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66 叫ぶように伝えても

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 一組の教室へ向かうも、当然そこには誰もいない。

 机と椅子がただ並べられただけの、無人の教室。

 音森は、教室に入るなり、教壇の方へ足を進めた。


「さぁ、授業始めるよ~。みんなー、席に着いて着いて~」

「え?」


 音森はそう言いながらパンパンと手をはたいた。

 なんか急に小芝居がスタートした。

 みんなーと言われても、俺達二人しか居ない。


「……おいおい、一体どうしたんだ音森……」


「ふふっ。こら! 月村君! 早く席に着いて! もう授業は始まってますよ?」


「あ、はい」


 いきなりマンツーマンの授業を始めるつもりか……?

 俺は律儀にも、大人しく自分の席に着く。


 私服姿の音森の雰囲気が、ちょうど年上に見えなくもないから困る。

 違和感ゼロだ。というか音森もこういうふざけた事するんだな……へぇ。

 もしかして夏休みの学校という非日常感に触発された……?


「よし、席に着いたね。では、本日の道徳の授業をはじめますっ!」


「道徳……? せ、先生。高校は精々倫理とかそういう方では……」


 うちの学校に道徳という科目はない。

 おそらく「道徳」の授業がある高校って珍しいんじゃないか? 懐かしいなぁ……。


「はい、そこ! 道徳と言ったら道徳をやるんです!」


 ――スチャッ。


「あ、え、眼鏡?」


 音森は、教卓の上に置いていた自分のバッグから黒いフレームの眼鏡を取り出し、素早くその目元に掛けた。


「音森って……あ、音森先生って、眼鏡掛けてましたっけ?」


「先生のこれはファッションですよ」


 そう言って、眼鏡のブリッジをクイッとあげる音森。

 あ、黒縁眼鏡の音森も良い。普通にイケてるから理不尽過ぎる。

 というか、黒縁眼鏡と泣きぼくろのコンボがエグい。


「……なるほど」


「先生は形から入るタイプです。さて……」


 ――その「さて」と言った所から沈黙が始まり、二分ほど何も始まらない虚無の時間が挟まった。



「――いや何もやらないのかよ⁉」


「っ~!」


 音森は、自分のおっぱじめた茶番に、終始顔を赤くしているのだった。

 無計画に寸劇なんて始めるからこんな事になるんだ。

 こっちまで小っ恥ずかしいんだけど……。


「はい、先生~。質問なんですけど」


 助け舟を出すかのように俺が手をあげると、


「あ! 良い質問ですね! はい、月村君!」


「……まだ何も言ってませんけど……」


「っ……」


 ダメだ。見ていられない。

 生徒が俺だけでよかった。

 こんな空気、他の誰かが居たら俺までむず痒くなってきそうだ。


 そこから一つ深呼吸をして、俺は昨日からずっと話したかった内容を告げる事にした。

 空気を替えよう。引き直そう。


「あの、音森先生は、まだピアノを続けたいんじゃないんですか?」


「……!」


 唐突な俺の質問を耳にした音森は、赤面していた表情から一変し、どこか浮かない顔になっていった。


「それは……」


「?」


 音森は、度の入っていない眼鏡の奥で、少し目を泳がせていた。

 それから、すぐに窓の方へ目を向ける。


「それは、……良くない質問ですね。月村君」


「……」


 音森の視線の先、窓の外は依然として雨が降っていた。

 もう小雨というより、しっかりとした雨だった。

 その雨音が、かすかに教室へ響いてきている。


「先生はどう思ってるんですか。本心を聞かせてください」


 俺の問いには、答えられない。そういった空気を出しながら、音森は、視線も顔も、ゆっくりと下へ向けていった。

 俯くその姿は、まるで先生なんて柄じゃないようで。


「月村君は、これ以上先生に構わないでください」


「……」


 絞り出すような声。

 音森の暗い顔付き。


 どこか思い詰めた様相を呈する音森に、俺は思わず席を立った。

 コツコツと足音を鳴らして教壇の音森に詰め寄る。


「――嫌だよ」


「っ!」


 俺の言葉に、はっとして顔をあげる音森。


「構わないでいられないから聞いてんだよ! 本心はどうなんだよ音森! お前自身、本当はまだやりたいんじゃないのか⁉」


 感情が高ぶってきた俺は、彼女の両肩を思い切り掴んでいた。

 俺は変態だし、スマートで器用な助け方なんて物は心得ていない。

 でも、伊十峯が太鼓判を押してくれたのだから、俺は俺のできるやり方でやる。

 精一杯やるんだ。お節介上等。スタンスは大事にする。覚悟しろ音森。


「……い、いいんだって。この……ままで……」


「まだお前そんな事……。じゃ、じゃあ訊くけどな⁉ なんで昨日、弓山の事を教えてくれた時、あんな寂しそうな顔してたんだよ⁉ あれはどういう気持ちで言ってたんだよ!」


「!」


「納得行く答えがちゃんとあんのか⁉ お前にまだ未練があるから、あんな辛そうな、……あんな、つまんなそうな笑顔見せてたんじゃねぇのかよ⁉」


「そ、そんなの! ……月村の思い込みだよ……。それに、仮にやる気があったって、……ピアノを好きな気持ちがあったって! ……じょ、状況だって悪いし……。今更復帰したって、コンクールに出てる人には笑われるだろうし……。そんなの、やるだけ恥でしょ……恥の上塗りだから……」


「……前にも言ったよな⁉ 周りの目なんて気にしてたら、本当にやりたい事なんていつまでたっても出来ねぇって! 後で振り返った時、やっぱりしたかったなんて後悔してもおせぇんだぞ⁉ 今やるしかないんだよ! やるための手は全部尽くしてみたのかよ!


 お前の人生は、今のお前にしか作れないんだ! 過去や未来の音森には作れないんだよ! 

 やらないって言い張るなら断言してやる! お前は今ピアノを再開しなかったら、絶対後悔するんだ‼ ずっと脳裏のどこかで、あの時やってたらどうなってたんだろうって思い返す事になるんだ‼ そんな後悔する事わかってて、お前はわざわざ後悔しに行くんだ‼」


「……しない! こ、後悔なんてしない……もう放っておいて‼」


 叫ぶように伝えても、音森の殻は破れなかった。

 その上、


 ――バシィッ。


「つっ!」


 俺は音森の右手で思い切りビンタされた。

 じんとした痛みがすぐに俺の頬を支配する。


「あっ……ごめ――


 ――バシッ。


「っ‼」


 音森にビンタされた俺は、そっくりそのまま音森にビンタをし返していた。


 二つのビンタの音は、すぐ雨音によってかき消されて。

 ただ、頬を手で抑える音森の仕草だけが、ビンタし合った事実をそこで物語っていた。


 ――雨の音がやたら強く聞こえる。


 この教室の静寂をあざ笑うような、そんな雨音に思えた。

 もうこうなったら、()()()()()()()()しかない。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 二人きりの教室で、俺達は頬を赤くしていた。

 それは恥ずかしさではなく、お互いに平手打ちではたき合ったせいだ。


 うるさい雨音に吞み込まれそうな教室。

 二人の沈黙を破ったのは他でもない俺の言葉だった。


「音森。お前が自分の気持ちを認めるまで、俺は諦めない」


「……! な、何……? どうする気? ……ふふっ、もうこれ以上何されたって、別に正直になんて――」


 音森がそう話している最中、俺は素早く自分のスマホを突き出してみせた。

 そして次の瞬間。


『こ、このくらいの近さでいい? ……っふぅ~~……っふ、っふぅー……こんな感じで……きもちいい……? きもちよくなってくれてる……? つきむら~?』


「あっ⁉ そ、それは⁉」


「フフッ……」


 俺のスマホから、音森惹世の覚束ないASMR音声が響き渡ったのだった。


「そうだ! これは、音森が伊十峯の家でASMRの練習をしていた時の音声だよ!」


「え? な、なんでそれがあるの⁉ 確か伊十峯さんのアカウントにアーカイブ残って無かったよね……⁉」


 音森は理解が追い付いていないといった様子で、目を丸くさせていた。


「ふふっ。まぁ驚くのも無理もないよな! これ、実はただ非公開にされていただけで、ちゃんとアーカイブに残っていたんだからなぁ‼」


「ウソ……でしょ?」


「あっはっはっは! 今日伊十峯に相談して、公開状態にしてもらったのさ! まぁプラべ配信だから、俺しか視聴出来ないけどな! ……でも、この音声を二学期初日から校内放送で盛大に流してみようかなぁ~! いや~、二学期早々皆驚くだろうな~! ふふっ。まさか音森が、こんなエッチな声出してるとは~!」


「絶対やめてよそんな事⁉ 本当にやめて⁉ 私、社会的に死んじゃうでしょそんなの!」


 さすがの音森も、ひどい慌てようだった。


「うーん……どうしよっかなぁ~?」


「つ……月村サイテー……! ひどすぎ! なんでそんな事っ……」


「俺はな! お前が素直にピアノ弾きたいって気持ちを認めるまで、悪魔にでも鬼にでもなるつもりだ! 最低で結構、変態で結構だ!」


「ぷふっ。何それ? どういう事なの……? ていうか変態はもう地でいってない?」


「あ、確かに」

「あははははっ!」


「とっ、とにかく! 音森がピアノやりたいって気持ちを素直に認めないなら、こいつ(ASMR音声)がどうなってもいいんだな⁉ 学校中が、音森惹世の超色っぽい『耳ふー♡』で真っピンクに染まりあがるぜ? 楽しみだよなぁ♡ くぅ~! 何なら今からちょっと職員室で放送室の鍵借りてこようかな? 忘れ物したとか嘘ついて!」


「いや、ほんっとうにやめて⁉ もう本当にわかったから‼ わかったから私の声校内で流さないで⁉」


「ふっふっふ…………それならいいんだよ」


 やっぱり音森の攻略は簡単じゃなかった。どっと疲労感が押し寄せてくる。


「はぁ……、疲れた」


「ふふっ、なんで月村が疲れてるの? というか伊十峯さん、あの音声消してなかったんだね……私の声たどたどしいし、今聞くと恥ずかしさがすごいんだけど……」


「俺にはご褒美だったんですけどね」


「変態だね、月村って」


「――おや? 二学期はピンク色に染まりたいって?」


「……すみませんでした」


 途中のやり取りはどうであれ、結果的に音森は全て素直に認めたのだった。


 伊十峯に保険としてアーカイブの件を相談しておいてよかった。

 ビンタでもまだ頑なに認めなかった時は、正直根負けするんじゃないかと冷や冷やしていた。


 これは切り札だと思っていたが、本当に使う事になるとは。



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