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53 紳士でいる事を

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 日の沈みかけた海岸線沿いの町。

 道路を走る車が、そろそろヘッドライトを付けるかどうか迷う時間帯だ。


 俺達が夏休み真っ最中だろうと、世間一般ではごくごく当たり前に変わらない八月が送られている。

 そんな風に感じたのは、俺と伊十峯がホテルのフロントに並んでいた時の事だった。


「――ええ、ですから今回の件は、お客様のご要望につきまして――」


 俺達の前に並んでいたサラリーマン風の中年男性が、仕事か何かの用件を気忙しく電話でしゃべり続けていた。


 こういう大人を見ると、長期休みは学生の特権なんだなぁ、としみじみ実感するわけだ。


「ホテル、近くにあってよかったね!」

「え? ああ、そうだな!」


 俺の横にいた伊十峯から、不意に声を掛けられた。

 その声は少し明るかったが、それでも緊張している様子は隠せていない。


 どことなく気を張っているのは、手提げ鞄を握りしめるその力加減で想像できる。

 もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃ……って俺も緊張してるんだけどさ。


 鯨なみ駅から徒歩十分もしないくらいで辿り着いたそこは、真っ白でやや新しそうな外観のホテルだった。


 近辺の建物にしては比較的高層で、十数階はありそうな高さ。

 内観も雰囲気も素敵だった。


 ただ俺は、宿泊費用一体いくらなんだろう? と内心お財布の心配をしていたのだった。


「なんだか、待ってる人多くないか……?」

「うん。……きっと、私達みたいに台風のせいで帰れなくなってる人もいるのよ……」

「あ、確かにそうかも。若い人多いし」


 俺達が並んで列を成しているフロント前から、少し離れた位置にロビーの待合席が設けられてあった。

 その席はほとんど埋まっていて、中には立ってる人もいるくらいだ。


 あの人達は、何かを待機しているようだった。

 それぞれの荷物を抱えていたり、足元に置いていたり。

 さっき駅で見掛けた大学生カップルのような人達も、たくさんそこに居た。


「お次の方、どうぞ?」

「あ、俺達か! はい!」


 そんな彼らの方を俺が眺めていると、いつの間にか俺達の番が回ってきていた。


「本日はご予約でしたでしょうか?」

「い、いえ! ふ、二人なんですけど、泊まれますか? 二部屋取りたいんですけど」


 受付にいた中年の女性は、礼儀正しく俺達に接客してくれた。

 礼儀正しいんだが、その表情は硬い。


「誠に申し訳ございません。本日は生憎、部屋数が残りわずかでして。……ご予約されてないお二人以下のお客様には、一部屋にお泊りいただくよう、ご案内しています」


「ひ、一部屋⁉ 二部屋はダメなんですか⁉」


 思わず大きい声を出してしまい、一瞬他の人達の視線が集まる。


「はい……。今夜は天候が悪く、お泊りになる方が多いようですので、できるだけ皆様が泊まれるようにと、支配人から緊急でそのように伝えられております」


 確かに、二人入れる部屋に一人ずつ泊まっていたら、すぐに部屋が埋まってしまうんだろう。

 いや、それにしてもだよ……。伊十峯と一つの部屋で寝泊まりはまずいだろ……。


「……い、伊十峯は、どうしたい?」


 どんな顔で聞いていいのかわかったもんじゃないけど、俺は緊張しながら質問した。


「わ、私は、つつ月村君と一緒でも……大丈夫……ですっ」


 伊十峯はきゅっと目を閉じて、そんな事を言ってみせたのだった。

 はぁ~っ! 伊十峯ー! お前は自分が何言ってるか、わかってるのか⁉


「えっ……えっと? 俺と部屋が一緒? 一緒の部屋で、俺が、えっと⁉ 何がなんだっけ⁉」


 もう頭の中がこんがらがってきた。いや、ホテルに泊まるって時点ですでにこんがらがっていた。

 同じ部屋に泊まる⁉ いいのか⁉ 大丈夫⁉ 俺が女に見えてるとかじゃないよな⁉


 俺は伊十峯にどう接すればいいんだ⁉ 前に辻崎が言ってたアレか?

「女友達カテゴリー」という事で、特に問題無しと判断するのか⁉ 

 ああ、もうわかんないって伊十峯‼


「つ、月村君と一緒の部屋でも、だっ大丈夫だから……だから……泊まろ?」

「っ~!」


 そうだよな。近くに他のホテルも無いみたいだったし、ここで一晩寝て、明日帰る。

 それでいいはずだよな? これは何もおかしくない。

 やましい事なんて何もない! 健全なお友達!

 女友達ってこういう物なんだ! うん、大丈夫大丈夫!


 俺は自分の戸惑いを強引に振り払い、フロントの女性にまた声を掛けた。


「一部屋……で、だ、大丈夫……です」

「かしこまりました」


 もう緊張のせいで、壊れたプリンターみたいな声の出し方をする俺。

 女性はガチガチに緊張していた俺とは対照的に、とても事務的な対応だった。


 その後、カタカタと滑らかに手元のキーボードを打ち込み、宿泊手続きを行なってくれた。

 それがあまりにも冷淡な態度だったからか、女性の腕だけが独立して動いて見える。

 本体の女性は、画面を見続けたまま瞬き一つしないせいか、マネキンのようだった。


「お部屋は、806号室です」


 受付の女性は淡々と話し始め、それから滞在中の外出や、チェックアウトの時間の説明を無感情に聞かされる。


 後ろにも他のお客が控えていたので、俺達はそそくさと部屋へ向かう事にした。


「わ、私、ビジネスホテル泊まるの、初めてかも……」

「そ、そうなんだ。俺も初めて」

 ちなみに、女子と泊まるのだって初めてだよ俺は!


 絨毯の敷かれた床を歩いて進む。足音はほとんどしない。

 エレベーターまでの廊下だ。左右どちらも壁で、閉塞的な空間のまま廊下は伸びている。


 伊十峯は、俺の後ろをちょこちょことついてきていた。

 やっぱり伊十峯小声は紛れもなく美少女だ。


 廊下ですれ違う他の客も、間違いなく伊十峯の顔を一度か二度は見る。

 それに、たまに胸部の豊かな膨らみにも視線を向けている気がする。男でも、女でも。

 女性であっても、伊十峯くらい大きな胸には関心があるのかもしれない。


 何しろ生まれたばかりの赤ん坊は、皆本能的におっぱいを吸って育つのだ。

 人類の母は、海ではなくおっぱいなんだなと俺は悟る。


 おっぱいこそ敬い、崇め立てるべき存在だ。この世界はおっぱいで出来ている。おっぱいなくして、人類の進化だとか平和だとか、輝ける未来はありえない。おっぱいに熱い血潮をたぎらせているのは何も男ばっかりじゃないんだ。女性もおっぱいが好き! そういう事だ! 何回おっぱいって言うんだよ俺。


 けれど、こんな馬鹿げた事でも考えていなければ、俺の早まる鼓動は落ち着きそうになかった。

 ただこの移動中、伊十峯は意外な事を口走った。


「ふふっ。ちょっと楽しいね」

「えっ?」


「あ、えっとね? 普段、こういう所って月村君も来ないんでしょ? 初めて入るところって、わくわくしない……?」


「っ!」


 うわぁぁ! やめろ伊十峯ぇ‼

 その「初めて」とか「入るところ」とか、伊十峯が言おうとしてる意味が、二通りの意味に聞こえてきちゃうから! 男子高校生には刺激強いよ‼ 「わくわく」っていうかこっちはドキドキなんだよおおおお!


 変態でごめんなさい。俺の想像力が、俺の想像をはるかに凌駕しているから仕方ないんだ。


「日帰りのはずなのに、お泊りになっちゃうなんてね……。ねぇ、月村君も、着替え持ってきてないよね? 寝る時の服、どうする?」


 伊十峯にそう言われ、俺はとっさにフロントで聞いていた説明を思い出す。


「あ、なんかそれは、寝巻き用のガウンが部屋に置いてあるってフロントで説明されて……」


 え、待って⁉ ガウン姿の伊十峯とか……想像しただけでやばいぞ!

 あ、ダメだ。いよいよ羞恥心で顔面から自然発火現象を引き起こす自信がある。

 考えただけでもう頭が熱い。

 ガウン姿なんて簡単にはだけちゃうよなぁ……そしたら……ああ! ダメだ、絶対ダメ! 想像するな俺!


「ガウン! ……私、そういうの着た事ない……」

「だ、だよなぁ。俺もない。というか、洋画で外国人が着てるの見た事があるくらい」


「うん。あっ、月村君、エレベーターここじゃない?」

「あ、ほんとだ」


 廊下を曲がってすぐ、二基のエレベーターが現れる。

 廊下の壁とエレベーターの扉が同色になっていて、伊十峯に言われるまで気付かなかった。


「あ、そういえば、伊十峯夕食どうする?」

「夕食……ロビーのところにあったレストランで食べる?」

「レストランあったんだ。全然気が付かなかった」

「レストランはあんまり混んでなさそうだったよ?」

「そっか。じゃあ部屋に荷物だけ置いて、食べに行く?」

「うん!」


 それから俺達は、フロントで聞いた「806号室」に無事到着した。

 無論、ずっと俺の心臓はドキドキしている。


 ――ガチャッ。


 重たいドアを開けて、「806号室」の中へ入る。


「えっと、電気電気……よし、点いたっ」

「……えっ!」

「ん? どうしたんだ? 伊十み……え⁉」


 電気を点けて入ったその部屋は、なんとベッドが一つしかなかった。

 俺はポカンと口を開け、言葉を失う。


「……」

「…………」


 待って待って? ダブルベッドなんて言ってたっけ⁉

 フロントの人からそんな説明あった⁉

 部屋番号間違えて……それはないか、鍵使えたし。

 緊張で聞き逃していたのかもしれない……のか?


「だっ、大丈夫だよ伊十峯! 俺はその椅子で寝るから!」


 伊十峯の様子に気が付き、俺はすぐさま紳士的な発言をした。


「え、で、でも月村君……それ、勉強机の椅子だよね……?」

「あ、平気だよ、このくらい! そ、それよりもレストラン行こう!」


「え、でも……」

「とにかくご飯食べよう? お腹空いてるだろ?」

「そ、そうだね!」


 伊十峯に指摘された通りだった。

 俺が寝ると言った椅子は、部屋に備え付けてある机に入っていた椅子だった。

 背もたれが木製で出来ていて、少しだけ外側に反っている椅子だ。


 仕事や勉強用に座る物であって、決して睡眠を取る用のソファなんぞではない。

 こんな所で睡眠を取るのは、自殺行為に等しい。

 翌朝は、肩や背中が漏れなくバキバキになるだろう。でもそこにしか俺の居場所は無い。


 あんなダブルベッドの中で伊十峯と一緒に横になろうものなら、それはもう一種の事件だ。革命だ。理性の決壊だ!


 お互い変態の素質に目覚め始めている十代の男女を、同衾(どうきん)させてはならない。一体何をし始めるかわかったもんじゃない。ある瞬間においては、お互いの性別が入れ替わってる可能性すらある。


「まだ空いてるといいね!」

「ああ、そうだな……」


 部屋に荷物を置いてレストランへ向かう途中も、俺はそんな風に自分を戒めていた。

 紳士でいる事を、固く心に誓え! 正念場は一晩だけだ!


 レストランへ向けて先を歩く伊十峯。

 その後ろ姿を見ていると、たまにふわりと優しく甘い香りが鼻先へやってくる。

 伊十峯の長い黒髪から放たれている香りだ。


 ……あ、ダメだこれ。すでにこの匂いだけでドキドキしている俺がいた。

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