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62 かつてのピアニスト

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 音森と夕闇の街を歩いていた。

 北の夕空に北極星が輝いていた。

 落ち込んだ日と落ち込んだ街。幻想的な緋色の空。

 俺達の影は薄く伸ばされていく。

 地元というわけでもないので、俺は音森に道案内をお願いしていた。


「いやぁ、それにしても結構食べたな」

「結局、月村はお肉ばっかり食べてたね。ぷふっ」


「そういう音森こそな⁉」

「あはは! 言えてるかもね――」


 センチメンタルになりがちなこの黄昏時に、音森の笑う顔はとても引き立って見えた。青春物の映画のワンシーンみたいだ。


 音森惹世は、いつにも増して大人っぽい。

 暗めの茶髪に染めたポニーテールも、切れ長の瞳とそこに従えた涙ぼくろも。

 ニヒルな印象さえ受ける微笑みも、彼女を彼女たらしめている要素の一つに思える。


 だからだろうか。

 俺は彼女に尋ねてもいいような気がしていた。いや、そもそも尋ねて悪いわけじゃない。

 音森が、なぜこの前、俺を騙してまで伊十峯と引き合わせていたのか。

 その真相を、今なら自然に教えてくれそうだと感じる。


「なぁ音森」

「何?」

「……この前、俺の事騙したじゃん」

「待って? 騙したって言われると人聞き悪いなぁ。……まぁ確かにそうなんだけど」


「それって、元々伊十峯から何か聞いてたって事? 女子同士で秘密の恋バナしてたとか」

「え~? 別に恋バナがあったわけじゃないよ?」


「あ、そうなんだ」


「うん。……たださぁ、私が伊十峯さんの家に行った日あったでしょ? ほら、ASMRの事色々教えてもらった日。あの日の伊十峯さんの様子見てて、なんとなくわかったんだよね。月村の事、好きなんじゃないかなって」


「……」


「だから伊十峯さんにキャットークで相談したんだよ。そしたら、明言はしなかったんだけど、まぁ察するよね。伊十峯さん、わかりやすいしさ~」


 音森は進行方向の空をやや見上げがちに話していた。


「でもよかったのかよ。一応、自由に男子を使えるチャンスだったのに」

「え? あはははっ、何その言い方!」

「いや……そう無いだろ。男子っていうか、人に言う事聞いてもらうとか」

「確かにね~。まぁ、でもいいんだよ。これで」


「……」


「月村にASMRの事で応援してもらえた時から、私も誰かを応援してあげたいなって気持ちになってたんだ。だからこれでいいんだよ」


「ふふっ」と微笑みながら歩く音森に合わせ、ポニテがさらっと揺れる。

 俺は、自分が音森の事を応援してあげた時の事を思い出していた。



 ――どこが悪いんだよ! 音森がそれをやってみたいと思ってるなら、頑張ってやってみればいいだろ? 周りの目とか気にしてたら、いつまでたっても自分が本当にやりたい事なんてできねぇぞ!



 確かそんな事を口にしていた。

 でもそれは、ひょっとしたら俺が俺自身に向けて言いたかった言葉なのかもしれない。女子の裏の顔を気にして、恋愛を恐れていた臆病な自分に向けて。


 決して意識していたわけじゃないが、今思えば俺にも刺さる言葉だ。

 俺は誰かに背中を押してほしかったのかもしれない。

 錯綜した人間関係や、穿(うが)った見方しかできない自分に、わかりやすくピリオドを一つ打ってほしくて。


「とりあえず花火、ドラッグストアで買う? スーパーとかホームセンターってあんまり近くにないんだよね、この辺」


「田舎悲しいな」


「そうだよ、悲しいんだよ田舎はね。ぷふっ」


 音森に促され、俺達はドラッグストアへ足を踏み入れた。

 昨今、取り扱い商品の手広さに目を見張るものがあるドラッグストアは、こんな田舎町でも珍しくない。


 そこで俺達は花火を見繕う事にした。

 真夏だからか、花火の特設コーナーが設けられていて、ダンボールに入れられた花火が通路の真ん中に山を築いていた。


 山の前で見繕っていると、俺は不意に尿意を催し、トイレへ向かった。


 用を足して花火の特設コーナー付近へ戻ってくると、商品の前で音森が誰かと話している所が見えた。


「なぁ! 惹世! 本当にもう戻ってくるつもりはないのか?」


「……」


 音森にそう話し掛けていたのは、色白で中肉中背の男子だった。

 強めのパーマのかかった黒髪と、オシャレな銀縁の丸眼鏡。

 おそらく俺達と同い年くらいだろうけど、俺や降旗なんかより数段垢抜けて見える。


「聞いてるのかよ⁉」


「……しつこいよ」


「……そうかよ……。でも俺は待ってるからな」


 男子は捨て台詞のようにそう言って、音森から離れていった。

 彼が離れた所を見届け、俺はお許しが出たと言わんばかりに音森の近くへ歩み寄っていった。


「……よう、音森」


「あっ、月村……」


 少々きまりが悪いといった様子の音森は、頭の後ろをかきながら目をそらす。


「やだ。変なところ見られちゃったなぁ……」


「今のって……」


 音森は俺の顔を一瞥すると、どこか観念した様子で事情を話してくれた。


「今のは弓山(ゆみやま)大吾(だいご)。三組の男子。……とりあえず花火買う?」

「ん? そうだな」


 それなりに人気のありそうな花火のパックをいくつか買い、俺達はそのドラッグストアを出る事にした。


 お店から河川敷へ戻る途中、音森は催促もしないうちに弓山の事を話し始めた。


「弓山はピアニストなんだよ。コンクールの上位常連……というか、私の事ライバル視してる人。いや、してた人って感じかな。私はもうピアノをしばらく弾いてないんだけど、ピアノ再開しないかって未だにしつこく誘われるんだよね」


「そうだったのか……? というか、音森ってピアノ弾いてたのか!」


「うん。……前の家に、大きなグランドピアノが置いてあってさ」


「へぇ……」


 家にグランドピアノ置いてあったとか、さらっとすごい事言ってるな⁉

 実はかなりお金持ちだったんじゃないか?

 いや、でも前に、火事に遭って今はアパート暮らしだよって言っていたような……。


「置いてあったんだけど、火事で全部燃えちゃったんだよね。それが全部の理由じゃないけど、それが決定的だったの。私がピアノをやめる決定打になった……って感じ」


「ふぅーん……」


「あ、興味ない?」


「いやいや! そうじゃなくて……こういう事情って、どれだけ踏み込んでいいのかわからなくね? 話したくない事まで話させたら悪いだろ?」


「あははっ。別に気にしなくていいよそれ。私は、月村がそんな意地悪で訊いてくる男子だとも思ってないし、むしろ事情聞いてもらえたらスッキリしそう。憶測立てられて憐れまれる方が、私はよっぽど嫌だよ?」


「そういうもんか?」


「うん」


「じゃあ訊くけど、……まずどうして火事になったんだよ」


「あ、核心だね。……まぁそんな隠す事でもないんだけど、私の両親が離婚したって前に話したでしょ? うち、夫婦喧嘩が多い家でさ。……それで、確証は無いんだけど、お母さんが言うにはたぶんお父さんが火を点けたんじゃないかって。そう言ってたんだ」


「!」


「夜お母さんに起こされたんだけど、その時すでにお父さんと弟は家から出て行ってて、私とお母さんは火の回る家から命からがら逃げだして。……それからしばらくお父さん達とは音信不通になってたんだけど、火事から一か月くらいして、ようやく連絡が取れたの」


 驚きを隠しつつも、俺は音森の家庭事情を聞き続けた。

 何か言いづらい事があるのだろうとは薄々勘付いていたけど、父親が実家を放火していただなんてなぁ……。


 その放火に証拠が無いとしても、母親が父親をそういった目で見てしまう夫婦仲だった事自体が、音森をいくらでも憐れに思わせてしまう気がした。


「お父さんと弟と連絡がとれるまでの間、お母さんから言われたの。あの日の夜、色々話し合った結果、離婚する事にしたんだって」


 音森は、大した事じゃないという風に「離婚」の単語を口にする。


「……音森」

「ちょっともう、そんな辛気臭い顔しないで⁉」

「で、でもさ……」


「私は吹っ切れてるし、別にいいんだって。それに、今の時代、離婚なんて珍しくも無いでしょ? 私の周りにだってそういう家の子結構いるし、このくらいで落ち込んでたら、花の十代が水の泡になっちゃうでしょ?」


「……」

「でもそのせいでピアノを弾かなくなったのは確かだけどねー」

「さっき言ってた、決定打?」


「そうだよ。……すでにスランプ気味だった私に、終了のハンコが押された感じ? 家にピアノ無いんじゃ、ちょっとね。ピアノ貸し出してくれるスタジオとかもないし。あはは……」


 力なく笑う音森と、それを見つめる俺。

 二人の間に、シリアスで濁りきった空気が漂っていた。


「――ピアノにスランプとかあるんだな」

「え……?」


 俺の言葉に、音森が一瞬押し黙ったかと思うと、


「あはははは! もちろんあるでしょ、ぷふ。なんで無いと思ったの?」


 彼女はたまらず噴き出してしまったようだった。


「えっ⁉ いや、ピアノとか俺弾かないからわからないしな⁉」


「ふっふ……月村、面白いね。ふふっ。……ピアノもスポーツみたいな物なんだよ」


「スポーツ?」


「そう。ある所まで行くと、上達する量が少なくなっていって、分からなくなってくるの。なんだって始めたばかりの頃は、自分でも上達してる事がはっきりとわかって楽しいでしょ? ピアノも同じだよ」


「へぇ~、なるほどな。……それでスランプだったと」


「うん。ある程度弾けるようになってくるとさぁ、楽譜通りに弾けるってだけじゃなくて、その人らしさみたいな物を求められるんだよね。まぁコンクールだとそれは良くないんだけど。それでも、片鱗みたいな物は一応見せないといけない空気があったり――」


「大変なんだなぁ」


 そう言いながら、俺はスランプに苦しむ音森の姿を想像していた。

 どんな家に住んでいて、どんな風にピアノを弾いていたのか。


 立ち姿ですら大人っぽくて、品のある音森の事だから、ピアノを弾く姿はエグいくらい様になっていそうだ。


 華麗で軽やかな指裁きは、ぞっとするほど魅力的なはずだ。

 そばで拝聴する人の心を、簡単に掴んでしまう事だろうと思った。


「あ、もう片付けてるっぽいね」

「え? 音森、目が良いなぁ。暗くてよく見えなくね?」


 向こうに見えてきた河川敷は、薄暗い夕闇の底に沈んでいるようだった。

 いつの間にか日は沈んでいる。


 そんな、降旗達の居る場所へ戻る途中の事だった。

 そこから数十メートル離れた河川敷のスペースに、他のグループの姿が見えた。

 何の気なしに彼らの方を見てみると、あちらはすでに花火を手に持ち、ガヤガヤ遊び出しているようだった。

 連発される花火の閃光が、それらを持って遊ぶ彼らの顔を、薄い闇の中で浮かび上がらせていた。


「あ……!」


「どうしたの? 月村」

「いや、……まぁ何でもない」


 闇に浮かび上がる顔の中に、見覚えのある女子が居た。


 音森は気付いていないようだったが、それは、偶然にも一組のギャル軍団らしかった。

 ちょうど四人で遊んでいたらしい。


 すごい偶然だな⁉ バーベキューの時は居なかったと思うし、おそらく来たばかりなんだろうけど。


「ごめん、音森。俺ちょっとトイレに行ってくるから、これ持って先に皆と遊んでてくんない?」

「え? またトイレ? いいけど、あんまり遅いと花火残ってないかもよ?」

「まぁ、そしたらそしたらで!」


 俺は、川瀬と辻崎の仲がどうなったのか、すぐにでも聞いてみたい気持ちで一杯になっていた。喧嘩で縁を切ったとばかり思ってたんだけどな……。


 花火で遊ぶ川瀬と辻崎は、何もいざこざなんて無いただの友達のようだった。

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