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67 夢じゃない

 ――それから音森は、気持ちを認めた上で現状の不満をこぼしていった。


 家の経済状況的に普通のピアノが買えないという事。

 またその事で腐っていたせいで、弓山や他の知り合いのピアニストとどう接していけばいいのかわからなくなっていた事など。


「なるほどなぁ……でもさ音森、俺思うんだけど、諸々の実際問題はともかく、一番の問題は音森が不貞腐れてた事なんじゃないか?」


「そ、そんな事言ったってしょうがないでしょ? 弾けない現状は変わらないんだから……嫌にもなるよ……」


「じゃあそれ、弓山に相談してみたのかよ?」


「……」


 俺の質問に、音森は黙り込むしかないようだった。

 ベージュカラーのバッグに添えられた音森の手。その手にぐっと力が入っている。


「は、恥ずかしくて出来ないし……そんな事」


「もしかしたら力になってくれるかもしれないだろ? 恥はかき捨てるんだ。その恥ずかしさのせいで後悔しても遅いし、話した方がいいと思う」


「そ、そう……ね」


 一度折れてしまったからか、その後の音森はあっさり俺の意見に耳を貸してくれた。

 ゆっくり黒縁眼鏡を外す音森は、いたずらにフェロモンたっぷりだった。


「ていうか月村、女の子殴ったりするんだね……」


 改めて頬をさすりながら、音森は一瞬にやりと口角をあげる。


「は⁉ 殴ったって……()()()()の間違いだろ……」


「まぁいいけどさ。私もはたいたし。ふふっ。……でも私、男の子にビンタされたの初めてだったから、驚いちゃって」


「ああ。そうだったのか。初体験が俺で悪かったな」


「え、何その意味深な言い方? 誤解招きそう」


「あっ⁉ そういう意味じゃないから!」


 俺は俺で必死だったんだよ音森。それをわかってくれとは言わないけど。

 先にビンタ決めてきた音森に責められる筋合いはない、はずです。


「でもさ、ASMRを人質に取るのはずるくなかった?」


「……俺だってそんな事したくなかったよ。というか、もういいだろ! それよりピアノだよピアノ! どうするんだ――」


 俺と音森が話し込んでいた、まさにその時だった。


 ――ガララッ。


「へっ?」

「!」


 一組の教室のドアが勢いよく開けられた。


 期せずしてそこに居合わせたのは、今しがた名前のあがったピアニスト。

 コンクール常連の男子生徒・弓山大吾だった。

 昨日見たキツめの黒髪パーマ。銀縁のオシャレな丸眼鏡を掛け、当校指定の学ランに身を包んでいる。


「あれ、惹世⁉ なんで学校に……というか、なんで一組の教室……?」


 弓山は俺と音森を視界にとらえ、不思議そうな顔をしていた。


「大吾こそ……どうして学校に?」


 音森の方も驚きを隠せない様子で、弓山の事を見つめていた。


「俺は合唱部の手伝いで登校したんだよ。伴奏の譜面持ってる奴が一組の奴だから代わりに取りに来たっていうだけで――」


「ちょっと音森!」


「え?」


 俺にこっそり音森に耳打ちをした。

 これこそ運命だ。思いがけず教室へやってきたのが弓山なら、この機会を逃す手はないだろ!


「どうせだから今、弓山に気持ち打ち明けようぜ!」


「え⁉ さっき自分でも気持ちを認めたばかりなんだよ? さすがに急すぎというか……」


「こういうのは早いうちが良いんだって! 鉄は熱いうちにって言うだろ⁉ 期間空けるとどんどん言いづらくなるんだって! 今なんだよ、音森! 変えるなら今なんだ!」


 俺のお節介すぎる言葉に、音森はバツの悪そうな顔をしていた。だが、


「――……まぁ、月村の言う事も一理あるかもね。私、今日逃したらもっと言えなさそう……」


「だろ? 夏休みでまたしばらく顔合わせないとかってなったら――」


「何二人でコソコソしゃべってるんだ?」

 俺達のすぐそばに弓山が立っていた。


「うわっ!」


「うわ、とかひどいな……。ていうか、お前……一組の男子?」


 俺達を多少訝しんでいた弓山は、俺の目を真っ直ぐと捉えながら質問してきた。


「ああ。月村だ。一組の生徒」


「俺は弓山大吾。三組。音森と仲良いのか?」


「え? うーん、普通? ……ああ、そういえば音森から話があるんだってさ!」


 俺はそう言って、そばに居た音森の顔を見た。

 もう後は自分でいけるよな?

 そんな捨てられた仔犬みたいな顔をするな音森。お前なら大丈夫だよ。

 さっき俺の頬をひっぱたいた威勢があるじゃないか。


「惹世が? 何の話だよ」


「えっ⁉ ……そ、その……それは……」


 弓山に詰め寄られ、音森はたじたじになっていた。

 頑張れ音森。応援してるぞ!


 俺が横から口を挟んで会話を促す事も出来なくはないが、それはさすがに違うような気がした。


 俺が施すのは、あくまで音森の気持ちをシンプルでわかりやすい物にするだけ。その気持ちに、音森自身を向き合わせてあげるまでだ。


 それならもう完了済み。それからのアフターケアまで担う必要はない。

 少しだけ口を閉じていた音森だったが「っふぅ」と一息つくと、


「ピ、ピアノの件なんだけど……」


 緊張しつつも、弓山に話し始めたのだった。


「ピアノの件……って、もしかして再開する気になったのか⁉」

「……」


 弓山の質問に、音森はコクンとうなずいてみせた。

 緊張に加え、恥ずかしいのだろう。その顔はいつになく真っ赤だった。


「そ、そうか……」


「で、でもさ……」


「うん? でも……?」


 音森の続けた言葉に、すぐ弓山は反応してみせた。


「続けたくても、状況的に難しいんだよ。大吾……」


「状況的にって……そうなのか?」


「うん。……グランドピアノ、弾ける環境じゃ無くなったの‼ わ、私も続けたいんだよ⁉ ちゃんと続けたいって思ってるんだよ! コンクールだって出たい! ……で、でも……今、家の事情でピアノ買えなくて……そ、そもそもスランプだったし……アルバイトもしたかったから……」


「なるほどな……。そういう事だったのかよ……。なんだよ、もっと早く言えよな」


 音森の話に、弓山は耳を傾けていた。かと思えば次の瞬間。


「ククッ……フフッ、あっはっはっはっは!」


「な、何⁉」

「……?」


 急に弓山が高らかに笑い始めたのだった。

 困惑する俺と音森。その二人を前にしてひとしきり笑い終えた弓山が、ゆっくりとセリフを続ける。


「っはー……ごめんごめん。なんだ、それでピアノから離れてたのかよ」


「そ、そうだけど? どうしたの、急に笑い始めたりして……?」


「いやぁ、ちょうど良いなって思ってさ~」


「ちょうど良い?」


 ますますわからないといった様子で、音森が彼に尋ねる。


「ああ。俺の家、ピアノ教室やってるんだけど、誰か先生やってくれる人が居ないかって探してる所だったんだよ! 惹世だったら出来るんじゃないか? うち、グランドピアノあるし、教室が休みの時も弾きに来ればいいよ」


「!」


 目を見開く音森に対して、弓山はセリフを続ける。


「ちょうど人手不足みたいでさぁ。俺が教室の先生やるにしても、合唱部の手伝いとか頼まれてて無理だったし、……惹世ならうちの親もコンクールで何度か見知ってるから、たぶん問題無いと思うしなー」


「……いいの? 本当にいい?」


「ああ。確証はまだないけどな。惹世ならうちの親も採用するだろ」


 弓山の話が未だ信じられないといった様子の音森。


「よかったじゃん、音森!」


 弓山君、めっちゃ良い奴じゃないですか。


「えっ……うん……あ、ねぇ月村。ちょっと私の頬もう一回はたいて? 夢じゃないとは思うんだけど一応」


「え? いや、もうそれはいいだろ……」


 音森と俺がそんな会話をしていると、


「はっ⁉ 頬をもう一回はたく……? どういう事だよそれ⁉」


 一体何事かと弓山が騒ぎ出したのだった。


「あ、違うんだよ大吾? もう一回っていうのは、さっきちょっとした成り行きで頬をはたき合う出来事が起こったからで……」


「いや、だからそれがどういう事かって気になってるんだけど……?」


「まぁあれはすごかった。ちょっとしたプレイかと思った」


「す、すごかったのか⁉」


「こら月村! 話しややこしくするような事言わないでよね⁉」


 ――何はともあれ、音森がピアノ問題は解決したようだった。


 ピアノを弾ける環境も、さらにはアルバイトをする事情も、全て見事なまでに綺麗に片付いた。


 それもこれも弓山大吾様様だ。

 いや、ちゃんと自分の事情を話して、気持ちまでしっかりと声に出して打ち明けた音森の努力の結果だ。


 事情を一人で抱え込む必要はないんだと、俺は再認識させられる思いだった。


 音森にとって弓山がどの程度信頼をおける人物かはわからない。


 けれど、俺が伊十峯に恋愛の毒を解消してもらえたように、誰かに助けてもらう事は恥ずかしい事じゃないはずだ。


 むしろ、立派な事かもしれない。

 自分の性格や癖のような物は、そう簡単に打ち破れる物じゃないから。


 ――パチ、パチ、パチッ


「え、どうしたの? 月村」


「いや。――ただ、これがこの場に一番相応しいと思ったんだ」


 音森の姿を見て、なんとなく俺は優しい拍手を送る事にした。


「あ、ありがとう……」


 その拍手に、音森は恥ずかしさ半分嬉しさ半分といった様子で。


 教室に響き続けていた雨音は、いつしかもう聞こえなくなっていた。


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