二百十章 試武 その1
二百十章 試武 その1
オリヴィアが懲罰房に入房して一週間が経った。
朝のことである。昼番がいつも通り、覗き窓から朝食を差し入れた。すると、オリヴィアがお盆を受け取りつつ…右腕を覗き窓に突っ込んだ。そして、朝食を持ってきた昼番の胸元を掴もうとした。が…逆に腕を掴まれた。
「…ん?」
「…オリヴィア、元気そうだね。」
やって来たのは武闘家房の房主、ジルだった。
「ジルゥ〜〜ッ!…遅い、遅いわぁ〜〜、来るのが遅いっ‼︎」
「いやね…マーゴットを説き伏せるのに時間が掛かってしまった…」
「ほへひゃ、ははひ(それじゃ、わたし)…ゴクン、すぐにでもここから出られるのねっ⁉︎…モグモグ…」
オリヴィアは朝食のパンを左手で頬張りながら、ジルと会話した。
「それがね…マーゴットから条件をつけられた…。」
「ぎょほへふ(条件)?」
「そう…武闘家房で一番強い者とお前を闘わせろと言うのだ。」
「ほんひゃほ(そんなの)…ゴクン、一番強いのはわたしに決まってるじゃん!」
「それで…お前が相手に勝って、一番強いことを証明できたら…魚璽をくれるそうだ。」
「おっ‼︎」
魚璽があれば、イェルマとコッペリ村を好きな時に自由に行き来することができる。
「やたぁ、やたぁ〜〜…やったっ!これで、いつでもセドリックに会いに行けるわぁ〜〜っ‼︎」
「ただし…負けた場合は…イェルマに残って、終生真面目にその技を磨くこと…その証として、武闘家房の副師範を引き受けること…だ。」
「オッケ、オッケ…わたし、負けないのでっ!」
オリヴィアは以前その技量から、ジルに師範を引き受けるように懇願されたことがあった。タマラとオリヴィアの師範、そして最終的にはどちらかが房主…これがジルの思い描いた夢であったが…師範とか副師範とか、堅苦しいのを嫌がるオリヴィアは断固としてそれを断ってきた。
「それでぇ…相手はもう決まってるのぉ?」
「タマラだよ。」
「そっか、楽勝だね!…モグモグ…。」
オリヴィアはこの試合で大敗することになる…。
オリヴィアはすぐに釈放された。そして、その日の午後一時にタマラとの試合をすることとなった。
ダフネは今日も武闘家房で、中堅相手に「鬼殺し」を使って棒術の訓練をしていた。「鬼殺し」を肩に乗せた形からの変化は、武闘家の棍棒にうまく対応できて…とりあえずの完成形が見えてきた。
ジルがオリヴィアを従えて、武闘家房にやって来た。
「あれ、オリヴィアさん?…懲罰房じゃなかったの?」
「あらぁ〜〜、ダフネじゃん。何で武闘家房に…あ、そっか、『鬼殺し』の訓練ね⁉︎…ちょっとやってみなさいよぉ〜〜。」
オリヴィアのリクエストに応えて、ダフネは武闘家としばし打ち合った。
その様子を見て、オリヴィアが言った。
「うんうん、良いんじゃない?慣れてくれば、もっとスムーズになるわね。ただ…防御から攻撃に移る時に隙ができるから、それを埋める足技を覚えたら…完璧よっ!」
そう言って、オリヴィアはあっけらかんとして去っていった。
ジルとオリヴィアが房主堂の前まで来ると…タマラがいた。タマラは薬湯が入った壺に両手を浸していた。薬湯とは薬草を煎じたり煮詰めたりして、お湯に溶かし込んだもので、苛烈な訓練をした後の拳や指などの炎症を緩和するために使う。そうしないと、長い訓練の間にダメージが蓄積して…もっと深刻な疾患を招く。
「やあぁ〜〜、タマラ。今日はよろしくぅ〜〜。…薬湯使って何かやってたみたいだけど、無駄よ無駄。」
「ふんっ…!」
「あんたなんか、朝飯前と言いたいところだけど…さっき、朝ご飯食べちゃったぁ〜〜、ごめんねぇ〜〜。」
「うぬぅ〜〜…オリヴィアァ〜〜…!」
タマラは堪忍袋の緒が切れかかってオリヴィアに突っかかっていったが、ジルが途中で止めに入った。
「待て待て、まだだ、タマラ。」
オリヴィアのそばにリューズ、ドーラ、ベラがやって来た。
リューズが言った。
「オリヴィア、タマラとやるのか⁉︎」
「うん、ここで白黒つけたる…誰が一番強いのかをっ!」
「気をつけろ…ここ一週間ぐらい、タマラとペトラはずっと巻き藁突きをやってたぞ…何だか知らんけど。」
「そっか…ふふふ。一週間程度で何ができるってのよ…。」
すると、向こうからローブを着た複数の女がこちらに向かって歩いてきた。先頭に立っているのは…マーゴットだった。
「おぉ〜〜、揃っているようだね。おお、オリヴィア、出て来たんだねぇ…。」
「…何で、ババアが…?」
「私は…立会人兼検分役じゃ。」
「あっそ…じゃ、魚璽持って、待っててねぇ〜〜。」
午後一時になった。格闘家房の周りには見物人がたくさん集まっていた。その中には…なんと、女王のボタンとクレリックのアナの姿もあった。アナは困ったような顔をしていた。多分、試合の最中に何か事故でもあった時のために呼ばれたのだろう。
マーゴットがオリヴィアとタマラの間に立って、大きな声で宣言した。
「今から、タマラとオリヴィアの試合を始める。これはオリヴィアの免責を認めるか否かの重要な試合である。我々イェルメイドは、強い者に敬意を払う。もし、オリヴィアが真に強者であるならば…私はオリヴィアに魚璽を与えるだろう。しかし、そうでないのであれば…オリヴィアに更なる試練を課す。ここにいる皆も、この試合の証人になってもらう。」
次に、ジルが宣言した。
「純粋な武の強さを試すため、武器を使わず徒手による試合とする。武闘家房の古式の作法に乗っ取り、『試武』の形式で執り行う。両者、『決死状』に署名せよ。」
決死状とは…「試合で死んでも文句は言いません。付帯事項の約束は絶対守ります」…という書面だ。
オリヴィアとタマラは決死状に自分の名前を書いた。まぁ、アナが同席している時点で死ぬことはまずないだろうが…。
武闘家房の房主堂前の広場で二人はしばし対峙し、お互いに三つのスキルを発動させて…それから歩み寄って、中定式に構えて左手の手首を交差させた。
オリヴィアは思った…房主堂ではボタン、ジル、マーゴット、アナが座って見ている。広場を取り囲む観衆の中にはリューズ、ドーラ、ベラそしてダフネもいる。無様な格好は見せられない…負けないけどっ!
オリヴィアは左足を素早く進め、右手でタマラの左手を払うと当時に左手を拳にして…タマラの顔面を急襲した。この電光石火の如き一撃に、タマラはそれを右の掌で受け止めるのが精一杯で…自分の手の甲もろともダフネの左拳が顔面に炸裂した。一瞬…タマラの視界が真っ白になった。
オリヴィアは左拳がそこそこにヒットしたのを感じ、かさにかかってたたみかけた。右のミドルキックがタマラの脇腹を捉え、その足を地に下ろすと同時に右衝捶を腹に打ち込んだ。
タマラはオリヴィアの右衝捶を左腕でガードしたが…威力を殺し切れなかった。
(うぐっ…いつもながら、オリヴィアの発勁はズシリと響く…。)
オリヴィアの攻撃は続いた。突きと蹴りのコンビネーションをタマラは鍛え抜かれた硬い左右の腕で弾いた。
(ふふふ…得意の洪拳か…。どこまでわたしの攻撃をかわし切れるかしらね!)
オリヴィアは得意の秘宗拳でタマラを翻弄した。
タマラの洪拳はガッチリと構えて体全体を長く使って正面から相手に向かっていく。それに対して、オリヴィアの秘宗拳は体を柔らかく使って、変幻自在に前後、左右に移動し…相手の虚を突いて攻める。
タマラの丸太のような腕の攻撃をかい潜り腹部に一撃、正拳突きを横に避けて脇腹に一撃と…オリヴィアの攻撃はタマラに命中していた。オリヴィアの拳撃は全てが発勁を伴っているので、地味に効く。それでも…タマラが怖れていたのはオリヴィアの「寸勁」だった。「寸勁」は「浸透勁」とも言われ…至近距離から撃たれるそれは発勁とはまた違ったダメージがあると言う。タマラはまだ、オリヴィアの「寸勁」を食らったことがなかったので、その威力についてはまだ半信半疑だった。
しばらくは洪拳と秘宗拳の攻防となった。タマラの攻撃を回避しつつ繰り出すオリヴィアの突きや蹴りは良く当たり、オリヴィアが優勢に見えた。
だが、タマラが苦し紛れに体全体で腕を大きく振ると、それは珍しくオリヴィアの顔面を直撃した。オリヴィアは横によろよろとよろめき…少し引いて、タマラとの間合いを取った。オリヴィアは右足のふくらはぎに違和感を感じて、タマラの攻撃を避け切れなかったのだった。懲罰房から出てすぐに試合に臨んだので、体が暖まっておらず、昨晩のこむら返りが後を引いていたのだ。
オリヴィアはまずいと思った。
(…長引くとまずいわねぇ…。狙っていくかぁ〜〜…。)
オリヴィアは体を小さく低くして、蟷螂捕蝉式で構えた。う、何か来る!…タマラはそう感じた。
オリヴィアは寄り足でじりっじりっとタマラに近づくと…次の瞬間、猿猴歩でタマラの懐に飛び込んだ。驚いたタマラは迎撃の右拳を繰り出した。それをオリヴィアは左腕で跳ね上げ、次のタマラの左拳を右掌で横に流した。
次からである…オリヴィアはすっと右足を前に出し、横に流したタマラの左腕をさらに左腕で押さえ込んだ。そして…ゆっくりとタマラの左の脇の下に右掌を伸ばした。
ドスン…!
脇の下の肋骨に杭を打ち込まれたような衝撃を感じたタマラは、咄嗟に数歩後ろに下がった。
「うぐぐ…げほっ…げふうっ…!」
肺が収縮したのか、一瞬呼吸ができなかった。そして、後からじわりと重い痛みが胸全体を襲った。
(ううう…これが「寸勁」の威力か…。やばいな…!)




