52 初めて海を見た記念
伊十峯は麦わらの手提げ鞄からそこそこ大きなタッパーを取り出した。
前に学校で見た伊十峯の弁当箱ではなかった。たぶんあれは一人用なんだろう。
「いやー、それにしても海! 気持ち良いなぁ~!」
広大な海を前にして、俺はなんとなくそんな事を言いたくなった。
普段全然来られない場所だからこそ、言っておきたかったのかもしれない。
海でしか言えないセリフってあるよね。と、そう思って、頭に浮かんだ言葉を海風に溶かしてみたくなったんだと思う。
「そうだねぇ~。水平線がすごい綺麗だよね」
「だな~。あ、ヨットに乗ってる人もいるんだ」
俺達は、真っ青なその大海原を眺めながら会話していた。
視界の奥まで果てしなく続いていて、何通りもの青さがそこで折り重なっているんだ。
これは感傷的になるのもおかしくない。
「空は晴れてるし、風は心地良いし、言うこと無しだなぁ」
「ふふっ」
「ん? どうしたんだよ伊十峯?」
「え? あ、あのね……なんだかおかしくって……ふふっ」
「え? 何が?」
「この前、私の部屋であんな事してたのが嘘みたいで、ちょっとおかしいなって……あははっ」
「なっ⁉」
こんな時に何を言ってるんだよ伊十峯⁉
そういう事は今言わないで!
シチュエーションが台無しですけど!
「こ、このロケーションが良いのは確かだよな!」
「ふふっ……。うん! それはもちろん! じゃあ月村君……、今日はハヤシライスじゃなくて……私のお弁当……食べて?」
伊十峯は、そう言って、いつの間にか開けていたタッパーを俺に差し出した。
「食べて?」の言い方が可愛すぎて困るんですけど、伊十峯!
なんで少し頭を下げて、訴えかけてくるようにこっちを覗き込むんだ……。ずるいだろ。
「た、食べるよ! いただきます!」
背筋をぴしっと伸ばして胸を張り、俺は礼儀正しくタッパーに手を伸ばした。
中にはカツサンドがみっちり入っていて、「あ、ハムカツ作ったのって、カツサンドだったからか」と冷静に心の中で思った。
「なかなか分厚いね! 食べ応えありそう! それに量もあるね」
「うん! 月村君、いっぱい食べるかなって思って作ってきたから」
「俺の胃袋も限度があるけどね! ありがとう伊十峯!」
「ど、どういたしまして!」
それから俺は、伊十峯のお手製カツサンドをありがたくいただいた。
いや? 「いただく」というより、「食らいつく」という方が正しい表現かもしれない。
何しろ、挟んでいたパンそれ自体が、まず分厚い。
分厚さのせいで顎が外れるかと思うくらいだ。
美味しいサンドイッチ屋さんとかで出されるような、これ絶対中身こぼれちゃうだろ的な、あのわがままな分厚さだった。
「んぐ……え、うま! かなり美味しい! ハムカツとこのソースの味がすごく良く絡んで……もご……うまぁ!」
「ほんと? よかったぁ……。ふふっ」
俺が褒めると、伊十峯は無邪気に笑うのだった。
「伊十峯も食べなよ」
食べる様をじっと見つめられて、俺は少し恥ずかしくなった。
その恥じらいをごまかして、俺も伊十峯に提案する。
「え? 私?」
俺は伊十峯の言葉にコクンとうなずいて応える。
顎を外す覚悟で俺も食べたんだ。
さぁ、伊十峯も顎を外す覚悟を!
自分のお手製カツサンドをどうやって食べるのか、是非見せてもらおうじゃないか⁉
「じゃ、じゃあ、食べようかな……」
伊十峯は、何の迷いもなくタッパーからその分厚いカツサンドを取り出した。
え、マジで? 伊十峯の口は小さいから、たぶん俺より食べづらいと思うんだけど。
一体どうやって食べるんだろう? 純粋に気になる。
俺は、この時ばかりは伊十峯の口元から目が離せなかった。
海水浴場の護岸という、この眺めるべき景色がたくさんある中で。
「いただきます」
伊十峯は、サラッとそう声に出すと、カツサンドを遠慮なく口元へと運んだ。
「……」
「……あむっ」
「……あ!」
伊十峯は、上のパンの部分だけをまず食べ始めたのだった。
あ、なるほど……。
それから、上のパンを食べ進め、今度は相対的に飛び出してきたカツと下のパンを一緒に食べる。
普通にその手があったじゃん俺。
というか、作っておきながら伊十峯も分厚い事は気付いていたはずだ。
「月村君、どうしたの?」
「え、いや、なんでもありません……」
「……?」
海の風がそよそよと吹く中、伊十峯と肩を並べて口にするカツサンドは、この上なく贅沢な味だった。
遠くから、寄せては返す波の音も響いてきていた。
空を海鳥か何かが飛んでいて、その鳴き声も時々耳に入る。
そんなひと時に海の風情を感じていると、
「月村君……」
伊十峯は唐突に俺の名前を呼んだ。
「何?」
「そ、その……この前はごめんなさい」
「この前?」
伊十峯がどの事を謝っているのかわからず、俺は聞き返した。
「あの……目隠しの時、私だけ途中で終わっちゃったでしょ?」
「えっ、いやいいよ。それは!」
「……」
伊十峯は食べかけのカツサンドを手に持ったまま、ただ黙り込んでいた。
ていうか待って⁉ なんだか俺が、目隠しをした伊十峯にハヤシライスを「食べさせたかった男」みたいになってないか⁉
全然違うぞ伊十峯! ……い、いやちょっとはその気持ちもあったけど……。
ううーん、悩ましい! ……今更、伊十峯相手にこの手の変態性を否定するのもおかしな話なんだろうか。
すでに「食べさせられる」方に関しては、一皿完食までいっちゃったしなぁ……。
「それにさ、伊十峯! あの時、ちゃんと俺は全部お昼ご飯をご馳走になっちゃったし。それに今日だってこんな風に、伊十峯からお弁当をもらえて……その、えっと、なんていうか……すごく嬉しいというか……。十分だよ!」
俺は、自分で言っておきながらだんだんと恥ずかしくなって、頬をぽりぽりとかいていた。
「月村君……」
「あ、でも、あの時さ……」
ネクタイで目を隠していたあの時、俺は少しだけ考えていた事があった。
「何?」
「あのまま、直接ASMRっぽく声を聴かせてもらう事も出来たんじゃないかなぁ、なんて考えちゃったりしてて……」
「え⁉」
俺の言葉を聞いて、伊十峯の顔も恥じらいの色に染まる。
「あ! ご、ごめん! いやほら! あれってダンボール被ってる時と同じで、目は隠してるだろ⁉ 顔は隠しきれてないけど……。だ、だからその……あの状態なら伊十峯も問題なかったのかなぁ、なんて単純に思えてきて……」
「……」
「ごめん! やっぱり無理だよな!」
俺は、自分で言い出した事に見切りをつけ、手にしていた残りのカツサンドを頬張った。
やはりこの伊十峯の手作りカツサンドは絶品だ。
外で食べる事で、一層上手い気もするし。
「……」
俺がカツサンドを口にしている間、伊十峯は口を閉じたまま、じっと俺の事を見つめていたようだった。
何を考えていたかまではわからない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伊十峯のカツサンドを二人で食べ終えたあと、俺達は浜辺周辺のお店をいくつか回った。
大した物なんて別にない、田舎のちょっとしたお土産屋ばかり目につく。
けれど、伊十峯とあちこち回るこのお出掛けは、純粋に楽しかった。
自分の過去のしがらみなんて忘れてしまうくらい、その時だけは俺も楽しめていたような気がする。
楽しい時間は過ぎるのもあっという間で、空に高く張り付いていたはずの太陽も、気が付けば水平線の彼方に沈み始めていた。
「なんだか風が強くなってきたね」
「そうだなぁ……。そろそろ帰ろうか? 伊十峯」
「うん。いつの間にか日も落ち始めてきてたね!」
俺達は駅までの道を戻る事にした。
「一日なんてあっという間だったなぁ~」
「うん。なんていうか、ちょっとだけ寂しいね……」
「そうだなぁ」
駅までの道は、沈みかけた夕陽によってあかね色に染まっていた。
空をカラスが飛んでいた。
そんなノスタルジックな景色の中を、俺達は駅まで歩いていった。
「これ、買えてよかった!」
「え? あ、ああ。それね!」
伊十峯は、ピンクのクジラのキーホルダーを俺に見せた。
今日お土産屋で買ったものだ。
結構可愛らしいクジラで、なんとなく夢系女子のテイストが入ってるような気がした。
「記念だね、伊十峯」
「記念?」
「ああ。引っ越して初めて海を見た記念!」
「あ、確かに! そうだね!」
俺は少しだけ、そのセリフが自分らしくない発言だな、と思いつつそう発言していた。
駅までの道を歩きながら、俺は今日の事を振り返っていた。
伊十峯は、今日一日楽しく過ごせたんだろうか?
その疑問に「絶対楽しく過ごせていたはずだ!」と気持ち良く答えられない俺自身が、俺は歯がゆかった。
だから「記念」という言葉を使ったのだ。
伊十峯の中で、今日の事が良い思い出として残ってくれたらいいなと思って。
ちょっとでもいいから、思い出として残ってくれたら。
「え、あれ⁉」
「ん? どうしたんだ? 伊十峯」
駅に到着して、駅舎の中に入ると、伊十峯が何かに驚いたような声をあげた。
伊十峯の見つめる視線の先に、俺も自分の目を向ける。
「……え⁉」
「つ、月村君、これ、ど、どういう事⁉」
そこには電車の案内板が吊り下げられてあったが、なんと全て運休になっていたのだった。
「ど、どど、どうしよう⁉ 月村君っ⁉」
「あ、ちょ、ちょっと待って! 落ち着くんだ伊十峯。とりあえず案内板の、ほら、あの下の所でテロップみたいに流れてる文字が……」
「……強風の影響で、今日ダメ……みたいだね……」
強風⁉ 確かに風強かったけど、そんなに⁉
俺と伊十峯は、その案内板を見て、しばらく呆然と立ち尽くしているしかなかった。
「スマホで何かわかるかなぁ……?」
伊十峯は困惑しながら、自分のスマホをいじった。
その姿にハッと気が付き、俺もスマホで急いで調べてみる。
すると、どうやら今夜、この辺りに台風が接近しているという情報がわかったのだった。
「た、台風……!」
俺がスマホを注視しながら思わずそう口にしていると、
「ええー、今日運休なのぉー⁉」
後ろから別の人達がやってきて、俺達と同じように落胆の声をあげた。
俺達より少し大人っぽかったので、どうやら大学生カップルらしいと思った。
「ほらな? やっぱり今日台風なんだってば~。もう一泊泊まってってもよかったじゃん? へへっ」
男女どちらもその肌は日に焼けていて、何日か海水浴に来ているらしい事がそれとなく理解できた。
「うーん……まぁ、それもそうだねぇ。じゃあ戻ろっかー」
「うんうん」
そう言い終えると、その大学生カップルはすぐにまた駅舎を出ていったのだった。
「……どうする? 伊十峯……。バスとかで帰る?」
「も、最寄りのバス停は十七時で最後だったと思う……」
「マジで⁉ 困ったなぁ……」
電車はダメ。しかもバスもダメかよ。田舎恐るべし……。
でもどうしよう、本当。
「つ、月村君!」
「は、はいっ!」
突然大きめな声で名前を呼ばれ、俺の肩に力が入る。
それから伊十峯は顔を赤らめ、俯き気味で言葉を続けた。
「いっ、今の人達って、きっとどこか近くで泊まってきたんだよね……?」
「あ、ああ。話してた内容的に、そんな感じだと思うけど……。あ、どこか泊まれそうな所探す……?」
「……う、うん! そ、それがいいと思うの……」
伊十峯は麦わらの手提げ鞄を横にフリフリしていた。
っ~! またそんな可愛い仕草を。無駄にドキドキするからそれ!
泊まる所って言っても別室だよな⁉ 当たり前だけど!
「じゃあもうここ出よう。早くしないと、日が暮れる!」
「あ、そうだね! 急がないと……」
そんなわけで、俺達は急遽自分達の寝泊まりする所を探したのだった。




