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55 腐った林檎

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 数分前まで、俺は伊十峯の帰りが一秒でも遅くなる事を願っていた。

 イメトレに時間が必要だった。

 けど今はもうそんな事どうでもいい!

 一刻も早く帰ってきてくれ伊十峯……頼む。


「……」


 浮塚はスマホをいじりながら、足を組んでいた。

 ショートパンツから伸びて剥き出しになっていた足は、悔しいが無駄に色っぽい。

 俺は俺で、自分のスマホをいじっている。


 けれど、スマホに何が映っているのかよくわからなかった。

 画面に映し出される内容が、全然頭に入ってこない。

 隣に浮塚がいるせいだ。


「……」


 二人で同じソファに座っているからといって、何か話すわけでもない。

 少なくとも、俺はそう思っていた、のだが。


「月村君、久しぶりだねぇ~。誰かと一緒?」

 人の気も知らず、浮塚は平然と話しかけてくる。


「……一応、高校の友達と……」

「高校の友達かぁ~。いいなぁ」

「……」


 俺がそこで黙ると、またしても沈黙が続いた。

 例えトラウマ級の女子といっても、表の顔だけで言えば彼女の顔は可愛い部類だ。

 中学時代、男子から山ほど告白されていただけあり、その表面に付けたマスクは一級品だった。


 それと、俺のトラウマのせいか、沈黙の重さが常人のそれと違う。

 白々しくても、まだ何かを話していた方が良い気がした。


「……浮塚は? さ、さっきの男の人は……?」


 恐る恐る尋ねてみると、浮塚は明るく答えた。


「あ、高広? 高広は私の彼氏だよ~。かっこいいでしょ?」

「……そうだな」


 そういえば最初、そんな名前で呼んでる声が聞こえてきたなぁ、と俺が考えていると、


「月村君、今彼女とかいないの~?」

「……っ」


 浮塚は、俺の顔を覗き込むような素振りでそんな事を尋ねてきた。

 どことなく辻崎を彷彿とさせる、小悪魔的な表情。にやりと上げた口角と、少し染めた頬。


 ああ、これだ……。この男子を勘違いさせてしまうような、絶妙な態度。仕草。雰囲気。

 こんな一動作ですら中学時代を思い出してしまう。


「いないよ」

「へぇ~。そーなんだっ。嘘じゃないよね? ほんとは居るとか⁉ あはは!」


 このマスクがマスクじゃなければ、どんなにいいか。

 でも浮塚のこの表情は全て嘘だ。完璧な模造品。隠れ蓑でしかない。

 多くの男子はこの嘘に騙されて、告白して、砕け散っていった。俺のように。


「……いや、いないって」

「そうなんだー。ねぇ、私さー、今高広と付き合ってるけど、正直少しだけ退屈してるんだよねぇ~、えへへっ」


 浮塚はそんな事を言っていた。


「……?」


 もしかして浮塚は、俺がまだ浮塚の事を好きだとでも思っているんだろうか?

 わざとらしく隙を感じさせるそのセリフに、俺は妙な引っかかりを覚える。


 俺にその気がないからなのか、浮塚の発言が痛々しいものに感じられた。


 大体、「退屈」だって?

 本当に退屈だと感じていたとしても、それを他の男に相談する神経がわからない。

 せめて同性である女子に愚痴るとか、そっちじゃないのか?


 俺は、現在浮塚の彼氏だという高広さんの事を全て知っているわけじゃない。


 しかしそれでも、あの電車の中で見た彼はかっこよかった。

 誰が良くて、誰が悪いのか。あの場に居合わせた人にアンケートを取ったら、必ず全員高広さんを支持するはずだ。


 そして、たぶん彼は普段からああいう言動を迷いなく行なっている。

 だから人を注意するのも慣れた様子だったのだと思う。


 そんな、竹を割ったような性格の男を彼氏にしておいて、退屈だのなんだのぬかしている浮塚に、俺はすごく腹が立ってきていた。


 こいつは、人をなんだと思ってるんだ。


「あ、あのさ……浮塚」

「うん?」


 浮塚は、あざとく俺の顔を見つめていた。

 でもこれから話す内容のせいで、たぶんその顔は崩れていくんだろうな、と俺は確信していた。


「じ、実は……」


 怖い。

 女子に面と向かって話す事が、これほど怖い事だと思ったのは生まれて初めてかもしれない。


 いや! ここで会ったのも何かの縁だ!

 どうせ学校だって違う。もうこの先ずっと会う事もないはずだ!

 そのマスクを剥いでやりたい。

 俺が何も知らないと思ってるなら、それは大間違いだぞ浮塚。


「――前にお前が他の女子達と話してるところ、き、聞いたんだよ! 俺の告白の件をバカにしてたよな? ラ、ラブレターだって、読み上げさせてたよな? お前って本当に最低だよ‼ 人の気持ちをなんだと思ってんだよ⁉」


「……」


 俺の言葉に、浮塚はじっと目を見つめてくる。

 少しの間、何かを考え込んでいたのか、浮塚は「はぁ」と落胆の息を漏らした。


 その後、恐ろしいくらいに落ち着いたトーンで彼女は話し始めた。


「あーあ。……聞かれてたんだ、あの時。どこかで盗み聞きしてたって事?」


 そう言って、浮塚の顔が一瞬で真顔になる。


「……きもっ。超きもいんだけど。まぁ、お前のこととかどうでもいいんだけど。てかさ、消えてくんない?


 あの時は同じ学校だったから別に何もしなかったけど、私のイメージに影響無かったらマジで不登校になるまでいじめてたと思うよ? 本当に気持ち悪かったから気持ち悪いって言ってただけだし」


 浮塚はもはや別人のようだった。

 さっきまでの浮塚の面影はどこにもなくて、完全に浮塚の裏の顔がそこに現れていた。


 ハンバーガーショップで見掛けた時よりも、ずっと残忍な事を言っている気がする。

 もう学校が違うから、遠慮なく言えるのかもしれない。


「……」


 俺は返す言葉が見つからなかった。けどどこか納得している俺がいた。


 ……ああ、やっぱりそうだよな。

 思った通り、いや、それ以上の「悪女」だ。


 浮塚と別の学校を選んで正解だった。

 もし同じ高校だったらと思うと、ぞっとする。


 俺はもう告白しないにしても、他の男子は浮塚に告白してフラれていたと思う。

 男は単純だ。俺が単純であるように。

 単純でわかりやすく、純粋で、脆くて壊れやすい心の生き物だ。


 言葉による暴力がまかり通り続ける限り、浮塚みたいな女性は居なくならないんだろう。

 そうして被害者を出しておきながら、浮塚はのうのうと日々を過ごしていくんだ。

 被害者がどんな気持ちなのかも知らないで。

 なんだよそれ。……ふざけんじゃねぇよ。


「――ごめん、林檎。遅くなったわ~」


 俺が浮塚の言葉に絶句していると、高広さんがそばへやってきた。


「もぅ~、遅いよ! 何分待たせるの~?」


 彼の言葉に反応して、浮塚が声を出す。

 その声は、もうさっきまでの声じゃない。

 数分前まで俺にも向けられていた、どこに居ても人気を博す浮塚林檎の可愛らしい声だった。

 機械的なまでの豹変ぶりに、思わず称賛してやりたくなるくらいだ。


「じゃあ行こうか?」

「うん! じゃあね~、月村君!」

「……」


 高広さんに言われるまま、浮塚はソファから立ち上がった。

 立ち上がってすぐに俺の方へ振り向き、軽く手を振って、二人はソファから離れていったのだった。


 浮塚の表と裏。その切り替えに違和感はなかった。

 もはや職人技だ。職人技のクロスフェード。

 高広さんが視線を外した瞬間があっても、最後まで俺に手を振ったり、愛想を振りまいていた。


「……」


 彼らが離れていった事で、俺は肩の荷が下りたような気がした。

 一気に疲労感が押し寄せてくる。


「……月村君?」


 そんな俺に声を掛けてきたのは、トイレを終えて出てきた伊十峯だった。


「……」

「部屋に戻る?」


 俺は上手く声が出せなかった。

 気持ちの整理が上手くできていないまま、伊十峯の言葉にうなずくしかない。

 情けないが、今は何もしゃべれない。

 しゃべってしまえば、伊十峯に変化を悟られてしまうはずだ。


 あ、やばい……本当に泣いてしまいそうだ。

 ぐぐっと胸にこみ上げてきた何かを、俺は必死で抑え付けた。

 とにかく今は堪えろ、俺! 

 せめて今目の前にいる女の子に無駄な心配をさせないためにも、今は堪えるんだ。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「806号室」に着いて、電気を点ける。


 本来ならドキドキで胸一杯のはずだったのに、今は最悪な気持ちだった。

 浮塚と会話したせいで、俺は精神的にグロッキーで、自分が今どんな顔をしているのかもわからない。

 もうこのまま休んでしまいたいなぁ……。


「つ、月村君! お、お風呂どうするっ⁉」


 伊十峯のそんな言葉にも、普段の俺ならどぎまぎしていただろうけど、今は感情のまとまりが付かなくてそれどころじゃなかった。


「あ、ああ……先に入るよ」

「う、うん……」


 伊十峯は、少しだけ俺の様子がおかしい事に気付いていたようだった。

 それでも緊張と恥ずかしさから、顔を赤々と染めているのがわかる。



「……」


 ――シャアアァァァァ。


 熱めのシャワーを浴びながら、俺は物思いに耽った。


 はぁ……。さっきレストランで夕食を取っていた時までの気分が、浮塚のせいで全部ぶち壊しだ。

 今日は楽しい思い出で全て終わると思っていたのに……。


 俺は頭や身体を一通り洗い終え、脱衣室でガウンを着た。

 二人分用意されていたけど、どうやらどちらも同じサイズのようだった。


 脱衣室から部屋へ戻り、すぐに椅子に座る。

 伊十峯はベッドの方に座っていたが、俺が椅子に座ったタイミングで立ち上がった。


「わ、私も……入ってくるね……」

「うん……」


 伊十峯は居たたまれなくなったのか、ささっと脱衣室の方へ行ってしまった。


 ああ……。伊十峯には悪いけど、正直今はベッドで横になってしまいたい気分だ。

 精神状態がすごく不安定で困惑する。


 横になって、ゆっくり静かに目をつむりたい。

 脳内で時計の針を想像してなぞるような、そういう無心になれる状態になりたいなぁ……。


 それからしばらくして、脱衣室からドライヤーの音が聴こえてきた。


 伊十峯の入浴が終わったらしい。


 初めて女の子とホテルに泊まるなんて、言ってみたらかなり大人っぽい行為……のはずなのに、この俺のテンションの低さはまずい。


 シナリオとして本当に何も起きないのだとしても、十分問題だ。

 寝る前のなんてことない談笑だって、伊十峯は期待していたかもしれないのに。


「ガチャリ」と脱衣室のドアが開けられ、ガウン姿の伊十峯が出てきた。


 真っ白なガウンに伊十峯の長い黒髪はよく映えていて、豊満な胸も悩殺的なまでに目立つ。

 たぶん、俺の今の複雑な心境が無ければ、うおおお! とか思わず口走ってたんじゃないかと思う。


「っはぁ……。月村君、ここのシャンプーすごく良い匂いだね!」

「……」


 伊十峯はシャワーでさっぱりしたからか、とても気持ちよさそうにそう言っていた。

 対して、俺はまだ気持ちを整理できずにいた。


「あ、あの……月村君……何かあったの?」

「……え」


 ガウン姿の伊十峯は、椅子に座っていた俺のそばまでやってきて質問した。

 そこで俺は、トイレから戻ってきて初めて伊十峯の目をちゃんと見たような気がした。


「あ、あのね、トイレから出てすぐに月村君のところに行こうとしたんだけど、知らない男の人と女の人が一緒だったから……少し様子を見てたの。結局すぐ行っちゃったんだけど……。月村君、あの人達と何かあったのかなって思って……」


「……」


 俺は、伊十峯と少しの間だけ、無言で見つめ合っていた。

 手入れの行き届いた伊十峯の黒髪が、部屋の電気を優しく反射させていて艶やかだった。


 伊十峯の目をずっと見ていると、それまで抑え続けていた気持ちが、一気に込み上げてきているのがわかった。


「な、何でもないんだよ、伊十峯。本当に……」


「……!」


「あれっ……なんで……ご、ごめんっ。なんか急に涙が……ほんと、その……ごめん」


 俺の目から、自然と涙がこぼれていた。

 じわじわとあふれる涙は、俺の瞳から頬を伝い、顎の辺りまで走った。

 涙が一粒二粒落ちる頃、伊十峯が口を開いた。


「月村君……」


「えっ……伊十峯……⁉」


 俺が涙を拭いて顔を上げると、伊十峯は椅子のすぐ横まで来ていた。


 そして次の瞬間、俺は伊十峯に抱きしめられていた。

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