59 心の毒
※更新再開しましたが、現在プロット製作中につき二日に一回程度の更新になるかもしれません。
マイペースですがなにとぞ( ゜Д゜)
それでは本編をお楽しみください。(23/03/11)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伊十峯小声と一夜を共にした次の日の朝。
俺達の寝ていたホテルの一室は、白くて薄いカーテンのせいで明るくなっていた。
朝日を浴びて、カーテンが輝き出していたからだ。
「月村君、おはよう……」
「あ、おはよう」
むっくり身体を起こして、時計を見やる。
ベッドに備え付けのもので、その時計は午前九時を示していた。
「――チェックアウト、十時だよね?」
隣で横になっていた伊十峯が尋ねてくる。
ふっくらした清潔そうな枕にぼふっと顔を埋めつつ、チラッと俺の事を見ていた。
なんだその可愛い仕草は。
「確かそうだったよ。……ところで、伊十峯」
「何?」
枕に顔を半分隠しながら応える伊十峯。
俺は、彼女にさりげなく言おうと思っていた事を口にした。
「俺達……付き合う?」
「……」
「伊十峯?」
おや? おかしい、返事がない。
昨晩の事もそうだが、以前の告白未遂からそれほど月日がたったというわけでもないし、伊十峯の気持ちに著しく変化があったとも思えない。
それなのに、何のためらいが……
「……ぃよ」
「え?」
「いいよ」
声は聞こえている。
でも依然としてその顔は枕に埋もれたまま。体勢もうつ伏せのままだ。
「え? 聞こえないよー? 伊十峯ぇー」
「い、いいよって返事したの!」
ぱっと枕から顔をあげ、体勢を起こした伊十峯は赤ら顔でそう言った。
至って真剣そうな目をしている。
「ごめん。なんだかおかしくて、ぷはっ」
「で、でも! 月村君がいけないんだよ? キッ……キス……あんなに何度もするから……。もうそんなの確認しなくても…………わかるでしょ」
「そ、それもそうだな」
その通りだと思う。
昨夜の俺達の間で、容赦の無いキスの応酬が成されていたのは事実だった。
え? そこも⁉ という所まで徹底的に口を這わせたものなので、正直キスした箇所を明記しなさい、なんて下世話な問題がテストに出てきたら、絶対嘘をつく自信がある。
そんな変態チェックテストはハナからお断りだけど。
「もう九時って。結構寝てたんだなぁ……って、伊十峯⁉」
「……え?」
ベッドの上で二人とも上半身を起こしていたのだが、伊十峯のガウンがはらりとほどけて、不安定にもやや揺らめいていた。
「前! ガウンの前がはだけて……!」
「きゃあっ!」
慌ててガウンを手で戻す伊十峯。
あわわと手早く着直す仕草は、可憐な少女そのものだった。
「ふふっ……でも、変だよね」
「何が?」
「だって昨日、月村君もっと見てたよね……? 私の……」
「っ~! ……い、いや、正直暗くてハッキリとは」
「そうなの……? あ、というかそろそろ着替えよ?」
「うん」
その後、俺達は脱衣室で交互に着替え、ホテルを後にした。
宿泊費は、一部屋に泊まったからなのか、思いのほかリーズナブルだった。
ホテルを出ると、昨夜の天候が嘘のように感じられる。
雲一つない青空。そんな冴え渡る空を仰ぎ見てから、俺達は駅へ向かう事にした。
身体に入り込む空気が美味しいのは、気のせいじゃない。
「つ、月村君……」
「ん?」
「……」
呼ばれて振り返ると、伊十峯が遠慮がちに手を伸ばしてきていた。
「そ、その……手を……」
「!」
俺は彼女が何を言いたいのか、すぐに察する事ができた。
その差し出されたかぼそい手を、俺は静かに握ってあげる。
そう、俺達は今日から恋人同士なんだ。
高校二年になって初めての交際相手だなんて、もしかしたら遅いのかもしれない。付き合う奴は中学校ですでに何人も付き合ったりしている。
同い年なのに、経験値がだいぶ違うんだよな、きっと。
たくさん交際経験がある人でも、やっぱり好きな人と初めて手を繋ぐ時のドキドキ感というのは、薄れない物なんだろうか? 二人目、三人目の交際相手とでも、初めてはドキドキする物なんだろうか?
俺は、経験者じゃないからわからない。
以前、ハプニングや成り行きで女子の手に触れた事は何回かあるけれど、正式に恋人として誰かと手を繋いだ事なんて、一度たりともなかった。それもこんな、誰にでも見られてしまいそうな屋外で……。
「つ、月村君……今、何考えてたの?」
「えっ⁉ い、いや? 別に……。伊十峯は?」
「私は……その……付き合ってから初めて手を繋げたって思って……ドキドキしてます……」
「ぷふっ。俺と同じじゃん!」
「やっぱりそうだよね⁉ ごめんなさい! は、恥ずかしいよね⁉」
「いや、全然いいよ……うん」
「そ、そうですかっ!」
午前中とはいえ、八月なのでもちろん外は暑い。
伊十峯に手汗を気取られたくはなかったが、特に隠す術もなかった。加えて、どうやら伊十峯も手汗をかいているのだと察する。
二人して手汗をかいているので、もう一体どちらの汗だかわかったもんじゃなかった。
駅に到着すると、ちょうど帰る方向の電車がやってくる五分前だった。
時刻表を調べたわけじゃない。たまたまやってきただけの電車だ。
そこに俺達は乗り込んで、冷房の効いた快適な電車で地元へと帰っていった。
帰りは進む方向が逆だからなのか、車窓に映る景色は違うもののようだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
人間、自分が幸福を感じ始めると毒素が抜けていくもので、俺はその日からそう熱心に疑似恋愛を推さなくなっていた。
ASMRは問題なく気持ち良い嗜好品であるけれど、その結果として現実の恋愛を非難するのはどうなんだろう、と思い始めていた。
過去の俺なら、視聴の度に毒を吐いていた。
口にせずとも脳裏に毒を渦巻かせていた。
その毒の矛先は、浮塚林檎率いる女子の裏の顔と口の悪さ。
それが、たった一人の女の子にデトックスされてしまうなんて、誰が予想できたんだろう。
あのホテルで一泊した日から数日が過ぎた、八月の中旬。
ぼやぼやと何もせず日がな一日過ごしていると、何もなかった所から魔法のように伊十峯の事が思い浮かんできたりしてしまう。
恥じらいとか、寂しさとか、恋慕とか、色々な質の感情を抱え込むのは予想外にエネルギーを使う。
それらを放置しておくと、俺のエネルギーはごりごりと音を立てて削られてしまう。
パソコンでいつの間にか常駐し始めているソフトみたいなもんだ。
それらを全て一斉掃射するため、俺は宿題を片付けるというメリットのある行動に出ていた。
宿題に取り掛かれば、自然と気が紛れる。
その賢明な判断のかいがあり、残っていた夏休みの宿題が全て片付いた。
晴れて、俺の気持ちの良い夏休みが芽吹いたのだった。
靴の中に石ころが云々と表現したが、その石ころはもう捨てられたわけで。
あとは思うさま堕落でもなんでもすればいい。
さて、残りの安穏たる日々をどう料理してやろう?
などと贅沢な悩みを頭に浮かべていたその日の夕方、唯一の男友達、降旗から連絡があった。
キャットークのアイコンが、いつの間にかカラオケ屋で熱唱している彼の写真になっていて、俺は思わず噴き出してしまいそうだった。
これはすごい。人って、悦に浸り過ぎると鼻の穴がぐんと大きくなるんだな。
『よー、月村生きてるー?』
『生きて宿題終わらせたわ、今日』
『マジで? いいじゃん。じゃあ今日これから三條来いや~』
『え? これから?』
時計を確認してみると、時刻はもう午後四時半だった。
『ああ。焼肉食べようぜ焼肉』
『焼肉かー』
『あ、ちなみに萌絵と音森さんもおります』
降旗的に言うイツメンという奴か。
女子二人がイツメンとか、モテる男かよ。
いや、一応そのイツメンに俺も入るんだろうか?
この時間から食べるとなれば、勿論夕食としてのお誘いなのだろう。
数日の間、特にこれといって外出もしなかった。
せっかく彼女という特別な相手が出来たものの、それらしいデートの一つもしていない。いや、正確に言えば、思い立つより先に恥ずかしさが立って、あらぬ妄想の果てに何度悶え苦しんだかわからない。
『なぁ、行こうぜ?』
『そうだなぁ……』
彼女孝行するべきだなという思いから、俺は降旗にある提案を試みる事にしたのだった。
『じゃあ、伊十峯も誘っていい?』
『いいよ』
『サンクスー』
そんなわけで、俺は降旗からの誘いをすぐに伊十峯に伝えた。
急な誘いだったにも関わらず、伊十峯は案外乗り気で、返信も早かった。
『私も月村君とどこかに出掛けたかったから……』なんて嬉しい一言も貰えた。
恋人が出来て惚気る人間は、デリカシーに欠けるとずっと思っていたが、これはデリカシーなんて欠けて当然かもしれない。
事実、可愛いんだよなぁ……。
赤子を可愛いと愛でるように、犬や猫に癒されるとツイートするように、暑い日に冷たいコーラがおいしいと感じるように、俺が伊十峯を愛くるしく想うのも、日常の些細な出来事のようになればいいのに。
そんな新たな日常茶飯事の誕生を願いつつ、俺は身支度を始めたのだった。




