、そのまま胸の辺りまで雪の中に埋まって身動きがとれなくなってしまった。
「だ…誰か、助けてえぇ〜〜…!」




