58 青いキスで埋め尽くして【第二章完結】
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ほの暗い部屋の中で、俺は伊十峯とキスしてしまっていた。
「……」
キスって、もっと予兆があって、二人の合意の上でするものだと思っていた。
片方が腕を引き、身を寄せて、そしたらもう片方も呼応してあげて……。
そんな風に手順を正しく踏んで、一つの愛のサインみたいにして、口づけを交わすんだと思っていた。
映画とか、ドラマとかで見るような、あんな唐突なキスシーンはあり得ない。
予定調和でありつつどこか意表をつくような物なんて、現実に存在しないと思っていた。
それがこうして、自分の生きるリアルで起きてしまうと、途端にどうしていいのかわからなくなる。
「……」
少しの間、二人して唇を付けたままだった。
伊十峯の唇は、溶けてしまうような気持ち良さだった。
俺の口が口では無くなってしまうみたいだ。
なんだこれは。こんな柔らかい物、この世にあったのか……。
「んっ……」
「っ! ご、ごめん……」
伊十峯の声が漏れた事をきっかけに、俺はパッと口を離した。
口が離れても、お互い、口から何も言葉をこぼすことはなかった。
「……」
口を離したのに、まだそこに伊十峯の感触が残っていた。
キス……しちゃったよ……。
伊十峯とキス。
でも完全に事故だ! これは事故!
向き合った体勢のまま、視線だけはそらしていた。
おそらく俺の顔は真っ赤だ。そしてそれはたぶん伊十峯も同じ。
お互いに羞恥心で身が焦げてしまいそうだった。
「つ……月村君……が……」
「え?」
伊十峯はためらいがちにしゃべり始めた。
こんな状況で何を言うのかと思ったのだが、
「月村君が嫌じゃなかったら……い、いいよ?」
「っ⁉」
いいよ⁉
いいよってキスの事か⁉
……以前、告白未遂もあったし、そういう事なのか?
でも正式に付き合ってるわけでもないよ? そこはどうなんだよ伊十峯ええええ!
順番は⁉ ちゃんと一、二、って手順踏んでないけど、いいのか⁉
俺は、伊十峯の言葉に戸惑いを隠せそうになかった。
「で、でも……俺達って、付き合ってるわけじゃない……だろ?」
「……それはそう……だけどっ……」
「……」
だよな⁉ うんうん!
よかった! 伊十峯はまだ正常な判断ができるくらいには冷静らしい。
状況とか、すでに起きてしまった出来事のせいで、今までにないくらい混乱しているのかと思った。
「でも……」
「でも……?」
「月村君は……わ、私と……キス……したくなかった……?」
「っ~!」
なんだその究極的な質問は!
この問いに「はい」か「いいえ」の二択で答えなきゃいけないのか⁉
どの択を取るのが正解なんだよこれ⁉
どっちも正しいし、どっちも間違えてるだろ⁉
仮にどっちの選択肢を取っても、さらに賛否両論分かれるだろ!
こういう時の答え方を心得ていない俺は、まさしく童貞なのだ。
その現実に少しだけ悲しくなってしまう。
でも一番正しい答えが何かなんて、もしかしたら誰にもわからないのかもしれない。
俺は今まで、こういう窮地に立たされた時、決まってある法則に基づいた答えを出していたはずだ。
――本人のために。
そう、それを信条として、それを最良の選択だと思っていた。
俺自身が恥ずかしくても、多少痛い思いをしても。
けれど今回の場合、「伊十峯のために」答えを出すとなると、どこかおかしくなる。
伊十峯は、俺の気持ちを知りたがっているんだ。
それは間違いない。
今、目の前にいる、この長い黒髪にはだけたガウン姿の伊十峯小声は、俺の素直な気持ちを知りたがっている。
ぱっちりしていたはずの瞳は瞼を少し伏せている。恥ずかしさに勇気で耐えている。
そんな伊十峯の心情を、俺は紳士的に汲み取ってあげるべきだ。
きっと、それが誠意という物だ。
俺の気持ちをそのまま伝える事が、「伊十峯のため」の答えとイコールで結ばれているはずだ。
喉元まで出掛かっていた言葉を、俺はずいぶん久しぶりに音として発したような気がした。
「キス……。キスしたい!」
「……」
俺の嘘偽りのない言葉を、伊十峯の耳へ届ける。
伊十峯は、ただ俺の顔をじっと見つめていたようだった。
薄暗くても、その瞳にはちゃんと部屋の照明が映っているのだとわかる。
「伊十峯とキスしたい! し、したいよ! 俺はずっとずっとキスしてたい! 伊十峯とキスし続けてたい!」
「……!」
もう自分が、どんな表情をしているのかもわからない。
それくらい、俺は一杯一杯だった。
むしろ、タガが外れたように、キスキスと連呼していた。
無論、言ってる最中は、まるで心に余裕がなかった。
目をつむり、愛の告白のように思いのたけを言い放つ。
ただその後、伊十峯の言葉でハッとする。
「つ、月村君……。キスって……言い過ぎ……だよ……」
「!」
つむっていた目を開ける。
目の前にいた伊十峯は、両手で顔を覆い、頭をやや下げていた。
たまらなく恥ずかしいといった様子だった。
「私も……そ、その月村君と……キ、キス……ずっとしてたいから……」
「……うん」
「……さ、さっきも……ずっと……してたくて……。その……離れないでほしかったのに……離れちゃうから……」
「!」
耳を疑いたくなる伊十峯の発言だが、それを疑いたくない俺もいた。
「もう一回……しよ?」
伊十峯の質問に、俺はコクンとうなずいた。
こんなにドキドキする質問は、生まれて初めてかもしれない。
「しよ?」ってなんだよおおおお!
甘い声で言われたら脳がフリーズしちゃうだろ!
さっき、伊十峯が俺の耳を触るために腕を回していたけど、今度は俺の番だ。
キスのために腕を回したくなっていた。
左手を伊十峯の前に回そうとしてみる。
すると、伊十峯も回そうとしていたのか、タイミングが被りお互いの手がぶつかってしまった。
「……」
「あ、ごめん……あっ!」
――もみゅんっ。
ぶつかって弾かれた俺の手は、なんと伊十峯のガウンの中へと収まってしまった!
吸い込まれるようにして入ったそこは、下着の付けられていない伊十峯の胸元パラダイスだった。
「……ひゃあっ!」
一瞬の間を置いてから、伊十峯の甲高い声があがる。
こっちだって「ひゃあああ!」だよ伊十峯えええ!
やばいよ! これ、生だよ生ぁ! 生おっぱいってこんな感じなのか――じゃなくて!
「ご、ごめんっ‼」
俺は慌てて手を引き抜いた。
とんでもない柔らかさだった。あんなに柔らかい山に、かつて俺は出会った事がない。
あんな山ばかりなら、俺は迷う事なく将来の夢を登山家にしているだろう。
「う、ううん……大丈夫……ふふっ。月村君……いけないんだよ? 付き合ってもないのに、こういうの……」
「え……えっ⁉ で、でも伊十峯だって! キ、キスしてたいとか言ったじゃん!」
「えっ? あ、いや、そそそれは、だって……月村君があんなに正直に言うなんて……お、思ってなかった……から。私も勢いでっていうか……」
「勢い? じゃあ、伊十峯は、……本当はそうでもないって事?」
「そんな事ない! 違うの! わ、わわ私だってキスしたいもん! 月村君と「チュッ」て、キスしたい!」
「っ~!」
グハッ……。心臓への精神攻撃が行き過ぎている。
頬が勝手ににやけそうで危ない。口角が、見えない力で吊り上げられそうだった。
そんな事言われたら変態になっちゃうだろ!
いや? そういえば俺、すでに変態だったわ。
自分で認めていたはずだ。うん。俺は変態なんだ。そうだ。
「じゃ、じゃあ……」
「……うん」
そう言って、俺が伊十峯のぷるんとしたその唇に、キスをしようとした。
その時。
――♪~♪。
「うわあぁっ!」
「っ!」
急に、俺のスマホの着信音が鳴り響いた。
「ちゃ、着信⁉ ごめん伊十峯……」
「え? ううん……大丈夫」
俺は慌ててベッドから出て、デスクに無造作に置いていた自分のスマホを持ち上げた。
「あれ? お母さんから?」
着信は母親からだった。何か用事? それにしてもまさかのタイミングだな、と感じつつ、そのまま電話に対応した。
『もしもし?』
『あ! 出た! つむぎ⁉ もしもしじゃないわよ‼ あんた一体今日何時に帰ってくるつもりなの⁉』
『あ……』
そういえば母親に一切連絡していなかった事を、俺はそこで思い出したのだった。
『ああ、ごめん! 今日実は友達と遊びに出てて――』
伊十峯を「友達」という代名詞でオブラートに包み隠し、事情を説明した。
電話を切り終えて、俺はスマホでそのまま時計を確認する。
いつの間に時間がたっていたのか、時刻はもう夜の十時前だった。
「月村君の、お母さん……?」
「ああ。あははっ! 連絡し忘れてて……。あ、伊十峯は大丈夫? お家の人とか」
「うん。月村君がお風呂に入ってる時、連絡してたから」
「あ、そうなんだね……」
あの時、さり気なく連絡入れていたのか。
俺はその時、自分の事で精一杯だったからなぁ……。
けれど、これで本当に俺達の間を邪魔する者は居なくなったわけで。
こうして一度冷静に仕切り直されてしまうと、余計に緊張してしまう。
だってもう、お互いに「キスをする」合意を得てしまっていたのだから。
「月村君……?」
「え?」
「そ、その……早く……しよ?」
「! ……そうだな」
俺の胸は、キュウッとよくわからない音を発してしまいそうだった。
自分の気持ちと、伊十峯の気持ち。
そのどちらも俺は尊重しつつ、めくるめく夜の時間を過ごすことにした。
たった今覚えたばかりの、青いキスで埋め尽くして。
※お読みいただき、ありがとうございました。
今回のお話で第二巻(第二章)的な区切りになります。
次回以降の更新については、少し日が開いてしまうかと思います。
1月30日から投稿をスタートして、あっという間に更新してきたような気がしていますが、お読みいただき、ありがとうございました。そして評価やブクマをいただけて嬉しく思っています。
当小説は、皆さんの心をドキドキさせたり、ニヤニヤとさせる事はできたでしょうか?
第二章、お付き合いいただき、ありがとうございました!
次回の更新をお待ちください!




