百九十八章 神官房始動
百九十八章 神官房始動
朝、午前六時に起床すると、アナたちは顔を洗い、着替えて房主堂のすぐ隣のベネトネリス廟に詣でた。みんなしてイェルマの崇拝する神ベネトネリスを礼拝した。
アナは他の少女たちと共に、ベネトネリス像の前にひざまずき祈りの言葉を捧げた。
「美徳と祝福の神ベネトネリスよ、我らは汝の子にして汝に忠実なる者…願わくば、神の座す清浄なる神殿に我らを住まわせたまえ。我が褥の清らかなることを願い、我が糧に虫のつくを好まず。我、禊ぎして神と共に在らん事を望む…神よ、我が願いを聞し召せ、聞し召せ…。」
しばし黙祷して、アナがみんなに言った。
「いいですか、朝と夕の二度必ず祈祷します。朝は、祈祷の後、廟のお掃除をします。各々、手拭いを持ってお掃除を始めてください。朝ご飯はその後です。」
アナは率先して、廟の掃除にあたった。アナと一番年長のメイは三脚を使って、ベネトネリス像を注意深く拭き掃除した。他の者は床や壁を拭いた。
廟の掃除が終わって房主堂に戻ると、マックスがぐったりして講堂の椅子に座っていた。顔と指先をインクで汚したマックスを見て、アナは言った。
「マックスさん、おはようございます。…汚れてますよ、顔を洗ってきてください。それと…みんなにしめしがつかないので、マックスさんも朝夕のお務めには参加してくださいね。」
「いやぁ…昨日、夜遅くまで書いていたもので…。」
「ダメですよ、あなたも僧侶見習いなのですから!」
「…はい。」
「それから、今から私たちは食堂に行きますけど…マックスさんは目立ってしまうので、あなたの分を持ってきますから待っててくださいね。」
「…はい。」
現在、イェルマにいる男はマックスだけだ。女が密集する食堂に連れて行くのは差し控えた方が良いだろうとアナは思った。
食堂で朝食を済ませると、アナたちは講堂に移動し、二つのグループに分かれてアナの講義を受けた。ひとつのグループは魔道士房出身の少女たち、もうひとつのグループは生産部出身の少女たちで…読み書き計算ができないグループだ。
マックスが羊皮紙の束をアナのところへ持ってきて言った。
「とりあえず…昨晩はこれだけ書きました…。」
「ありがとうございます。この後も、よろしくお願いしますね。」
「…はい。」
アナはマックスにセコイア教の教典を羊皮紙に筆写させていた。ウラネリスを信奉する同盟国のウラネリス教の教義なら熟知していたが、ここはイェルマ…やはり、セコイア教の経典が必要だ。
アナはメイのいるグループに向かって言った。
「メイ、この羊皮紙に書いてある文言…ここから、ここまでを板書してちょうだい。」
「分かりました。」
メイはアナから羊皮紙を受け取ると、セコイア教の教義を黒板に書いた。
「みなさん、黒板の文言をそれぞれ自分の羊皮紙に書き写してください。それが終わったら、みんなで音読しましょう。」
メイグループは黒板の文言を音読し始めた。
「名もなき神ははじめに四つの精霊を造りその力を借りて空を創り、海を創り、大地を創り、山を創り、川を創った…。名もなき神はその箱庭を眺めて良しとされた…。名もなき神はお気に入りの箱庭に色彩を求めた…。草が生まれた、花が生まれた、木が生まれた、森が生まれた…」
メイグループが音読している間に、アナはネルがいる三人のグループにアルファベットを書き込んだ羊皮紙を配った。
「最初の文字がAです。appleのA、antのA、apeのAです。次がB…beeのB、
beatleのB、bearのBです…みんな、羽ペンにインクをつけて書いてみてください…」
こうして、アナによる神学の授業はお昼まで続いた。
午後からは実習だ。実習といっても…
「神様はどんな人間を好まれるのでしょうか…それは、謙虚な人間です。では、謙虚な人間とは?まずは神様を絶対的な存在として、自分の上に置く敬虔な人間、そして…驕らず、人を見くびらず、努力を惜しまず、他人に頼らないで生きていくことができる人間です。なので、可能な限り、自分たちのことは自分たちでやっていこうと思います。これから…房主堂の周りに菜園を作って、自給自足を目指します。」
アナの言葉にメイが質問した。
「アナ様、そんなことをしなくても…私たちイェルメイドは食堂でご飯を食べることができます。菜園を作る時間があったら、その分神官の修行に専念すべきではありませんか?」
「これも神官の修行のうちですよ。食堂で誰かが用意したご飯を、毎日当たり前のように漫然と食べるのではなく…自分で野菜を作り、料理することで、お百姓さんや料理人さんの苦労をその肌で感じるのです。そうすれば、食堂でご飯を食べても、ご飯を与えてくれた人たちに対して謙虚になれます。しかし、私たちにも限界があります。例えば…今、みなさんが着ている服…これは糸を紡ぐ職人さん、生地を織る職人さん、裁断する職人さん、縫製する職人さん…たくさんの人が関わっています。それも、ひとつひとつが一生を懸けて習得する技術です。これを全部やるのは難しいですよね。でも、時々お手伝いに行って、その苦労や難しさを体験するのはアリだと思いますよ。まずは…できるところから…家庭菜園できゅうりや大根を育てるのは、難しいことではないでしょう?私は神官の修行時代にやっておりましたよ。」
菜園造りに関しては、納得して先に動き出したのはネルグループだった。出自が生産部ということもあって、自給自足という言葉に抵抗がないのだろう。それに対して、練兵部の魔道士房出身者…メイグループは、その知能の高さからエリート意識が邪魔をして、とっつきにくいのかもしれない。
アナとメイが菜園造りに必要な物の発注リストを作っていると、神官房に来客があった。レザーアーマーを装備した二人組だった。
「アナ…様。練習中に模擬戦用の剣が仲間の肩に当たってしまった…。腫れ上がっているんだ…診て欲しい。」
「触診しましょう…こちらに連れてきて、寝かせてください。」
アナは患者を講堂のテーブルの上に寝かせ、触診した。
「ああぁ〜〜…鎖骨にひびが入ってますね。…これは痛いでしょう…。」
周りで見ていた修道女…神官見習いたちは、紫色になった患部と激痛で歪んだ患者の顔を見て…自分たちの顔も歪ませた。
アナは神聖魔法「神の回帰の息吹き」で、腫れ上がった患部に吐息を吹き掛けた。すると、幹部の腫れは瞬く間に引いて、紫色も薄れていった。
「気分はどうですか?」
「うわあぁ…嘘みたいに痛みが消えました…。」
「うおおおぉ〜〜っ…!」
アナの治癒魔法を初めて見た患者の連れと神官見習いたちは、その奇跡の業に驚嘆の声を上げた。
しかし、アナは平然として患者に語り掛けた。
「できればひと晩、無理をしないでくださいね。」
「ア…アナ様、ありがとうございますっ!」
すると…患者の連れがアナに、持ってきた小さな壺を手渡した。
「アナ様、どうぞ、僅かばかりの感謝の気持ちです。」
「いえ…イェルマのクレリックとして、当然のことをしたまでで…お礼なんて要りませんよ。」
神官見習いたちは、お礼を固辞するアナをかっこいいと思った。
「どうぞっ…どうぞっ!」
「な…中は何かしら…?」
アナが壺の蓋を開けてみると…覚えのある良い匂いがした。
「えっ…ワイン⁉︎」
「アナ様はワインが大の好物とお聞きしたので…。」
「あ…ありがとうございます…。別にいいのに…。」
二人組が神官房を去って行くと、入れ違うようにして三人組が入ってきた。
「アナ様、お願いします!」
今度は腕に深い切り傷を負った患者だった。アナはそれを見ると…
「出血が酷いわね…メイ、患部の上を手拭いで縛って止血して!アビゲイル、水を桶に入れて持って来て!」
「は、は、は…はいっ!」
アナは桶の水を聖水にして幹部を消毒すると、包帯で巻いて再び「神の回帰の息吹き」を掛けた。傷口は見る見る塞がっていった。
「アナ様…凄い…‼︎」
神官見習いたちは、目を丸くしていた。
「アナ様、怪我を治していただき、ありがとうございました!些少ですが…どうぞ、お納めくださいっ!」
アナは再び壺を手渡された。
「え、これ…ワインです…よね?どうして、これを…?」
「はい、アナ様はワインに目がないから…房主が持っていけと…!」
「は…はぁ…?」
その日のうちに、四人の負傷者がやって来たが、みんなお礼としてワインを持参してきた。
(もしかして…キャシィに頼まれて「四獣」の前で「ワイン好き」を公言したのが、みんなに広まっちゃったのかしら…⁉︎)
まぁ…良しとした。アナは決してワインは嫌いな訳では…ない。




